caguirofie

哲学いろいろ

作り話

Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 作文であり物語であると考えているのであれば、やはり信仰とは言えない。
 やはり彼らは神を信じてはいない。
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 ☆ 《作文》といった場合はいざ知らず 《物語》という場合には そこから《信仰》につながって行くことは大いにあり得ます。

 《神話》としての物語の場合を考えても 分かるのではないですか。

 

 そして前回の回答の中にもすでに 次のような説明を入れています。

 ☆☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを〔イエス・キリストは〕知らしめた。

 つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。
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 ☆ こういう仕掛けが 聖書の記事にはつくられています。《言葉や思考を超えて》です。


 すなわちその例として:
 ☆☆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 水の上を歩いたというようなおとぎ話にしても 《嵐》に遭ったときにはつねに わたしだ おそれるな と言って元気づけてくれる存在がいることを示している。そういう作文であり 物語である。
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 ☆ すなわち《水の上を歩く》などというのは ウソです。作り話です。そしてそのウソというものの位置づけについても 説明して来ています。

 ○ 人間の現実 = 事実 + 真実〔事実の写し + ウソ(想像・虚構)〕

 この 《人間の・わたしの真実 〔・・・ウソ(想像・虚構)〕》という部分で わが心の《非思考の庭(つまり 信仰)》につながるところが出て来ています。

 すなわち 《心としての・心における〈嵐〉に遭ったときに わたしだ おそれるな と言って声がするという存在》 このことをそのウソなる物語がしめしています。これは 現実です。

 もし仮りに
 ★ イエス・キリストも含め皆架空の人物であ
 ☆ ったとしても 同じことです。物語としての有効性は そういう性質のものであり ゆるぎません。


【Q:アルケーの神は偉大なり】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6670852.html
 ☆ ANo.20 bragelonne 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 もしアルケーの神を感じる者であるなら すべての問い返しについて答えることが出来るのではないですか?
 自分に都合のわるいことには答えられない。
 人のまともな回答に対してまともに答えられないで いったいどういう神を感じているのですか?
 それが 人の道なのですか?

 投稿日時 - 2011-04-18
★ お礼 Hitonomiti 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (削除されたが つづく回答に次のようにコピペーしている)。

 あのなあ、
 分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとあいまいなことをゆーよりは遥かにマシであるとゆーとく。
 
 ☆ A�・22 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 それでは――つまり ほかと比べてよいとか ましとか言うであれば―― 《絶対》なる《偉大》ではないではないですか? 

 というよりも けっきょく《絶対》については 仮りの説明しか 人間の言葉では出来ないということをまづ認めるところから始めなければならない。のではありませんか?

 それとも《神を感じる》というのは それだけのことであって あとは一切その神について言葉による説明は出来ないということですか? では何のために神は偉大であるなどと表明しなければならないのですか? 自由ですが あまりにも子供の遊びじみています。

 どうか最後まで《人の道》をまっとうしていただきたい。

 投稿日時 - 2011-04-18

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 アルケーの神は唯一絶対であり、これ以外に神は存在しない、また存在してはならないのである。
 アルケーの神が存在することは全宇宙的真理であり、これを否定することは出来ない。
 アルケーの神の存在は絶対的であるが故に「人の道」は朝起きてから、夜寝るまで四六時中、アルケーの神と共に暮らしておるんや。
 
 ☆ A�・26 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ほんまにこんなこと(=前記お礼欄)を言いたいために質問してるのですか?

 ☆ むろん 良心・信教の自由にもとづき 自由ですよ。ただしそれだけなら どこの宗教の信者でも名前を変えて言いそうなことだとは思わないのかなぁ。
 ということは たとえばの話 その神学を 哲学として比較して普遍性を明らかにしておかなければならない。と思いませんか?
 だから 子供じみていると言っています。そういう信仰宣言は自由ですが そこまでのことだという意味です。《信じる》のではなく《感じる》のだとも聞きましたが 一般にはこのような表明は 信仰の宣言と言います。

 要するに いいですか? これだけでは ただのタコ壺宣言であるに過ぎません。そう見ることはできませんか? 見ることができなければ そのあなたの主観が共同性を持つかどうか 分かったことではないではないですか? 感じるのではなく そうではなく 感じさせることをしなければ始まらないし その感じるというコトが普遍性を持つということを論証しなければ始まらないのです。

 やっかいやなぁ。

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 やっかいなことは何もない。

 アルケーの神を感じるのは「人の道」に限らず、人間だれでも感じることができる。

 例えてゆーならば、アルケーの神は空気のよーなものでこの地球上のどこにおいても我々はアルケーの神と接しておるのである。

 ただそのことに気付いていないだけである。

 これに気づくよーになるには「人の道」が教えるよーに、真理を探求すればよいのである。

 「人の道」の教えに従い真理を探求すれば、アルケーの神が唯一絶対の神であることが分かり、アルケーの神を感じるよーになるんや。

 ★ 同上・補足 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
 アルケーの神を感じるにはどーすれば良いか。

 「人の道」は説いております、真理を探求する以外にアルケーの神を感じる方法はないと。
 アルケーの神は真理を探求する心に近づいてくるが、漬かろーとする心からは離れて行く。

 ☆ A�・28 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 このように《神が普遍の存在であり 遍在する》ことは誰もが知っていることです。想定における定義からして そういうものなのです。
 だから その神の遍在について実際のところを――つまりは《真理の探究》の結果として・あるいはその途中経過として―― みながそれぞれ自分の経験と思索にもとづき その成果を述べ合っているのです。
   ★ アルケーの神は偉大である
   ☆ 分かっています。どのように偉大であるか? あるいは しばしば人間にとってはその偉大さが分からなくなるときもある。よって このようにかのようにわたしは探究しており その成果をこれこれのように明らかにして伝えたいうんぬんと述べるのが 人間のコミュニケーションというものなのです。

 それが出来ないというのであれば 決して神を感じているとは限らないのです。タコツボ神学であり 子どものあそびであるに過ぎません。どんなインチキ宗教でも 
   ★ アルケーの神は偉大である
   ☆ と――その神の名前こそ違っていても―― 堂々と明らかなかたちで言っているのです。

 そこのところが分からないようでは 困ったものですね。

 ★ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  (答えは なし)

 ☆ ANo.32 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 もし回答者の議論に考え違いや筋の違いがあるようだったら そのことを指摘し これこれこういうふうであるとその事情を示してやらねばなりません。
 神を感じ人の道をあゆむあなたであれば。

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 神を感じ人の道を歩む者は、分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとちゃらんぽらんなことをゆーたりはしません。

 ☆ ANo.36 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ★ 分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどとちゃらんぽらんなこと
  ☆ ゆえに そのナゾについて或る人は それは神である。アルケーの神であると――良心・信教の自由にもとづいて――宣言するのであるし また或る人は それは無い神である。創造主などという神はいないと――同じく表現の自由にもとづき 先の有神論とまったく対等に――宣言するのです。どちらも 自由な信仰です。
 有神論の中にその神の名前がちがっていたりしても それは無神論とも同じく 《ナゾをめぐる非思考の庭》が成った状態であるのです。

 そのように普遍性をもった理論でなければ 人との交通に入れません。
 あなたの一般的に言えば信仰宣言は 自由でしょうが それだけにとどまらず そこから一歩ほかの人に対して・社会に対して開かれて行ってください。
 いちど触れましたように イスラームでも《アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)》と言っています。どう同じでどう違うか これをしっかりと明らかにして初めて社会の中における神学となります。
 どうかそのようにみづからの広義の信仰を活かすようにしてください。

 神の全知全能を その神を感じる人は どこまで与えられているのか。どこまでその偉大さの内に浴しているのか。そういったことを みなさんは知りたいと言っているのです。一歩踏み出してください。

  ★(趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~
  アルケーの神は唯一絶対である、
  ・・・
  アルケーの神は偉大である

  これを否定できる者などおるまい。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 否定できるかどうかは 問題ではありません。その信仰は まったく無条件に自由だからです。またそれは 基本的に主観の内にとどまることだからです。この宣言までは 無条件に認められます。
 上に触れましたように 中には そんな神などいないと言って――否定というよりは――自分の信仰形態は別だと言いたいし 事実上言っていることになる反応もあり得ます。それも自由ですし ですからほんとうは そこから 互いの信仰内容が実質的に問われることになります。
 というように 非思考の庭がわが主観の内に成ったという場合には こんどはその自由と自由との交通が始まるのでなければウソです。人間は 社会的動物です。交通において ご自分の神学を広く活かすようにしてください。

 投稿日時 - 2011-04-19

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 長々と語っておるが、要するに何であれ信仰するのは自由であるが普遍性をもったものでなければ人には受け入れられんとそー言いたいんであろう。
 そんなことは当たり前であり、言わんでも皆分かっておる。

 分かるか分からないかが分からないナゾの何んたらかんたらなどと分けの分からぬことをもーすものが、他者にはよーこーゆー真っ当なことが平気で言えるもんやと呆れ果てておる次第である。

 しかしそれは脇に置くとして、思い違いがある。

 アルケーの神は信じるものではなく、感じるものとゆーておるにも関わらず、なぜこれを信仰と見做す。
 「人の道」はこれを信仰であるとは一言もゆーておらんが。

 ★ 補足  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
   >普遍性をもった理論でなければ 人との交通に入れません

 普遍性をもつ神はアルケーの神以外にはおりません。
 なぜなら唯一アルケーの神のみが感じることのできる神だからである。
 アルケーの神は全宇宙空間に渡り存在する神、
 アルケーの神は全人類を包み込む神、
 アルケーの神は信じる神ではなく、感じる神である。
 
 投稿日時 - 2011-04-20

 ☆ A�・38 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ★ ・・・そんなことは当たり前であり、言わんでも皆分かっておる。
  ☆ 分かっておることと それを実行していることとは 別である。

  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  アルケーの神は信じるものではなく、感じるものとゆーておるにも関わらず、なぜこれを信仰と見做す。
  「人の道」はこれを信仰であるとは一言もゆーておらんが。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 《感じる》のは 自由です。信じるのではないと言いますが 《考える》のでも――基本としては・つまりその初源のかたちにおいては――ないのでしょう? だったら 《信じる》と言うしかないのです。そのあと 《感じる・あるいは 見た》が来ます。

 ではその《感じる》は いったい何を感じたのか? 
  ★★(趣旨説明) アルケーの神は永遠無限である、
  ☆ たとえばこの《無限》ですが 無限と言えば それを二で割っても三で割っても やはり商は無限ですよ。そういう想定です。つまりこの想定内容をいったいどう《感じる》のでしょう?
 永遠無限を感じるという表現はむろん出来ますが そのことの事実としての一般性はありません。比喩だからです。あるいは仮りに事実であったとしても 主観の内にとどまることだからです。
 きよらかなおそれを持って それくらいの謙虚さは必要でしょう。つまり おまえの主観においても必ずこのアルケーの神は感じられるはずだよと言いたいとしても まづは・取り敢えずは です。

 まづ先に《感じる》が来るのではないとして その神は他方で 《考える》でもありません。ほんとうには考えるではありません。想像したのだから 考えたのだと言って言えなくないでしょうが 考えるの対象ではありません。
 考えるや想像するというような経験思考をいっさい超えたところのナゾを――あたかも賭けのごとくに 受け容れるもしくは 無い神として受けとめることとして――心にいだくという意味の《信じる》しかないのです。ナゾであり 《まぼろし》なのです この悲しいかな うつろいゆく人間にとっては。

 想定するときに 考えたし想像したであろう? と問われれば そうですと答えます。ただし 考えたからその想定内容がある(もしくは ない)というのではない。ここが みそです。
 永遠無限はもともと ある(もしくは無い)と想定されるのです。有るとも無いとも人間には決められないからこそ 永遠無限です。
 《絶対》とは何であるか これは分かるか分からないかが分からないのです。人間に分かったなら それは神ではありません。人間の想像の産物であることになるからです。
 もしその神があわれみに満ちいつくしみあふれる存在であるなら きよらかな心の庭にはいつかそっとおとづれて その存在と力を感じさせてくれるかも分かりません。知恵をそっとさづけてくれるかも分かりません。
 感じた人 さづかった人は ようく心して 他人(ひと)にそのことを伝える。こういうことでしょう。それには 普遍性を持つものであることを哲学として――経験合理性において――述べて行かなくてはなりません。

 信じたあと 人によってはその主観の出来事として この神を感じたであるとか あるいは見ただとかという自己表現を持つこともあります。ありますが それは 主観内面におさまることです。(他人にしゃべってもよいのですが そこまでだという意味です)。
 だから 神を感じた・見たということを伝えたいのであれば 問題は その神をまづ非思考において受けとめているその信仰のありようが問われます。そのありようが普遍性を持つかどうかにかかっています。信仰の形態が 果たして普遍性を持っているかどうかの試練に耐えなければなりません。

 だからたとえば 質問者さんの場合 アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)と唱えるイスラームとの違いをしっかりと明らかにして普遍性をうったえなければ話は始まらないでしょう。(同じなら それでもよいはずです。また イスラームだけではないはずです けっきょく)。
 これが こころを社会に開くことであり 信仰とは信じるというのではなく信じさせることだという意味です。どうですか?
 
 このように表現すれば その表現者としてのわたしは なるほど普遍であり遍在する神を信じておりその非思考の庭としての信仰に立ってものを言っているなと思われることでしょう。

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 あんたは当の本人が感じるとゆーものを、いや信じておるに過ぎんとゆーておる。

 わしがこのビールは旨いとゆーと、いやこのビールは旨いと信じておるとゆー。
 わしが腹が痛いとゆーと、いや腹が痛いと信じているとゆー。
 わしが転んでも足が痛いとゆーと、いや足が痛いと信じているとゆー。
 わしがこの本は面白いとゆーと、いやこの本は面白いと信じているとゆー。
 わしが雪が降って寒いとゆーと、いや雪が降って寒いと信じているとゆー。
 わしが喉が乾いて水が飲みたいとゆーと、いや水が飲みたいと信じているとゆー。
 わしが腹が減ってカツ丼を食いたいとゆーと、いやカツ丼を食いたいと信じているとゆー。
 わしがアルケーの神を感じるとゆーと、いやアルケーの神を信じているとゆー。
              ・
              ・
              ・
 全てこーゆー具合に人の感じることを、信じているのだとゆーのか。
 全てこーなるんか。

 ☆ ANo.39 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 あまり長く書くと 注意が分散するらしい。

  ★(No.38お礼欄) あんたは当の本人が感じるとゆーものを、いや信じておるに過ぎんとゆーておる。
  ☆☆(回答No.38) 《感じる》のは 自由です。信じるのではないと言いますが 《考える》のでも――基本としては・つまりその初源のかたちにおいては――ないのでしょう? だったら 《信じる》と言うしかないのです。そのあと 《感じる・あるいは 見た》が来ます。

  ★(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ビールは旨いとゆーと、いやこのビールは旨いと信じておるとゆー。 / わしが腹が痛いと / 足が痛いと / わしがこの本は面白いと / わしが雪が降って寒いと / わしが喉が乾いて水が飲みたいと / わしが腹が減ってカツ丼を食いたいと ゆーと、いやカツ丼を食いたいと信じているとゆー。

  わしがアルケーの神を感じるとゆーと、いやアルケーの神を信じているとゆー。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 仮りにぜんぶが経験事象であるとしましょう。そのとき最後のひとつだけは ふつうに経験できることとは違うはずです。違わないという場合 それは どういう性質のことであるかを調べれば分かります。

 ビールが旨いに反対して まづいと言う場合 / あるいは 腹が痛いを疑って 仮病だろう? と言う場合 それらは いづれの場合も そうであるとそうではないとの二つの答えがありえます。然りか否か二つとも一般にはありうるという判断が前提となっています。面白いかどうかなどは その程度問題であるとも言えます。ですが 前提の内容としては すべて経験事象であることが 検証しうるという性質であるからです。

 アルケーの神を感じることが 体験できることであり皆もじっさい感じているとしましょう。そうすると それはどのように検証しうるか? これが問題です。

 みなが一人残らず声をそろえて《その神を感じるゥ》と大合唱すれば 検証できますか? 
 ばかなことをいつまでも言っていてはいけません。
 神は非経験に属します。だから まづ先に《信じる》が来るのです。《考える》のでもありません。

 無限は それを二で割っても三で割っても 答えはやはり無限です。そういうふうに想定し説明するわけですが 実際にはこのことを人間が感じることはありません。出来ません。しかも人間の言葉というのは そういうあり得ないようなまぼろしについても表現できるようになっています。ただし 仮りの代理表現だという前提が やはりあります。
 仮りに《唯一絶対 / 全知全能 / 永遠無限 / 永遠不変 / 永遠不滅 / 偉大である》ことを感じるとしましょう。ではどのようにそれを検証しますか? これらについては 《何となく旨い》とか《ちょっと寒い》とかいう程度問題ではないのです。仮りにたとえれば 《本が万人にとっておもしろい。もしくは 絶対的に面白くない》といった性格に少しは似ています。でもどうやって検証しますか? 
 神なら出来るかも知れません。でも人間がどのように答えますか?


 この一件にのみしぼったほうがよいでしょう。

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 あんたはいわしの頭が神であってもよいと言うた。
 いわしの頭を神とするとき、神は非経験なのか。

 ☆ A�・40 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
  ☆ 非経験を神(もしくは 無い神)と言う。ここから始まります。わたしは
  ★☆ いわしの頭が〔その非経験のナゾなる〕神〔の名前〕であってもよいと言うた。
  ☆ のです。

 
 われわれ人間の《ことば》というものは 考えてみれば不思議なものです。
 いつもわたしが思うことは 《いなづま・いなびかり・いなつるび》という表現です。
 あの空における放電現象を 稲が育つためのエネルギであるというかのようにその昔の人びとは捉え表現した。《妻(夫?)》と言うからには《つるび》があるということのようです。
 現代では 《ことだま》と言えば《言霊》と書いて けっきょく《言葉には霊力があって 言い出しただけでその力が伝わりはたらくことがある》という意味で使っているようです。そうではなく 昔は――わたしの見るところ―― 事霊(ことだま)と言ったはずなんです。もろもろの自然現象ないし人間のいとなみも含まれるところの社会現象に霊力がやどっていると見たのでしょう。そのはずなんです。
 《稲光》という言葉があるから・またそう口に出して言うから その隠れたたましいがはたらくというのではなく そうではなく 神鳴りとしての雷というコトがみづからに霊力をやどしている。こう見たはずなんです。

 だからまんざら 神を表わすために使われる言葉は その事由がないわけでもないのでしょう。確かに《いわしの頭》という名前をつけても何ともないというのは 言い過ぎでしょう。けれども さらに考えてみれば 神鳴りとしての雷そのコトが アルケーの神そのものではありません。雷は いかにそこに霊力がやどると言ったとしても・そのことが真実であったとしても やはり神の仮りの姿なのではないでしょうか? おのぞみならば 分身と言っておけば分かりやすいでしょうか。

 ですから 《ことば》には それに経験的な事物が対応するものと そしてそうではなくまったく対応するものがない(有るか無いか分からない)ものとに分かれると思われるのです。
 いくら《感じる》と言っても――つまり感じるというのなら 確かに対応する経験事物があるはずなのですが あったとしてもそれすらも 仮りの代理物だと考えられ―― やはり直接的なまた科学的にその事実が検証されうるような対応には成っていない。つまりたとえ成っていたとしても 人と人とが言葉による対話をつうじることのみによって 分かり合えるというには あまりにもナゾでありそれこそ霊力であり神秘です。
 そうはお考えになりませんか?


  ★ アルケーの神は偉大である。〔また その神をわたしは感じる〕。
  ☆ ということと そのことが他人に伝わるかどうかということとは きわめて微妙な違いを持っていると考えられます。あるいは違いなのではなく つねに互いのあいだに直接の話し合いは出来ないという溝があるかに思えます。ぎゃくに言えば溝があるだけで 人は神のおぼえよかりせば その溝を難なく超えて 他人にも伝え得るということであるかも知れません。あるいはむしろ それは言葉によるのではなく《香り》としてであるかも知れません。
 いづれにしましても この人と人とのマ(間合い)に留意して また間接的な関係であるかも知れないといった溝にも注意を向けて――それが開かれた神学としての哲学だと考えますから―― われわれは一歩を踏み出さなくてはならない。

 日本人は――わたしの見るところ―― 世界のほかの国の人びとと比べれば割り合いに開かれているとおもうのです。これからです。

 ★ お礼  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 するとこーなる訳や

 いわしの頭の神
 犬のしっぽの神
 猿のふんどしの神
 タコのいぼの神
 鶏のとさかの神
  ・
  ・
  ・

 何でもござれと、
 ただ非経験であれば何でもよいと

 タコを見たことも食ったこともない人間にとってはタコのいぼが神になるなー
 あ〜、おもろいなー
 あ〜、疲れるなー

 ★ 補足  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 分かるか分からないかが分からないそのナゾの何ものかの神とは、こーゆーものである
 
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