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哲学いろいろ

受動意識仮説への批判

 1. 意志行為に関して 右手を動かすかどうかという主題は 意味がないのではないか。

 2. たとえ思弁的なことがらであっても 生活の中でどう考え結論としてどう行動すると考えるか こういった人間の自己表現としての意思決定に沿ったことでないと 何とも言えないのではないか。

 3. あるいはこれは そのまま受け取るなら 意志による判断つまりその決定作業が 意識にのぼっていない前から 脳内活動として起きている。と言うのでしょう? それを無意識と呼ぶというのでしょう? 呼んでもいいでしょうけれど それも 意志行為ですよ。

 4. あるいは 記憶および知解の両行為とも合わせて 人格としての自己表現の動きです。それぞれその一端を担い 同じことですべてがそれぞれ一環を成しています。ことさら《無意識》の部分を取り立ててもしょうがありません。

 5. わが意識が感知あるいは関知していない部分だからと言って なぜその部分だけを取り立てるのでしょう? 意識に わが意志行為にとっての優越的な地位を与えようとすることが たぶん おろかなことであるのと同じように 無意識の部分にぎゃくに優位性を付与するというのも おそらく いただけないことではないでしょうか?

 6. 要するに 《わたし》は《わたし》という人格の全体で 世界にあって自己表現し他者と交通しあって 生きています。なぜ部分を拡大しようとするのでしょう?

 7. したがって 部分として取り上げるなら 《非思考の場》なのです。部分であるのでしょうが それは 先験的(超越論的)であるならそのことによって やはり人格の全体に対応していると考えられます。心の明けもしくは伸びを――つまり平たく言って その瞬間のひらめきを――或る種の仕方でひとは拠りどころとして みづからの表出や表現を得て生きて行く。

 8. 無意識というのは この先験的な非思考の場のあとの経験的な意志行為の中の一環です。しかも 非思考の場という仮説によれば つまりそれがいわゆる信仰なのですが この信仰は いわゆる有神論のほかに それと同等の信仰として無神論をも含むと見る仮説です。

 9. もし無意識を取り立てるという場合には 経験思考――ただし 意識にのぼる前の段階をも含めた広い意味での思惟――に属すものなのに あたかもそれが神のごとくひとを行動に促したり制御したりしてみちびくという仮説の内容に成りがちである。これが 観念の神です。想像の産物としての神です。