caguirofie

哲学いろいろ

#5

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§14――

すなわちわれわれは ボブやアンが ( A−1/ A−2 )の場合のような擬制の愛に陥る原因にかんして 次のような理由を見出すことができる。すなわち逆の言い方をすれば ボブは自らの宇宙体験において 《存在することの支配者のようにさえ現れる孤独な身体》であっても そこで間髪を入れずに同時に 孤独関係すなわち他者アンとの差異関係をも見出しているのならば 原理的な実現不可能性のもとにおける愛の原型を保持しうる。と思われる。しかるに 孤独な身体が 孤独関係を見出し得ず 自らの宇宙の中ですべての支配者のごとく現われる自己を 自らの根拠とするならば 他者をもあたかもそれと同じように捉えるようになるだろう。その意味で・つまり 他者を捉えようとする意味に限ってなら 原理的な関係性たる愛は たとえ擬制的にさえも そこにはたらくと思われる。知性推理によって コミュニケーション展開の正解を求め この同一性の共有を目指すことは 差異=他者関係の擬似的な模範型になるはづなのだが そういうかたちでさえも 愛の原型は現実に はたらいていると言えまいか。むろん想定にとどまるのだし とどめなければその原理性を――現在性に代えるかのように――侵すことにもなるのだが。
言いかえるなら 一方での独立存在性のみの勝手な独立を図り その意味での自己の主体化を志し これが孤立して自律するかのように存在していると考えるようになるのならば 他者との孤独関係は そのような存在観としての同一性のもとに築かれようとすることになる。そのような知の共有・そのような観念あるいは幻想の共同化のもとに人は存在しあっているとなる。
そのときには ボブもアンも それぞれ自らの知性あるいは自由意志をおのれの能力に任せて それこそ自由にはたらかせていくということになる。推理は行きつくところまで行くであろうし 実際 コミュニケーションにかんする黄金律のごとき数学解は得られているようである。このとき 原型たる愛は――原理性であり見えないゆえ――遠ざかるであろうと同時に それを自らの見える手で勝ち取り実現させようとするかも知れない。相手の出方を読むという推理の時代。すなわち科学の時代。推理の時代の前には たとえば恋愛としての一切の制約から自由に自由意志にものを言わせようとする情熱とロマンの時代。

  • なお 数学的な黄金解は それ自体としてなら 原型たる愛=つまり他者関係におけるその互いの間の距離感覚を 数式によって 喩えとしてのように暗示しているかも知れない。問題はそれを――実現不可能という想定命題に異議を唱えるかのように――自力で実現させようとするところにある。
――§15――

擬制の愛に陥る原因がこうであると もし するのならば 愛の回復もしくはコミュニケーションの確立のための処方箋はこれをすでにわれわれは持っていると言っていい。〔(B-1 / B-2)の場合を例として〕。
しかるに大澤は たとえばここで孤独の解除ということに向かう。絶対の孤独たる身体(《私》)どうしのコミュニケーションの成立のためには 孤独の解除にとって 《外部性》が必要になると論じていく。この外部性との関係においてこそ 他者との関係が得られると説くようである。くどいように言えば われわれは 愛の原理性の想定のみで足りると考えている。
まづ《コミュニケーション》の定義として大澤の次の説明は 愛の擬制におけるそれへと近づくおそれがあると言わなければならない。ただしその中で (B−4)の部分は (B−1 / B−2)の《任意のコミュニケーション》の場合にあたり 有効のうちに一般的だと思われる。

(B−3)身体が 他者をその志向の対象とするやり方を考察してみよう。
(B−4)他者が すなわちもう一つの異和的な選択の場所(*つまり その意味での自由意志の主体 / もしくは 単なる表現の主体)が 固有な意味を確保しているような行為あるいは体験を 通例にならって コミュニケーションと呼んでおくことにする。(*つまり これは 差異を保持しているということである)。
(B−5)すなわち コミュニケーションとは ボブがアンの選択を〔* 自己の推理の中で〕 前提にして自らの選択を現実化すること あるいはアンがボブの選択を前提にしていることを〔* 知性推理をとおして〕予期しうること である。要するに コミュニケーションとは 複数の異なる身体の間の選択の〔* 推理による正解を求めての〕連結によって定義される。
(p.19)

すなわちまづこの引用文の中で 《ボブ》は 《自己A》から 《アン》は 《他者B》から それぞれ引用者が言い換えたものである。そして(B−5)の部分の〔 〕内の補足は わざとそのような解釈に近づけたものである。これを除けば――(B-3)の踏み出しの部分に大きな疑いが残るのであるが――(B−4 / B−5)は コミュニケーションの一般的な定義であると見られる。
 (B−4)の中で 《選択の場所=すなわち自由意志が 固有の意味を確保している場》というのは 自らの宇宙体験の中では 独立して自由である。と同時に 他の宇宙を知り得ない絶対的の孤独であることを言う。このとき自由意志の無力となるその限界を知り 孤独を知った時には 目の前のアンを見てボブは その他者関係をいまの孤独関係のもとに捉える。ボブはアン自身の宇宙を知りえず その間に差異を見出し 他者を知り得ないと了解した時 孤独関係の如く他者との関係を捉えている。――このような意味では 《選択の場所が〈固有の意味〉を確保する》というような表現は 知性推理で内向する傾きがあることを示しているであろう。
(つづく→2008-04-02 - caguirofie080402)