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哲学いろいろ

https://www.jstage.jst.go.jp/article/studienzuhegel1995/2000/6/2000_6_2/_pdf

岩波哲男:へーゲルの「神は死んだ」という言葉


「もし神性と人間性との統一が一人の現在的個体において認
められるとするなら、直接的定在としての人間化〔受肉〕はす
でに有限性として存在するこの側面は直接的定在と同様に
普遍者、神的な者の外化であるが、自分自身の外化であって、
この人間化はまだこの外化のうちにあって意識に対する外
界のようにあるのではなくこれは目的の中の本性である
(それはこの直接的な現実存在であってそれが主観的にな
った神的な理念であることによって、そのうちに統一が表され
ており同様に分裂、他在が表されている)」(Vor1.5, 59f)

ーゲルは神の死に言及するにあたって、その前に、神性と
人間性の統一について述べているが、これは、神の死を理解す
るには、単に絶対者、すなわち概念上の神の死について論じよ
うとしているのではないということを示している。すなわち、
「神的理念の最高の外化は、すなわち、このような外化である
それ自身の外化として、以下のことを表明する。『神は死んだ、
神自身が死んでいる』これはこの表象に先立って分裂の深
淵をもたらす、途方もない恐るべき表象である」(Vorl.5, 60)
と言い、さらに以下のように続ける、「しかしこの死は同時に
その限りでそのうちに最高の愛がある。まさにその愛は神
的なものと人間的なものとの同]性の意識でありーそしてこ
の有限化はその極端にまで、すなわち死にまで駆り立てられる。
したがってここにその絶対的段階における統一観、すなわち愛
についての最高の観方がある。というのはその人格、所有
等々を放棄するという点での愛は行為という自己意識だからで
ある―他者において最高に〔自己〕放棄するという点で―
まさに死、すなわち、生命の制約を絶対的に代表するものとい
うもっとも極端な他在において。キリストの死はこの愛そのも
のの表象Anschauungである。1他者のための、他者を巡る
愛ではない―そうではなくて他在、すなわち死とのまさにこ
の一般的同一性における神性である。この絶対的な極端との恐
るべき合一が愛そのものである―1思弁的な表象Anschauung
である」(Vorl.5, 60)。
へーゲルの以上の言葉は、神の死を愛と見る。ここで述べら
れている愛は、青年時代のへーゲルが倫理的に「愛の宗教」と
位置づけているのとは違った表現をもっている。
「この思弁的なことは、子が神的なもの(前提)として死
への転倒死へと移行することであり子はそれだけで絶
対的愛である。しかし思弁的意味はその一般的意味において考
察される。精神における精神のことを考えての死は精神に
おける契機として存在する。死は精神のいっそう規定的概念へ
の関係の契機である」(Vorl.5, 61)。「この死に関しては今や、キ
リストはわれわれのために死んだ、犠牲死と表象され、絶対的
贖罪死の行為と表象されるという表現が妥当する」(Vorl.5, 61)。
以上のへーゲルの言葉は、神の死を論じていながら、いつの
間にか、キリストの死へと展開するという具合になっている。
その他のへーゲルの叙述を見ると、へーゲルは、具体的にキリ
スト教教義にそって講義をしており、少なくとも草稿を見るか
ぎりへーゲルが単に哲学的に、神の死について論じているとは
考えがたい