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哲学いろいろ

#8

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§21――

つづいて この死の問題を介在させて 議論は どのように運ばれていくのか。
まづ重ねて確認しておこう。コミュニケーションは 死たる外部性におけるものとしては 特に考える必要が生じない。考える必要が生じるとすれば それは 生者として つまり生前の他者としてである。死においては孤独が打ち破られ もはやわれわれは生きていない。解除としてなら そこでは孤独が絶対的に解除されてしまっている。しかももし死者がその生前の姿を通して 想像上なんらかの他者関係に参加してくるとするなら 孤独は何も特別 解除される必要はない。あたかも想像裡における生者として 孤独関係の相手方となり あたかもコミュニケーション過程に入ればよい。
だから 引用文(m−1)にかんして 《通俗的実存主義》が《死においては ついに人は完全に孤独(個別的)である》と説いているとして この説を大澤がしりぞけるのは 当然であろう。孤独は 生の関数なのだから。つまりこのことは 反対に同じく大澤が 《私の孤独は死によって断ち切られるとレヴィナスが主張する》のを支持していることと全く同じ内容である。しかもこの議論は 死じたいの問題にかんしてのみであり そこでおしまいとならなければおかしい。言うとすれば 《孤独》と《死によって断ち切られる孤独》(つまり死)との関係までである。他者の問題にかかわらせて見ようとするときにも いまの《孤独》と《死》との関係までの議論に終わる。つまり 《〈孤独〉と〈その外部性たる死〉とから成る絶対の孤独なる〈わたし〉》の問題であるにすぎない。これはまだ 独立存在(単一性宇宙の体験・その内部)までの問題なのである。
死はなるほど外部性だが 愛の原理性のもとに その死という外部性と私の生という内部性とが どのようなかたちでか かかわり合うというのみであって そのかかわり合いは 大きくは(想像の延長としては) 私の孤独なる単一性宇宙の問題になおおさまるということでなければならない。そうでないと あたかも死は他者関係をつなぐ外部性なる或る種の通路であるかのように捉えられかねない。
それは 危険な思考形態である。死ねば神であるということになったり 死者には鞭を打ってはならないと考えられたりする。ここまでの思考慣習には罪はないと考えられるが そこからさらに進んでは 英霊なる神が 他者関係を外部性としてあたかも超越的につなぐ通路であると見なされてのように コミュニケーションにおいてそのような認識知なる同一性の与え合い・奪い合いといった交換の道具になりかねない。われわれが初めから 無効の愛として望ましくないと考えてきた(Aー1 / A−2)の知性推理を駆使する場合のコミュニケーションは その交換の道具に いまの知性推理(数学論理の完全性)による正解とその共有を用いようとするわけである。実際この場合も この正解知の抽象化された同一性は 神として共有されていくという議論なのである。
大澤はこれを批判的にも分析しているとつけ加えておかねばならないが やがて神として奉られていくこの知性推理の究極は 英霊神のばあいと同じように 死なる外部性をとおって到達されることになる。つまり他者関係の差異の問題は 外部性なる死を介在させて思考をたどることによって その差異の究極的な抽象化としての観念の共有へと進む。つまり差異関係は――死なる外部性のあたかも共有を介在させてのように――むしろ同一性の共有へと転換する。《高次の同一性》として つまりそのような《他者》なる神として 結局は擬制の愛と信仰とをこしらえる道具となってゆく。いわば究極の他者だというのであろう。
死は 外部性たることにおいて 他者関係やそのコミュニケーションに間接的にかかわると言うべきだけれども この間接的なかかわりをとってみても それは 生者どうしの関係の問題なのだし――だから高次の同一性なる神のといった問題ではありえないのだし―― まして死と他者関係との直接的なつながりは 何もないと知るべきである。

――§22――

ボブとアンとの(B)の場合の《任意のコミュニケーション》 これが 愛の原理性から見て有効な他者関係である。この単純な想定としての定義でよい。つまり有効な差異関係の可能性を想定しうる他者関係であり その互いの表現過程である。われわれは こう主張している。したがって大澤が次のように《コード》の問題を提出するとき われわれの側からは それが 愛の原理性にかかわる他者関係の基本に付随することがらであり それにしか過ぎないと捉える。

(p) コミュニケーションが成立するためには アンの選択かボブに帰属する宇宙において(あるいはボブの選択がアンに帰属する宇宙において) 再現=翻訳されなくてはならない。再現=翻訳は 両者が共通に準拠する《コード》と呼ばれる知識によって 可能となる。コードとは 選択内容(メッセージ)を ボブとアンの双方の身体にとって同一なるものとして措定されている第三の事物(記号)へと対応させる関係の 妥当性と非妥当性とを弁別する知識の総体である。うんぬん。
(p.19)

コミュニケーションにかんして 原理性にかかわる基本は 差異関係として・すなわち 差異を保った存在関係として ボブとアンとのあいだに それぞれの孤独宇宙ないし人格が 相互了解されることであり これに付随して特に現存性の側面では コードならコードを介して具体的なことばによる表現が相互理解されることである。
けれども 《コード》は一般にことばのことであるとき われわれはすでに(B)の場合の《任意のコミュニケーション》を 《表現》の問題として捉えているのであるから ことばのコードの問題は 織り込み済みである。言語表現はむしろすでに――関係性たる愛の想定の時点で―― 大前提たる条件となっている。ボブとアンとは (B)の任意のコミュニケーションの場合 当然 ことばで表現しあうのであり その現在性の側面としては 共通知識としてのコードの問題は すでに含まれている。その要件は 人間であることという一条件だけで済ませようと考えているが じっさい済ませうるはづである。
この点 橋爪大三郎が 言語一元論とさえ言うかのごとく 《間身体的作用力・関係形成力》として 言語表現を すでに公理として立てる《記号空間論》を展開している。(橋爪大三郎:『橋爪大三郎コレクション(1) 身体論 [ 橋爪大三郎 ] 身体論』など)。《関係形成力》とは 原型たる愛のことである。そのときには同じ時点で 〔公理において〕言語表現が 他者どうしの宇宙を互いにつなぐかのような《間身体的作用力》として 大前提とされている。これらの力は 原理性ないし公理の問題であるから 具体的な現存性の側面では 具対的なことばによる任意のコミュニケーションが 必然的に帰結されている。
このように 言語表現を 原理性にかかわらせて大前提としているならば 取り立てて《コード》の問題を扱う必要はないと思われる。このことを補って われわれも これと同じ立ち場に立つと断わっておかねばならない。

――§23――

大澤は自らの立ち場で コードの問題を追究している。

(oー1) 〔このように〕 自他的な(* 自・他 的なである)同一性について確認されているような知識だけが コードとしての資格をもちうる。うんぬん。
(p.20)

すなわち たとえば間身体的作用力=関係形成力は 目に見えるものを言うのではなく 公理として想定する原理性の愛にかかわる。というとき それに対して《自他的な同一性について確認されているような知識⇒コード》は 人間の経験的な知性とそれによる思考・表現にかかわる。そしてわれわれの立ち場は 特に死なる外部性を介することなく 自らの孤独が他者との孤独関係にあることを見出すとするのであるから その原型たる関係性にかかわってすでに 言語表現一般が前提されているというものである。
このコード問題は 上の点を確認しておけば足りると思われる。そうして 信仰の問題に入っていくことができる。この章では 愛の原理性の想定のもとに 孤独宇宙(独立存在)が直ちに=あるいは同時に 孤独関係(関係存在)であること そしてそのような存在(存在関係)たるわたしどうしが 任意のコミュニケーションにおいて他者関係を歩むこと これについて考えた。そして愛の原理性は 超越性たる信仰とかかわっているということである。
なお コード問題は コミュニケーションにおける表現の道具であり装置であるとすれば 上に確認したとおり もはやそれで足りると考える。もしそこでも問題が生じるとするなら それは コードが 与え合い・奪い合いの対象たる同一性と見なされ やがてはコミュニケーションの正解関係たる愛の擬制のもとに この同一性の高次抽象化としての神を抱くようになるという方向である。引用文(oー1)でも 《コードとしての資格をもちうる》のは 《自他的な同一性について確認されているような知識だけ》だと述べられている。――だがこれは もはや問題として取り上げなくてよい。大澤はいま上のような表現を用いつつも 基本的には次のようにも述べて むしろその出発点をわれわれと共有してもいるから。

絶対的な孤独こそが 身体の多義性 存在の多数性(* 他者関係)と両立しうる 基本的な条件なのである。
(p.23)

これは ボブとアンとの――有効な愛の可能性を示唆しうる――任意のコミュニケーションの条件であり出発点であると考えられる。

(つづく→2008-04-04 - caguirofie080404)