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哲学いろいろ

フッサールの神論について

▲ (フッサールの超越論的領域) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
(あ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界
および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そし
てこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり
(『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』
2009 pp.140-141  前身は『世界の思想家19 フッサール
1976)
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☆(い) すでに《超越論的主観性》が出てしまっている。これは す
でに《非知なる神の霊》が――アートマン(霊我)やブッダター(仏性)
やあるいはルーアハ(霊)やプネウマ(霊)として――わたしたちの自
然本性にやどっていて しかも(重要なことに・すなわち問題となるこ
とに)すでにこの霊なる主観性を 人間が用いることが出来るといった
ニュアンスで語っている。

(う) なるほどそんな離れ業が出来るのなら《ラヂカルな哲学》にな
ること 請け合いであるが そうは簡単に問屋が卸さない。

(え) 人と神とのあいだには なおまだ問屋があるはずだ。超越論的
主観性が 直接に具象的に《可能となる》とは思えない。《経験世界と
の区別》が可能になるだけだと言っても どういう区別かが重要だ。

(お) おまえの問屋は どこのどういうものだ? それを明らかにせ
よと問われるはずだ。――だとすれば 《区別》すら 人間が勝手にお
こなう《想定》に成るものなはずだ。





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(か) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部
で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 
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☆ (き) そうだとしても 《超越的なるもの(場・領域)》につい
ては 勝手に経験事象と同じ扱いをしてはならない。出来ない。人知を
超えているのだから。

(く) だから 重ねて言えば 超越的なるものを哲学するに当たって 
つまりは神を これこれと想定しますとまづことわらなくてはならない。

(け) 《世界の存在に先立つもの》が どうして何の造作もなく人間
に分かるのか。

(こ) これでは 神を 引きずり降ろして来て 超越論的主観性と言
いかえたにすぎない。しかも 人間の存在と能力の内に据えてしまった。

(さ) つまりは 昔からの《ひとの自然本性にやどる霊》のことだと
言うのなら――つまりは そういう想定だと言うのなら――分かるとい
うのに。




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(し) 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的
に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。
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☆ (す) ここだけを取り上げるなら 人間は経験世界を認識し得る
と言っただけである。

(せ) けれども (え)と同じ一文(判断)なので 《世界に先立つ
わが超越論的主観性》が すでにそのハタラキを得て 実在する世界を
認識し 理念としてもまとめて捉える・・・と言ったことになる。

(そ) そうではないであろう。われわれは 相対的で限りある能力を
尽くして 世界認識をおこなうのであり そこにちらっと真理のかけら
を見たかも知れないと言うことはあっても われは超越論的主観そのも
のに成ったなどとは言わない。言うものではない。

(た) つまり フッサールの意を汲んであらためて捉えるなら われ
われ人間であっても 神なる超越的な場から問屋を介して何がしかの真
理――それは むしろ知解と判断のチカラである――が得られるかも知
れない。というほどのことであろう。




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(ち) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 
換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越
的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的 ‐ 現象学的還元とに
よって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共
に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引
き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開か
れたのである。
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☆ (つ) もしそう言おうと思えば 問屋を介して神からの霊感を得
て 世界が分かると言ってみる場合・・・まづそのとき 《判断中止》
が不可欠なこととして要るわけではない。

(て) 問屋に問うときには 経験的な思考も判断もおこなっていてよ
ろしい。中止してもよいが 問題は 問屋(天使?)ですら 人知を超
えているということである。

(と) 超越的なる場は 単に《カッコに入れられた》ものなのではな
い。カッコに入れたともしするのなら それは 経験と非経験との区別
だけであって カッコに入れたと思った非経験の場が それによって分
かったわけではない。

(な) 《超越論の手引きが機能する》とは いったいどういう根拠で
言うのか? 《超えている》という意味で区別を成し得ただけのはずだ。

(に) 要するに 《超越論的 ‐ 現象学的還元》を人間が成し得ると言
っているとすれば それは 大バカ者だ。《超えている》と初めから言
っていたではないか。

(ぬ) 《具体的な超越論的存在領域が開示され》・・・これが 矛盾
である。そう――主観の内に――思えた瞬間があるといった程度のこと
だ。要するに おれは神を見たと 誰かが主観内のことして 自己表現
することまでは 自由である。




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(ね) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》
の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性
(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。
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☆(の) 《相互主観性》にしろ《超越論的主観性》にしろ 人間の主
観が――それをいかに超越論的に捉えたとしても―― 《超越論的領域》
をそのまま受け容れ引き継いだものとなることは ない。

(は) 《そのまま》はあり得ない。問屋も簡単には卸さない。

(ひ) (実際には 信仰を介するということ。その非思考の庭に ヒ
ラメキや良心となって あたかも現われると思うときがある。
つまりこれは そんなことはあり得ないという他方の見解と同等であり 
両見解は 互いに両立する。問屋も神もあり得ないという神論も そう
いう信仰なのだから)。

(ふ) 《自我の内部に〈他者〉が構成される》というとき この他者
が 大文字の他者である・つまりは神のことだとすれば それは先ほど
のヒラメキや良心としてあたかも受け取ったという場合があり得たとし
ても 神がわが心に鎮座ましますと分かるわけではない。

(へ) 神は 理念ではない。理性でも精神でもない。問屋ですらその
まま 経験事象であるのではない。(に)は 現象学的錯視である。