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哲学いろいろ

科学と神の矛盾はカントの物自体で解決されたのですか?

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1. 神は 絶対性であり 科学は 相対性の世界に属します。

ゆえに 両者のあいだに基本的に矛盾があるわけではありません。

2. 言いかえると 絶対性とは 超自然および超経験であり まとめて非経験と呼びます。

 



3. 科学を推し進める認識と思考とは 経験合理性の問題であり 認識の視点から言って 可知(既知&未知)および不可知(知り得ないと証明された未知)です。

4. 非経験という場ないしチカラは 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)です。




5. 非経験の場は では 相対的な経験存在である人間にどうかかわっているか?

6. 非経験のチカラは 経験存在たる人間に あたかもそのナゾとしてやどると――或る程度一般に――言われているし 哲学としてもそう想定します。絶対性なら 想定せざるを得ないのです。


7. かくして 絶対性は 経験合理性を超えており 《認識や思考》をも超えているとすれば 人間にやどったその非経験のチカラは 人間がそのまま無条件にて心に受け容れることになる。これを 《信じる》という言葉で呼ぶ。

8. 非知なるナゾを――認識を超えて――心に受け容れるわざは 《信じる》と呼ばれ 経験世界について《考える および 感じる》とは あたかも絶対のへだたりがあるとなります。

9. 次のように図示できます。

非経験の場ないしチカラ(非知なるナゾ)
 信じる:非思考の庭(霊性
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経験世界(可知&不可知なるものごと)
 考える:思考の緑野(知性)
 感じる:感性の原野(感性)

10. 非知なるナゾが 神です。




10. カントの言う《物自体》は 《物 Ding : thing 》に属しているからには 経験事物です。しかも 《知り得ない》と規定することによって 絶対性(つまり 神です)にかかわらせようとしています。

11. しかもこういうかたちで 非知なるナゾである神を――もういちいち認識の対象として持ち出さなくてもよいように――括弧(ブラックボックス)に入れたのです。

12. さらにしかも 物自体つまり経験事物であるその物に――《知り得ない》と規定するかたちで――かかわらせたのですから 神を人間とその世界に降ろして来たのだと考えられます。カントは 言わば神の卸問屋になった。




13. ★ 科学と神の矛盾はカントの物自体で解決されたのですか?
☆ 《知り得ない》という規定では 用を足せません。

13-1. 《知り得ないと証明された》かどうかを明らかにしなければ 認識論を形成し得ませんし 仮りに証明されたとしてそれは《不可知》なるものだというのであれば 物自体は 実際にはその不可知としての経験事物を言うに過ぎません。つまり 神への架橋は これでは無理です。

14. 〇 一切衆生 悉有仏性。
☆ というかたちで 《人間に――感性と知性を超えて霊性として――やどる》というのであれば この想定は 活きます。

15. けれども:
〇 山川草木 悉有仏性。
☆ と規定した命題の場合はどうでしょう? いま仏性(ブッダター)とは けっきょく《非知なるナゾたる霊性》と同じと見て話しますが 物ないしあらゆる経験事物にやどると規定したばあい どうなるでしょう?

16. カントの《物自体》は ものごとという経験事物が――その現象が――神ではないが その内にあって知り得ないかたちで神が(つまり 仏性が)やどるとは言っていると思われます。けっきょく汎神論ですね。

17. したがって もし物自体によって神と人間(科学)とを架橋したというのであれば その物自体は 非知なる神のあたかも分身であり 非経験のチカラのあたかも部分的なハタラキだとなります。

18. ぢゃあ 《自然即神》と言うスピノザと同じく 汎神論だと言えばいいぢゃないですか? 

19. イマヌエルくんは じつに こすからい。