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哲学いろいろ

親鸞の仏性観

河邊, 大文:真宗仏性義再考――親鸞の仏性観の独自性――
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/5498/1/rd-bn-ky_035_009.pdf
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/5498
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/5416
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/handle/10519/321

 河邊, 大文:真宗仏性義再考――親鸞の仏性観の独自性――
『涅槃経』における「一切衆生悉有仏性」という状態とは、決して仏性という固定的なものが本来から衆生に有るわけではなく、むしろ有る無いの執着を離れるべきであると教示し ているのである。(p.100-101)

bragelone

 有無として因果関係において現象する経験事象を超えたところに《非経験の場》を想定する。
 これは 可知(既知と未知)あるいは不可知(知り得ないと知り得たもの)とも違って 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)として説明されうる。
 つまり これが アートマン(霊我)でありブッダター(仏性)であり 神の霊である。
 だから この《非知》は 有ると言っても無いと言っても 同じことである。いちいち非知と言っているよりは 単純に神は有るとか神は無いとかと言うことになる。すなわち 無我(アン-アートマン)と言ってもアートマンと言っても どちらも対等に自由にひとしい。
 《有る》派なら 仏性を《自性清浄心》と言いたい気持ちになる。マチガイではないから。