非知
《非知》について:
★(№29お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「分かるか分からないか分からない=知ることができない=分からない」
だと思うのですけどね。
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☆ 最後の《分からない》ということで決まりかと問えば それが分からない。
ぢゃあ《分かるか》と問い直せばどうか。そうだとも決まらない。
つねにそのようである何ものか。だけど これは 《絶対》のことですから 非知という説明で明らかなんですけ
れどねぇ。《絶対》は 《分からない》と決まっていますか?
《知ることができない》と言い切れますか?無限を二で割っても三で割っても商は同じく無限である。その無限とは何である
か。分からないと ひとまづ言って受け留めますが それで決まりではない。ひょっとしてこの有限なる人間も 無限と接しているかも知れない。無限がわれ
われの身と心(つまり自然本性)の内に やどっているかも知れない。だから アートマン(霊我)だのブッダター(仏性)だのアニマ・ムンディ(世
界霊魂)だのという仮りの名前をつけて 《無限》という正解に対して補助線を
引いたのです。もののあはれを知るといった説明をあたえるしかなかった。つまり《かみ》とい
う言葉を仮りのシルシとしてその《絶対》のことを語るしかなかった。
この補助線が意味がない・要らないという場合は それでもその見解は 《非知》
を《無い神》としてえらんだことになる。やはり別種の補助線としてえらんだこ
とになる。ということでしかない。
それが 無限というものであり絶対ということだと考えられます。有る神も無い神もない。そもそも神という言葉をなくせ。と言うのなら そうす
ればよい。そうなるかどうか 成るように成らせればよい。これが 《非知》説です。
あとで出てくる《摂理》だって 絶対として立てる場合には けっきょく非知を
想定していることにほかならない。ということは 神を先に立ててそこから摂理
をみちびいて来る。・・・これは 次の投稿です。
つづきです。
★(№29お礼欄) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
[ 人智の及ばない ] なので、その摂理の正体に関して
☆主観
:
の入る余地はありません。
むろん、そのようなものとして摂理が存在するという認識自体は主観ですが、摂理
その内容に主観が関与できるわけじゃない。
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☆ この論理の構成もすでに 《非知》を想定しそれを《摂理》と名づけ しかも
その《絶対》が 経験的な相対世界とどういう関係にあるか。これを説明しようと
しているはずです。くどくなるかも知れませんが こうです。:
《人智の及ばない》を ただの未知ではなく非知だとすれば それは絶対のことな
のですから 《主観の入る余地がない》のは 当然です。《未知》の場合なら 主
観は 入れてよいし ふつうに入ります。だから 非知なるナゾの何ものかを想定し 命題を提出するに際して仮説として立
てている。のです。
けれども 非知なる絶対ないし無限の場合には ひょっとすると或る主観にはその
何たるかがヒラメキとしておしえられるかも知れない。そういう出来事がその独り
の主観の範囲内で起き得る。これは 不可知ではなく 非知ゆえに起き得ます。
けれどもそのときには 非知なる神と人間たるわれとの関係〔過程〕として経験的
に説明されるかたちを採ります。それが 《バランスさせるチカラ》という説明で
す。つまり 神の想定と仮定のもとにいまのこの《摂理》が――ヒラメキに関する
限りで―― みちびかれるのです。これは すでに主観が《関与》しています。と同時に 無限と有限 絶対と相対と
のあいだに――非知だという想定をしているからには――カカハリがあり得る。と
いう《むしろ神の側にあると見る特徴(属性)》がみちびけるのではないでしょう
か?むろんその主観が帯び得る《恣意性》を消すためには そのバランサーという説明
は 補助線であるというかたちを採ります。バランスさせるチカラないしその作用
が 摂理本体ではなく まして神なのではない。
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>(き) それゆえ 《仮説》か《事実》かの問題が生じるのではないかと。
:
についてだけは、なんでこうなるのかホント不思議、という感想を述べることがで
きます。
(γ) 人智の及ばぬ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として我々は存在している。
これが《仮説》と言うなら、
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☆ 途中で切りましたが いま上に述べたところの:
★ そのようなものとして(* つまり人智の及ばないものとして主観の入る余地
がないところの)摂理が存在するという認識自体は主観です
☆ というのは その主観によってこの(γ)の命題をも《仮説》として提出して
いる。ということに成るのではありませんか?
それとも 《摂理の正体》は 事実としてあると言うのでしょうか?
さらになお重ねての説明です。:
自己組織化は 身体をバランスよく保つチカラだと思うのですが その意味でそう
だとすれば 《個別の》摂理です。その限りで 摂理は 《事実》です。では この経験事象である個別の摂理が 《摂理の正体》なのですか? むろん
《包括的なもの》が 正体である。つまり 経験的に認識される個別のバランサー
は 摂理本体の仮りの現われなのでしょう。つまりは その意味での――これも―
―補助線となっている。摂理を《絶対》とするのなら――《絶対》の問題として・《絶対》が問題であるか
ぎり――それは 仮説となります。だから 経験事象についての《未知》としての《分からない》ではなく 《分かる
か分からないかが分からないナゾ》である《非知》として説明することになります。ということは 非知なる絶対・無限の言わば親分としては 摂理ではなく神を持っ
てくるのが ふつうでしょう。摂理は すでに触れましたが 神の想定から派生的
にみちびくことになる。
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これ〔(γ)〕が《仮説》と言うなら、あなたは、
(γγ) 人智の及ぶ自然宇宙の、絶対的摂理の結果として私は存在している。
と言っていることになる。
☆人智の及ぶ
であるのなら、どんな摂理なのか、それをあなたは提示できなければならない。
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☆ 《人智の及ばぬ自然宇宙》を この場合にはどういうわけか 経験事実だと決
めている。《主観の入る余地のない正体としての摂理》を 経験事実だと決めつけ
ている。だから 仮説ではないと言えると思っている。
だから――事実問題だから――その《逆》を持ち出してくるのです。ところが 《非知》には 逆の命題がない。有るか無いかが分からない。どちらか
に決めて 論理をはこぶ意味がない。ただ どちらかを自由にえらんで補助線とし
て用いる。という仕組みであり それだけのものなのです。《非知として人智が及ばない》=《その非知なるナゾは 有ると想定するか無いと
想定するか。どちらでも自由であって互いに同等であり いづれか好きなほうを人
はえらべばよい》。これが 神です。普遍神です。