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★ (№19お礼欄) よかったら、ダイジェスト版で教えていただ
けませんか?
☆ 哲学は 経験合理性〔が物指しだ〕と言ったぢゃないですか。
一念三千論では ブッダ・カーヤ(仏界つまり仏性)が 合理性を逸
脱しています。
したがって 《経験世界を超えた非経験の場》を想定してこれに当て
ます。
これは そのまま《普遍神》の想定にみちびかれます。《超経験》は
相対に対する絶対 有限に対する無限であり 絶対性にあい異なる二
つや三つの神があるとは考えられません。
名前が異なるだけの一般絶対性として 想定されます。
次に この普遍神と人間たるわれとの関係が来ます。これは ふつう
に合理的に考えることを超えているので 《信じる(無条件に無根拠
でわが心に受け容れる)》と呼びます。
受け容れたそのさまは わが心に《非思考の庭》が成った状態である。
これは 呼び方を決めただけの説明です。
つまり 端折りますが 法身(これも ブッダ・カーヤ)としてのブ
ッダは 《普遍神》のひとつ〔の呼び名〕であり 仏界は 《非思考
の庭》のことだと帰結されます。
このブッダター(ブッダ性)とアートマン(霊我)とは 同じ《非思
考の庭》のことです。
ブッダは 神と同じであり ブッダターは 神の霊と同じです。
一般絶対性と個別絶対性とです。
宗教は この絶対性から 或る主観が特殊にその絶対性の中身を慮っ
てそれを自己表現したものです。すなわちその《特殊絶対性》を広め
ようとする動きです。
つまり たとえば《現人神》というのが 特殊絶対性です。神が人間
に成ったというのは 合理性を超えています。
基本としては そのひとりの主観の内面においては この超合理性な
る特殊絶対性も みとめられます。否定のしようがないからです。否
定し得たとしたなら 神が人間の知性で分かったことになる。
ということは この現人神を例にとるなら その特殊性をなお 経験
合理的に説明できるという場合に 一主観を超えて普及する理由が成
る。
アマテラス天皇についての現人神説は 素朴に――根拠などにかまわ
ず――言い出したものです。文学だと見なされています。
キリスト・イエスの《神人》説は なぜそうしたかをめぐって 説明
がつくかたちになっています。
旧約の時代からのメシア(=キリスト)待望論に従うかたちで われ
(=イエス)は 神キリストなりと言って大嘘をついた。それは 磔
の場にのぞんで 神であっても奇蹟をおこさず十字架から降りていか
なかったし ただ人間としてこの受難をたえしのぶのではなく 神ゆ
えに引き受けたのだという見方をもって 《特殊性》を説明していま
す。
ウソの効用。副作用もありますが 基本は なお説明がつくかたちで
す。
ということは 久遠元初の自受用報身如来のばあいにも その《神人》
説について特殊性を説明するのが 哲学ないし経験合理性の立ち場で
す。
いやいや 経験合理性にもとづくだけではなく あたらしい物指しが
あるという場合には そしてそれを超える場についても もっと別の
理論があるということでしたら それをまづ示すことが 話の初めで
す。
ブッダと神とは違うのだ 仏性と神の霊とは別だという理論があるの
なら それを示さなければならない。
なお自然科学に依拠しようとする場合には AI ではありませんがそ
の特殊性としての神人について 脳の成り立ちがこれこれこのよう
であって 経験存在でありつつ 自受用報身如来なる絶対性のハタ
ラキをもおこなっていると証明することになるはずです。
《仏・人》なる理論のほうが 《神人》説よりも 合理的である。
というあたらしい理論を展開するという道がひらかれています。
主観内の特殊絶対性としては 《合理的》でなくてもかまいません
が 宗教として人びとに伝えようとする場合には 現在の説得の仕
方としては 経験合理性によるものと考えられます。
ほかに 理論を伝えそれを共有してよいと認めるためのあたらしい
物指しがあれば それについて 提起するのがよいでしょう。