caguirofie

哲学いろいろ


Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

★(趣旨説明欄) 世の中のありとあらゆるものは、根本的に「自明」では
ないと考えられます。
☆ 1. 《わたしはわたしである》は 自同律であり その限りで《自明》
です。

2. ほんとうにその命題は 自明か? その内容について分かっているの
か? つまり われは本当にわれであるのか?

3. この《うたがひ》は――話を端折りますが―― じつはどこまでも続
く果てしのない思考(疑問)です。

4. なぜなら そのウタガヒについて その根拠はあると考えるときの根
拠は じつは自明だというものであり そのことは他方において ウタガヒ
に根拠はないと捉える見方が その根拠を やはり自明だとうったえること
と 互いに同等でああるからです。

5. つまり どちらも《われはわれなり》を出発点として考えています。





6. しかしながら そのような――相対的で限りのある知性しか持ち合わ
せていない人間の――確信が どうして疑い得ないのか? 《根本的には自
明ではない》のではないか?

7. そうなのですが そのように考えそのように言えるのは 人間とその
知性が せいぜい経験合理性としての能力しか持っていないと言うことと同
じになります。――つまり これも 自同律です。






8. たしかにおっしゃるように・それゆえ この世界には この人知を超
えた場があるかも知れないという話になります。

9. 《考える》のではなくそれを超えた――つまりそのとき 思考をも別
様にともないつつの――《信じる》の問題が来ます。

10. 思考や知覚を超えて 《無条件で無根拠において そのナゾの何も
のかを わが心に受け容れる》。これが 《信じる》です。






11. けれども このことは:
★ 人間は何物かを「自明」なものにしなければおそらく、いわば「精神を
固定できない」ために、何物かを「あたりまえなもの」にしていると思われ
ます。
☆ とは かんがえられません。

12. なぜなら 《思考の緑野》としての精神とは 《信じる》は《根本
的に・つまり人間の知性が及ぶ範囲としては》 関係しないからです。絶対
のへだたりがあるというかたちで 関係します。



13. 《信じる相手(かんたんに 神)》が もしわれらが精神にかかわ
るのであればそれは ひとえにその神の側からのハタラキカケによるものだ
からです。《絶対》とは そういうものです。(人間の相対性の自明と 裏
腹であり 同じ自明です)。


14. 人間の側から働きかけることが出来る神であったなら それは 信
じるのではなく考える対象だからです。

15. この《非思考の庭》が――つまり 信仰が――成ったとき われら
が精神は 自由であると受け取られます。《無限ないし絶対性》にあたかも
カカハリを持った状態だからです。



16. 精神を固定する・固定しないとは 別の現実だと捉えます。

17. 精神は その非思考の庭のもとに 心の明け――単純に 閉じられ
ていないこと――をめぐみとしてあたえられます。

18. そのときには 人間がその知性と意志とで 精神を固定してもよし
自由に解き放ってもよしとなります。

19. これは 信仰の効用です。ほかにも ヒラメキや良心のはたらきと
いった効用がありますが まづは 《心の明け》が いちばんのめぐみです。







20. ★ つまりそれは、根拠なく自明なものにするという非科学的なこ
と、「信ずる」ということになるでしょう。
☆ 信じるは 科学として考えることと 両立します。→(9)。


21. ★ ですから、「信ずる」という心は特定の宗教にばかり向けられ
るものではないと思います。
☆ 《宗教》は 信じる信仰とは 別のものです。そこに オシヘがあって
これを《信じなさい》と説くかぎり。

22. オシヘは 人間の言葉で表現されているかぎり 思想であり 思考
すべき対象です。その根拠や内容の当否を考えるものです。



23. ★(№10お礼欄) 10.までは一応理解できます。
☆ よかった。

24. ★ 「宇宙の摂理」という言葉を使ってみます。
☆ 摂理には 秩序とか法則といった・経験事象とそれの人間による認識や思考
が含まれていますが その法則のみなもとなる場(チカラ)として 受け留めま
しょう。

25. ★ 「神」という言葉は私にとって違和感がありますし、「仏」という
言葉はあなたにとって違和感があるであろうと思うからです。
☆ ありません。たとえば:
▲ 〔中村元ほか編:仏 (岩波 仏教辞典 1989)〕 〜〜〜〜〜〜〜〜〜
なおキリスト教伝来時には 創造主がデウス( Deus 天主)とその下生またはそ
の子とされたイエス・キリストを仏といい その教えを仏法と称した。仏キ習合
的理解・・・( p.743 )

▲ 〔同上:法身 p.741 )〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
真理(法)の身体 真理(法)を身体としているものの意味・・・法身仏ともい
う。

大乗仏教では 絶対的な真理を法身(ダルマ-カーヤ)というようになった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

26. 神に対する違和感は 超えたほうがよいと思います。または 違和感を
持つ理由をおしえてください。




27. ★ 私は、人間というものは、この「宇宙の摂理」を尊崇する本能的な
ものを所持していると思います。
☆ 《タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)》とよぶのが その
想定内容だと思います。アートマン(霊我)も神の霊も同じだと思います。


28. ★ 「そこに自分を合わせて、幸せに生きてゆきたい」という。
☆ ここはげんみつにまいります。《幸せに生きてゆきたい》のは 神――普遍
神――のもとにある人間に共通だと思いますが 《そこ(摂理)に自分を合わせ
る》というのは げんみつには 普遍神には合いません。


29. 端折りますが 普遍神が絶対性ならば 人間が摂理に自分を合わせると
いうのは 人間の思い上がりになります。

30. ブッダターのはたらきによって――あるいは めぐみによって――自分
を摂理に合わせるように考え意志することが出来るようになる。・・・こう捉え
るのが 整合的な内容だと思われます。こまかいですが。




31. ★ それは、人類の文明を見れば、「宗教」(原始的なものを含めて)と
いうものが、切っても切れないものとして存在していたと思うからです。
☆ 端折りますが はじめには ナゾの何ものかを心に受け容れたという《信じ
る》が来ると見るわけです。

32. そのあと このわが信仰――非思考の庭なる動態――をとおしてあたえ
られるヒラメキから広がって 人間の判断(命題)ないし規範として(つまりオ
シヘとして)人間が持ち得たのが 宗教だという理解です。


33. くどいですが 《人間にとって切っても切れないもの》は 信じないと
いう選択肢をふくめた《信じる》のほうです。

34. むろん《神を信じないと自己表現する〈無い神〉派》も その一種のオ
シヘをゆるいかたちながら 共有していると思うならば それもひとつの宗教に
なります。





35. ★ それが、近世・現代に至り、宗教の信頼性が薄れてゆくことと反比
例し、
☆ 《信じる》の第二次展開としての(つまり なぜならそこには必ず《考える》
が介在して来ている)宗教については 最も極論するならば 信仰という蝉の遺
した抜け殻であるとなります。

36. つまり・じつは 《摂理》という捉え方にしてもすでに《考える》が入
って来ているのです。


37. 普遍神ないし法身仏なる真理ならそのチカラは かならず《経験世界に
ハタラキカケをおこなって そこに因果の応報なる法則をもたらしているはずだ》
という人間の思考が 顔を出して来ているからです。

38. これは 神ないし法身仏についての人間の自由勝手な忖度にすぎません。
そうであるかも知れないし そうでないかも知れません。――これも 普遍神が
あたえる《心の明け》です。



39. 宗教は 因果応報説ないし摂理をかかげて――それは オシヘであり人
間の思考であり思想であるに過ぎないのに―― それが絶対性なのだと言い張り
これを信じなさいと説くとすれば それは 相対性なる人間の思い上がりです。

40. 宗教は 信仰なる蝉の抜け殻にすぎないという・つつしみ深い人間の心
を 勝手に膨れ上がらせています。増上慢も はなはだしいでしょう。

41. もっとも 思想としては 大いに自由に発言すればよいわけです。つま
り 信仰という蝉は すでにありません〔から まったく表現の自由です〕。




42. ★ 宗教からいわば独立した国家権力、あるいは国家そのもの、哲学な
どの人文科学、自然科学、そして文明そのものに対し、人々の尊崇の念が移って
いったものと考えています。
☆ 国家の主権を振り回す政治人間も 相対なる思想を絶対性なのだと自己表現
するマ(間)の違いを犯しますが そのような思い込みが ほとんどつねに・最
大級に現われるのは 宗教です。



43. ★ いわば、「宇宙の摂理」の代用品です。
☆ (あ) 宗教は 絶対性を説いているが ただの人間のあやまち得る思想で
あると分かって来た。

(い) マルクス主義が 《「宇宙の摂理」の代用品》であったことがあるのか
も知れません。つまり 宗教です。

(う) 自然科学は 信仰とそして思想ないし経験科学とを――経験合理性の物
指しに徹するという了解のもとに――切り離して成り立った《思考の緑野》です。

(え) なのに 人びと一般の中に これを宗教の代用品とするクセが現われて
いるかも知れませんが。





44. ★ 問題は、これらの代用品は人間の思考において捉え得るものです。
☆ ですから 《オシヘをかかげてこれを信じなさいと説く宗教》も 信仰から
得たヒラメキを思考によって展開し 経験思想として形成したしろものです。



45. ★ とすると、「思考」と「信ずる」とが密接に係わってきてしまうこ
とになると考えられます。
☆ 非思考の庭なる信仰は 人間が 普遍神を無条件でわが心に受け容れるので
あるからには 《受け容れる》のは 人間の経験的な意志行為です。すでに 経
験事象としても成り立っています。

46. ただし 受け容れるその相手(対象)は 思考を超えています。

47. オシヘは――因果応報の説や あるいは 不殺生戒なる規範などは――
すでにその内容が 思考の問題となっています。ころす・ころさないは 経験事
象であり 思考です。




48. かつてアブラハムは やっと百歳でさづかった長子のイサクを 神にい
けにえとしてささげるという難題に出会った。錯乱のかぎりをつくしてというほ
どに考えに考えて得た結論は 《神のためなら ささげよう》でした。

49. ところが いざ生け贄の台にイサクを載せるとき ヒラメキがあたえら
れた。人間ではなく 羊で済ませなさいと。



50. ここまでが 信仰です。つまりすでに いけにえだとか そのささげる
人間の存在だとかの経験事象が介在し そこに人間の思考が絡まっていますが
信仰なる生きた蝉の――アブラハムなる主観の内における特殊な絶対性としては
蝉の――すがたのそのままの現われであるわけです。


51.  ここから――モーセ十戒に表わしたわけですが―― 《なんぢ こ
ろすなかれ》というオシヘないし規範が思考による展開として持たれたのであっ
て そのときには 宗教が成り立ったことになります。倫理規範ないし道徳は 
かように 蝉の抜け殻です。




52. アブラハムモーセの系譜を継ぐイエスなる男が この宗教を 元の信
仰に還し 民族内に閉じられたヤハヱ―神を外にひらき 普遍神の次元に揚げて 
ふるい神に関するふるいナラハシはぜんぶ棄てました。



53. その後の歴史において イエスの指し示した普遍神の理論が 現実と成
っていないではないか?――そのとおりです。そして これからです。



54. 日蓮にとっての特殊絶対性は 《久遠元初の自受有報身如来
と《南無妙法蓮華経》であったはずです。

55. 人一般にとっては 法身(真理)〔境〕と凡夫衆生〔智〕との
あいだの《境智冥合》という《梵我一如》の類型でしょう。

56. 日蓮にあっては みづからがその如来であることを明らかにし
ているようです。法身(真理)が そのまま日蓮本人としての応身(現
実の姿)であると顕わした。(《発迹顕本》)。

57. (一般には 神であり人間である存在だと言っていると受け留
めるものと思われます)。




58. その真理は ダルマ(法)であり妙法だと言う。つまり:
▲ (経王殿御返事) 日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめなが
して・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たまし
ひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし


59. ただし ここまでが 特殊絶対性として 日蓮という人の信仰
のかたちです。




60. 一般および個別絶対性理論によれば その一体性なる《非思考
の庭(信仰)》が 《仏仏一如》なる姿として現実の実践(修行)を現
わしたものと捉えられます。

61. つまり・しかしながら それは 特殊絶対性としてあくまでひ
とりの人間の主観の世界における信仰の実践です。

62. 南無妙法蓮華経は 日蓮なる個人の主観を外に出かけるなら
その信仰――非思考の庭――は 消えます。



63. 《墨で書いた実際の物》を もし《信じる》ことになるならば
それは 信仰としてアウトです。


64. 《日蓮がたましひ》を信じるのか? ――だとしたら それは
法身(真理)を無条件に心に受け容れる(つまり 信じる)ということ
になるでしょう。

65. つまり それなら 世界でいくらかの異なった名で呼ばれる神
・つまりその元としての同じひとつなる普遍神への信仰と まったく同
じである。




66. もし そうではなく 《法身と応身との一体なる存在――つま
り 神であり人間である存在――としての日蓮なるたましひ》を信じる
というのであれば これは ふつうの実践としての特殊絶対性のほかに
さらに そこに人間の側から想定をほどこした超特殊性であるとなりま
す。


67. 《キリスト(神)であるイエス(人間)》という超特殊性は
たとえばイエスが そのように――神と人とのあいだのカカハリについ
てその真理を明らかにするために――大嘘をついたというかたちで 受
け取ることができます。




68. そして何よりも・かによりも 日蓮は:
▲ (前掲) 仏の御意は法華経なり 日蓮が・たましひは南無妙法蓮
華経に・すぎたるはなし
☆ と言って 信仰を 普遍神(つまり 一般および個別の絶対性)に
おくのではなく そうではなく その――日蓮なる主観による――特殊
な形態としての絶対性におくと言っています。




69. いやいや そのように特殊に自己表現した絶対性は 普遍神と
しての絶対性であると 同時に明らかにする・・・であろうか?

70. そうではなく ひとりの主観の世界としての特殊絶対性である
ことは 他の宗教や宗派を排除する発言に明らかである。



71. まとめ:
(あ) 《南無妙法蓮華経》は 或る主観に発するものでありつつも 
一般および個別の絶対性のもとにある。つまり 普遍神のひとつの呼び
名である。

(い) ただし そこには 日蓮の主観がその上さらになお 欠かせ得
ぬ超特殊性として 付け加えられています。これは 信仰であることを
すでに消しています。

(う) もしそれでも 日蓮こそがじんるいの歴史で唯一絶対であると
いう心であるとすれば その《超絶対性信仰》についてみんなが検証で
きるように説明があると よろこばしいものと思われます。

(え) あるいは もし:
★★ 信ずることにより物事は「自明」になる
☆ という事例――これは きわめて特殊な経験事象になることでしょ
うが――をしめすことができるならば 世界は歓迎することでしょう。
絶対性には 並みと特上との階級はないと 現在の人間は――自明のこ
として――思っていますから。