caguirofie

哲学いろいろ

#3

――大澤真幸著『性愛と資本主義』への一批判――
もくじ→2008-03-27 - caguirofie080327

第一章 ボブもアンも その《わたし》は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である

――§10――

ボブがアンに 大澤真幸著『性愛と資本主義』を読んだかい?と尋ねたとき そこからアンやボブとともにわれわれは ことばの定義を中心として議論していこうと思う。

序章の中で保留したことばについて 補足しておかねばならない。
大澤は 命題( d / e / f )の内容たる《同一性の体験》を 《性愛》と呼んでいる(p.8)。
われわれはすでに論じたように それが差異の奪い合い / そしてその反面で 同一性の与え合いになるとすれば それは 愛の原理から見て 無効だと言おうとしている。(A)の場合のコミュニケーションが無効であり (B)の場合はささやかに有効であろうと主張しようとしている。無効の表現関係は さしづめ《擬似的な愛 / 愛の擬制》と呼ぶことができる。
従って別様に論じれば ここでいわゆる《性愛》にかんしては 無記である。その世界に入っては特別 何も規定しない。ボブとアンの二人に――そしてほとんど常に 特定の二人にのみ――任せよう。日常普通の会話は 《愛》の問題である。あるいはまた性愛をどう論じるかは これも愛の問題である。この論じ方をのみ扱うことにした。それは第三章である。
すなわち いまの段階での結論として次のようである。いわゆる一般的な《性愛関係》は 特定の二人に属する私的な事項にして そのコミュニケーションの有効か無効かなどを一般に規定することにはなじまない。そしてただし 大澤がここで《性愛》と規定する他者関係の一形態は むしろ社会一般的な愛の問題にかかわった事項であって あらかじめのわれわれの見方はそれを コミュニケーションの無効と捉える。従って擬制の愛と捉えるものである。(何度も言うように大澤自身も つねにそのような批判的な見方を持っているようである)。従って付随事項としては 性愛をどのように論じるかそのこと自体は一般論に属し 愛の問題である。

――§11――

この章の表題における《社会的な関係存在》というのは 原理的に言って ボブもアンもそれぞれ あらゆる関係性の原型である愛に かかわっていることを意味させている。その愛にどこかで触れている〔と想定される〕 / あるいは想定の限りで その愛に一般の人間関係は裏打ちされている といった意味を持たせている。――あるいは人間どうしはその関係が 現在性そのものだけにおいてでも むしろ絶対的であると仮説する行き方も考えられる。愛の概念を介在させずに説明しようとする場合である。もっともそれら二つの行き方は ほとんど同じことであろう。
ボブもアンもそれぞれが原理性たる愛に触れており かかわっているというとき――それは 社会的な共同生活をいとなんでいるという事態から想定しているのだが―― この想定じたいが証明困難であるのも然ることながら 実際問題としてボブは アンがどのように原理たる愛につながっているか(また つながっているとアン自身が思っているか) わからない。愛の原理性をめぐって 一人ひとりのそれぞれ精神身体の内部での志向と思考とは まったく自由である。ボブもアンもそれぞれ自由意志は自らの内部では むしろ無制限である。
われわれは一人ひとり社会的な関係存在として 互いにかかわりあっているが 愛のもとにあるそのかかわりあい方は その何をどのように考え判断するか すべて一人ひとりの内部ごとには 自由でありあたかも無制約である。思考と判断を含めた意志による自由な選択性 これを基本的な内容としてわれわれ人間は 《社会的な独立存在》であると言う。大澤は 《存在論的孤独》として次のように説明している。

( g ) 存在者の存在を体験するとき 身体に絶対の孤独を迫る。ここで 身体とは 体験や行為といった選択性が現成するとき その選択性が帰属する場所として 不可避に現われざるをえないような存在者のことである。ところで いかなる体験も 存在する存在者への志向としてあるだろうから この孤独は 体験にとって免れえない根本的な条件である。
(p.10)

単純にあらためて言って 自由意志(意志による自由な選択)が 愛を実現することは不可能である〔命題( b )〕と前提しつつ その自由意志は一人ひとりの身体について 独立してあることを言う。ボブとアンの二人が集まって初めて一個の選択が成り立つというものではない。つまり一個の共通の選択が成り立った場合 それは それを共通とする集まりの中の一人ひとりの選択に分割されうる。ゆえに 《体験にとって免れえない根本的な条件である〈孤独〉》を 《社会的な独立存在》とする。そしてボブがこの独立存在であるときには(つまり そのような一側面で考えた場合には) 《いかなる体験も 存在する存在者への――つまりむしろ〈わたし〉なる身体への――志向としてあるだろうから》 もしボブが 他者なるアンについても そのアンが同じようにこの《〈わたし〉なる身体への志向》を持つと想定するとすれば 二人は《それぞれ〈社会的な独立存在〉として関係している》ことになるであろう。互いにヒトという同じ生物種であるとそれぞれ了解するはづである。
了解してみようと もしくは 了解してみようかと するものと思われる。すなわち《絶対の孤独をわが身体に迫》られたとき ボブは・そしておそらく同じようにアンも それぞれが互いに対して その《絶対の孤独――社会的な独立存在性のことである――》を想定し始めるものと思われる。それ以上の独立性は・すなわち それ以上の他者どうしの差異関係は 考えられないと想定することにもなる。(人は他の動物との間にも 差異関係を持つが それは 孤独どうしの=独立存在どうしの 他者関係とは別種だと考える)。
すなわち 二人の人間のあたかもひと固まりが 分割されざる一個の自由意志を持つとは 考えられないものである。この限りで 《あらゆる関係性の原型たる愛》は いまの《社会的な独立存在であると同時に社会的な関係存在である〈わたし〉》どうしの差異関係の過程を言うと考えられる。《関係》という側面では 現在性において 実現不可能な愛がつねに未実現の過程にあり その未実現の関係過程において ボブとアンは一人ひとりそれぞれが愛に触れられていると想定しようという意味である。そのような生存・共存の条件が 《社会的な》ということでもある。
(つづく→2008-03-30 - caguirofie080330)