宗教多元主義モデル批判について
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie
◆ 小原 克博:宗教多元主義モデルに対する批判的考察
――「排他主義」と「包括主義」の再考
A Critique of the Pluralist Model: "Exclusivism" and "Inclusivism" Revisited
http://www.kohara.ac/research/2007/12/article200712b.html
1.
▲ 宗教多元主義
☆ これは じっさいのこととしては あり得ないことです。あり得るのは 多項主義とか多主体主義とかです。
▲ 宗教的多元性(religious diversity)
☆ とありますが これは 多様性です。同じ一つの元のもとにある形態の違いです。
《元》は すでに あらゆるものの源を意味するとすれば そうなります。つまり みなもとは 全体としてひとつしかないとなるはずです。
全体としてひとつの元でないならば・つまりその意味で多元主義ならば 一つひとつの元は 他の元からは独立しており自由であるのですから もはや互いに話が出来るかどうかが分からなくなります。つねにどこまで行っても 平行線である可能性が出て来ています。
つまり 人間の持つ判断のひとつの基準である経験合理性が あてはまるか当てはまらないかが分からなくなります。そういう情況では もはや議論は成り立たないと思ったほうがよいはずです。
▲ 正義と悪、光と闇、生と死といった二元論的区分を強調する表現が好んで用いられる。
☆ 経験事象としての《正義と悪 光と闇 生と死》なら ものごとの源ではありえないのですから 二《元》とは言いません。もし善悪の二元論――たとえば ザラトゥシュトラやマニケーイズがそうだと言われる――であるなら その一元としての善と一元としての悪とは 互いに対立していてしかもどちらも元でありうるということになります。これは あり得ません。善なる一元から悪が生じたと見るか それとも悪なる一元から善が生じたと見るか いづれか一つであるしかあり得ません。
言いかえると 善なら善の一元論のもとに・つまりその非経験の場としての善のもとに 相対的な移ろいゆく善と悪とが生じているという世界はあり得ます。二元論はあり得ません。
▲ 多元主義の代表的人物ジョン・ヒック(John Hick)は「実在者」(the Real)という概念を措定し、それを、どの特定の宗教の神的実在をも超えた「一者」(the One)と考える。その一者に連なる道が多数存在するという意味での多元主義であり、
☆ これは 一元論です。ただし観念の神である臭いがしますが。
2.
▲ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
( α ) 排他主義では、救済は自分の宗教によってのみ達成される。
( β ) 包括主義では、救済は他の宗教においても可能であるが、最終的な救済は自分の宗教によってのみ達成(完成)される。
( γ ) 多元主義では、すべての宗教が等しく救済の可能性を有しており、その点に関して、宗教の間に優劣はないと考えられる。
( γ-1 ) そして、多元主義者の立場からは、他の二つの類型は、他の宗教への寛容を欠いた望ましくない態度と見なされる。
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☆ 議論の筋からすでに離れてしまいさえするのですが 初めにおいてすでに批評し批判してまいります。
(あ) この議論は 《救済》とは何か? が定かではない。
(い) あるいは 《宗教》とは何か? を明らかにしていない。
(う) 宗教と信仰とは けっきょくのところでは 似ても似つかないふたつのものである。という立ち場からは すべての宗教は ただただあたまの中で神をにしろ救済をにしろ人間の思考ないし観念として捉え思っているというだけの心的かつ社会的な現象である。
(え) 宗教は 信仰が思考を超えている非経験の場をあつかうというのに対して ただ人間の思い考えるところを理論としてにせよ観念体系としてにせよ まとめたものであるに過ぎない。信仰ということ自体をも・そして神をも救いをも 人間の思考の対象としてあつかうに過ぎない。
(え‐1) ● 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「・・・「究極的な神的実在(the ultimate divine Reality)」という「トポス」の上に「宗教的多元論(religious pluralism)」を打ち立てる世界最高の寛容な宗教に禍あれ、とでも言うほかはあるまい」(袴谷 1990、126)という辛辣な批判
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☆ これは 百パーセント あたまの中の観念だけで操作している思考であるに過ぎません。つまり《神》をも 人間の思考の能力があつかえるという前提に立った発言です。《信じる》という行為を知らない。
(お) ( β )の〔他称としての〕包括主義はもし《最終的な救済》が他の宗教によっては不可能だというのなら ( α )の〔やはり他称としての〕排他主義と同じである。
(か) ( α )の排他主義は もし他の宗教も同じように《救済は自分の宗教によってのみ達成される》と言っていると知ったときには その発言内容の違いを明らかにしなければならない。相対世界に生きる人間にそれが出来るか?
(き) ( γ )の多元主義は 《すべての宗教が等しく救済の可能性を有しており》と言うだけではなく 《宗教ではない思想やあるいは宗教を持たない人間もが 等しく救済の可能性を有している》とも同時に言っていなければならない。そうでないと 宗教の唯我独尊となる。いや それでよいということなら なぜそれでよいかと論証しなければならない。
(く) ( γ-1 )は 問題が違う。《多元主義者の立場からは、他の二つの類型は、他の宗教への寛容を欠いた望ましくない態度と見なされる》というのではなく そうではなく・排他主義も包括主義も同じくであるが 《宗教によって救済された姿を実証し論証すること》が先決である。もしそれが 他にすぐれて唯一のかたちにおいて証明されたのなら 《他の宗教への寛容を欠いた態度》は 採ってしかるべきである。批判とともに。
☆ すでに議論の筋からはずれているのですが でもこのように前提としての議論を明らかにしなければならないと考えての上です。
(け)
▲ 2.宗教の神学における三つの類型 1)排他主義
☆ この段落の議論には 信仰の問題は皆無と言ってよいと思う。取り上げない。
(こ)
▲ 第二バチカン公会議での宣言「我らの時代に」(Nostra Aetate)において、カトリックは他の宗教の真理性を否定しないことを確認し
☆ これは 表現がマチガイです。《真理性》は――もし主観真実としての真実性ではないとしたら 神としての絶対普遍なる真理のことですから―― 人間のおこなう表現の中に《真理》があるとか無いとか それを肯定するとか否定するとかいうことは 出来っこないと知るべきです。
(さ)
▲ (a)救済はキリスト教以外の宗教においても成し遂げられる。ただし、それはキリストにおける神の恵みが普遍的な効力を持っているからである。
☆ これは 表現がヘタである。《救済》は 非経験の場なる神であれば・それがどんな名の神であろうと その神のもとにあるというのが 信仰論の中核を成す。と言えばよい。
その神を キリスト・イエスが指し示したのだと。
(し)
▲ (b)包括主義者にとっても、排他主義者と同様、救済はキリスト論的に根拠づけられている。ただし、それは排他主義のように認識論的な意味においてではなく、存在論的な意味においてである。つまり、排他主義では、キリストにおける神の恵みを認識することなしに救いへと至ることはできないが、包括主義では、キリスト論的な意味での恵みを認識しなくても、キリストの普遍的恵みが存在論的に救いを保証してくれる。
☆ 前項と同じである。
《認識》だけでは 思考としての・想像としての・観念の神でしかない。
《存在論的》というのは 信仰のことである。
(す)
▲ (c)包括主義者は、他の宗教の中に真理契機を認めるが、それは彼らが所有している本来の真理の一部、あるいは、その不完全な形に過ぎないと考える。
☆ 《真理》は 往来をあるいているわけではない。非経験の場だと知るべきである。だから《自分たちが所有している本来の真理》などという観念のあやつりは 御免こうむりたい。
▲ キリスト教は完全な真理を有しているが故に他宗教に対し優位に立っており
☆ ふざけてはいけない。人間は真理を知ることは出来ない。出来たと或る主観が感じさけぶことがあっても。
▲ キリスト教以外の宗教はキリスト教の真理にどの程度一致しているかによって、その価値を計られることになる。
☆ かく言うおまえは 神か?
(せ)
▲ 3)多元主義 (c)いかなる宗教も、最終的・絶対的・普遍的な真理を保持していると言うことはできない。
☆ これは 或る主観はおのが主観として 真理を見たということがあるという可能性を開けておかねばならない。真理に道をあけねばならない。ただし 宗教は 単なるオシエでしかない。信仰ではない。
(そ)
◆ 3.多元主義モデルに対する批判的考察 : 優越的置換主義の問題をニッターのモデル論は克服できているであろうか。
☆ 取り上げません。
◆ 4.ケース・スタディ:1)ヨーゼフ・ラッツィンガー
☆ どうでもよいと見ます。
◆ 2)トニー・ブレア
☆ 《西洋的価値》であれ《普遍的価値》であれ その中身を説明しなければ話は始まらない。そんなものはない。または 人間が把握することは出来ない。というところから始めなければ。
(た)
◆ 3)井上哲次郎
☆ たぶん日本教のもんだいであると思う。
もし自然生成としてのシントウではなく やはり国家神道として広く捉えられるものは シントイズムであり これは 宗教としては 日本教であると見ます。
すなわち 唯一神は アマテラスであっても何であってもよいようで 問題は 多神教という内実を持った一神教だという規定をします。
日本教なる一神教――まぼろしの見えない総本山のもとに各宗派がつどう。
( �睚 ) シントウイズム
( �睨 ) ブディズム
( �睫 ) コンフシアニズム
( �瞎 ) クリスチアニズム
( �瞠 ) マルクシズム
( �瞼 ) ・・・
* 総本山なるまぼろしは 一般に《クウキ》として現実である。
* むろんこの多神教は じつのところ一神教であって やはり排他的である。
* よそからの宗教は 日本教のひとつの宗派・支部としてのみ《家族》として待遇される。その限りで《平和・寛容》が 通用する。
* かつては 日本教・自民党宗や日本教・社会党支部などがあった。
◆ 宗教の神学は、諸宗教とその関係とを考察の主たる対象としてきたが、「宗教」に分類されない教育勅語、国民道徳のような「非宗教」の中にも、宗教に大きな影響と制限を与え、宗教の根幹を瓦解させていく力(擬似宗教的な力)があることを十分に認識しなければならない。
☆ という日本教のもんだい。
◆ 多神教の歴史的実相を隠蔽し、同時に、単純化され、偏見に満ちた一神教のイメージを再生産する危険性を免れ得ない。この日本流の優越的置換主義では、一神教世界とのコミュニケーションを取り結ぶことはきわめて難しいと言わざるを得ない。
☆ おおむねそのとおりだと考えます。
▼ 原理主義のポストモダン性とは、何よりもヨーロッパ−アメリカによるヘゲモニーの武器としての近代性を拒絶するところにある――そしてこの点において、イスラーム原理主義はじっさいに範例的なケースである――ことが認識されなければならない(ネグリ/ハート 2003、197)。
☆ めちゃくちゃである。《原理主義》にならなければ 欧米の自己優位主義的帝国主義とも距離を取れないし 批判することができないと言ったにひとしい。
◆ 聖書に忠実であろうとした正統主義信仰の人々(排他主義者)の方が、新神学の自由主義者たちよりも、相対的にナショナリズムに対する免疫力を備えていたのである(宮田2003、72)。
☆ だって。よう言うわ。
◆ ある集団を暴力的として排除するだけでは、なぜ暴力と結びつくのか、それを回避するために何ができるのかという問いの芽を摘むことになってしまうであろう。
☆ ひとの意志 つまり自分のも他人のもこの自由意志をないがしろにする意志行為が 暴力である。その起源である。
◆ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
神学的に言えば、神は人間にとってその存在の起源でありながら、同時に〈他者性〉の起源でもある。それゆえ、神や人の〈他者性〉を顧慮しない者は、最終的に認識主体の絶対主義へと至る危険性――偶像崇拝の危険性――を絶えず内包している。すなわち、他者の〈他者性〉を受け入れることのできない者は、他者を自己に従属させようとするのである。
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☆ おそらくこのように《神と他者性》とをあたかも同一視することは 一方では確かに隣人愛を実行する方向へみちびきうるが 他方では この他者性をも神をもやはり 自分のあたまの中の倫理規範の一環として捉えているに過ぎなくなる。そのあたまによるなら 神と同一視しているから その他者は 自分と同じ陣営にいるのだと錯覚してしまう。その限りで その《他者を自己に従属させようとする》。意識せずにであると思われる。
◆ 西洋的価値を中心とする優越的置換主義を積極的に相対化していくためには
◆ 日本の文脈に即して言えば、それは「宗教間」対話を成り立たせるための種々の作法(類型論の考察)を突き詰めていくだけでなく、むしろ、「宗教」概念からこぼれ落ちてきたものが何であったのかを歴史的に遡及する道程である。
☆ 《優越的置換主義の相対化》および《信仰の類型論の考察》についての一案として:
δ ブラフマニズム:梵我一如
梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我
ε ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如
無梵:空・シューナター・ゼロ
無我:アン‐アートマン;ニルワーナ
ζ ブディズム:仏仏一如
仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
仏:如来蔵・ブッダター(仏性)
η クリスチアニズム:霊霊一如
霊:神・聖霊
霊:《神の宮なるわれ》
θ (プラトン?):霊霊一如
霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
霊:《われ》
ι 《もののあはれを知る》
霊:かみ(自然および超自然)
霊:われ(自然本性)
そしてこれらは 宗教ではなく 個人のワタシの信仰のもんだいである。