#139
第三部 キリスト史観
第六章 八雲立つ出雲八重垣
第二節b 八雲立つ出雲八重垣
これは 第二の死を・その向きを変えられるのです。第三のアダムとしての神の似像 そして新しいエルサレムなるやしろの時間である。《罪を犯さないために 死ぬべきである》という そうしてそのように むしろ初めに 第一の死を通過するということ その内実は これらのこととつながっていなくては 無意味である。
こうして 先に前章第六節に見た 《新しいエルサレム》のあとの《キリストの再臨》ともつながって しかもそれは 史観の観想においては あたかも今 このいま その恵みにあづかるというように 現在することと思います。
その期間には このような苦難ののち
太陽は暗くなり
月は光を放たず
星は空から落ち
天体は揺り動かされる。
そのとき 《人の子》が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを 人びとは見る。そのとき 《人の子》は天使たちを遣わし 地の果てから天の果てまで 四方から神に選ばれた人たちを呼び集める。
(マルコ13:24−27)
これが 《新しいエルサレム》の時代であるなら かれが《雲に乗ってくる》のと あの《八雲立つ出雲八重垣》とは 偶然なる符合であると言わなければなりませんが――またそれは 《雲》のみの符号ですが―― あたかも第三のアダムとしての神の似像には(その内なる史観には) このような時間(もしくは 観想的な時間)が到来すると信じられてよいと思います。マルコによる福音は さらに別の箇所で こう記します。
そこで 重ねて大祭司は 《お前は〈ほむべき方〉の子 メシアなのか》尋ねた。イエスは 答えた。《そうです。
あなたちは 《人の子》が全能の神の右に坐り
天の雲に囲まれて来るのを見るであろう。》
(マルコ14:62)
おそらく 《天の雲〔に囲まれて〕》と言うのは あの空気のような身体を持ったアマテラス予備軍(かれらは A圏‐S圏の連関体制つまり国家に仕える)が仰ぐ空中の権能である悪魔 の征服を指し示すのに より一層ふさわしい表現だと思います。雲の上の存在とも言われる単独自力分立の一般アマテラス者が 国家の消滅というかたちの中に 揚棄されるのです。国家の歴史的な形態移行が 新しいエルサレムの到来の事態にも――外的な人間の歴史にとっては―― ほかならなかったからです。
マルコによる福音は このあとすぐ続けて
大祭司は 衣を引き裂きながら言った。
――これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は この冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。
一同は 死刑にすべきと決議した。それから ある者はイエスにつばきを吐きかけ 目隠しをしてこぶしで殴りつけ 《預言者なら言いあててみろ》と言い始めた。また下役たちは イエスに平手打ちを加えた。
(マルコ14:63−65)
ユダヤ社会の時代情況 民族的な特殊性をもちろん考え合わせなければなりませんが ここで ひとりの人間イエスの小さい存在の小さな主観を 大きいものと恐れたのは明らかであり かれは同時に 大きなもの・すなわち神の言葉つまりキリストであったことは その生である史観が 全世界をその証言に持ったことにより 同じく明らかです。人間の全歴史が キリストの証言であるということは おのおの主観の内なる史観に属すことです。わたしたちは これを観想によって 明らかにしていきます。歴史は真理の証言であると経験的な言葉でも言いうると思いますが もしそれを超えるようにしても その現実観が但しいものであるとするならば このようなキリストの再臨とともに 新しいエルサレムの時間は到来すると考えられる。
いくらでもこれを 人間の理論として研究すべきであり なおかつ それへと史観全体が拉し去られていくべきではない。むしろわれわれは 精神の滞留を容れて 心には きざはしの歌をうたっていなければなるまい。だから 史観なのであり また 実践が その実践の輪がよく回るのです。それは 《八雲立つ出雲八重垣 妻ごみに八重垣つくる その八重垣を》のうたを あのスサノヲが すがすがしき心でうたいあげた――それは あのA圏なるタカマノハラを追われたあとのことです――そのS圏なるヤシロ(エクレシア) また全体的にやしろ(キュリアコン)が 基本的には各スサノヲ者の個人個人のよみがえり(アマアガリ)によって A‐S連関体制なる国家形態を変えて 新しい社会形態へ歴史的に移行させるということに 見られるとも思われる。
また スサノヲの復活が 内なるアマテラス化・アマアガリと呼ばれるのは スサノヲ者おのおのが《かれ》に似る者とされるであろうと聞かれるとき 《天の雲に囲まれて来る》という表現は さらに一層ふさわしいと考えられてよいのです。
これらすべてが 《第二の死を少なくとも方向転換させうる》ということ そのようにアマアガリしたインタスサノヲイストの時間 これが 新しいエルサレムの時代であるとここに見ます。
(つづく→2007-10-02 - caguirofie071002)