#140
第三部 キリスト史観
第六章 八雲立つ出雲八重垣
第三節 ふたたび 人間のアマテラス語理論の欠陥について
《神の国について》の第十三巻をさらに読みつづけたいと思います。
つづく四つの章は 各表題を示すなら次のごとくです。
第十二章 神の戒めにそむいた最初の人間(第一のアダム)の死
第十三章 最初の人間の罪とそれへの罰
第十四章 自由意志による堕落〔つまり第一のアダムの罪とその結果の罰(死)は 人間の自由意志による(時間知の獲得)であった〕
第十五章 霊魂の神へのそむきからくる第一の死
このように ある程度これまでの《諸章》において見てきた主題から さらに詳説されるという体裁を採っています。
いまこの中から《第十四章》の全体を引用して これら四章に代えたいと思います。
人間を正しいものとして造った神はすべての自然本性の創造者であって 決して欠陥の創造者ではない。これに反して 人間は自分から進んで堕落(もしくは 墜落)し(――自己が字案的存在であることを自分から選び認識し――) その結果 正当に罰せられ〔終わりあるつまり死ぬべき存在とされそうであることを自覚するようになり(あるいは この自覚を あの初めの墜落が あの蛇によってそそのかされたものであったように ふたたびこの蛇の空中のしんきろうになだめられ 寝かしつけられるようにして 半分 失う すなわち 半分 酔ったように 半分だけ自覚している)〕 同じように堕落し罰せられた子孫を生んだのである。
というのも わたしたちはみな かの一人の人間(第一のアダム)の中にあり かの一人の人間であった。かれは罪を犯す前にかれから造られた女によって 罪に陥ってしまった。わたしたちは個別的に造られ 個別的に形相(主観)が分与されて生きるのではなく むしろ種子敵な自然本性が先にあって それによって子孫をふやすように定められている。ところが それが罪によって損傷し 死のくびきにつながれ 正当にも罰せられた結果(しかし この罰〔という愛〕がなかったなら 人間はみな あの第二の死の中に生きていた・いや死んでいたであろう) それ以外の状態で人間が人間から生まれることはできなくなってしまった。
このようにして 自由意志の悪用から一連の禍いが生じた。根のくさった人類は 神の恩恵によって解放された者を除いて悲惨の鎖につながれ(悲惨は 虚偽から来る。虚偽は あのしんきろうに欺かれるとき 生じる。しかし人間は 正当にも その内なる人が これを虚偽と知る) ついには終わりのない第二の死の壊滅まで至るのである。
- この第二の死を 少なくともその向きを変えさせうるということが いまの主題である。
(神の国について 13・14)
以上のことを あらためて前提として確認するなら さらにつづく四つの章では しかしながら この第一の死 すなわち霊魂から身体が分離することを霊魂が引き受けるという身体の死あるいは霊魂の死 から あの第二の死に至ることを回避しうるという神の似像は この身体を離れてではないということ 言いかえると そこに聖霊が宿ってというようにあたかも新しい身体のもとに生きるということ これらが説かれるのです。
第十六章 霊魂と身体の分離(つまり 第一の死)を罰と考えない人びとの誤謬
〔すなわち まづこの第一の死は それぞれあの第一のアダムの子孫として その時間知を獲得した結果であり その罰あるいは 創造主が深追いするかのようにかけるあわれみであるということを 人は 認めることから出発しなければならないということ〕
第十七章 地上の身体は永久に続かないと主張する人びとへの反論
第十八章 地上の身体は天にはありえない(神との順立の関係を この地上においては 築き得ない)という哲学者たちの主張
第十九章 罪を犯さない霊魂は身体を持たないと主張する人びとへの反論
〔すなわち 第一の死から来る第二の死を回避するためには 人間が自力でみづから進んで あたかもこの身体から離れてのように しかもかれは空気のような身体をもって その霊魂あるいはアマテラス概念(精神)に精通するというかのようにもっぱらのアマテラス者となるべきだと主張する人びと(かんたんに言って 人は神々のようにならなければいけないと主張する人びと)は 誤謬に陥っているのだと考える〕
なかで《第十七章》は 《身体の復活》を観想するものです。これは あくまでも将来すべき課題(信仰)としてわれわれは臨むのが正しい。そうして これら四つの章は はじめにも要約して述べたように ここで別の言葉で言いかえるなら 人が 第一の死を引き受けつつも 第二の死の向きを変えてのように 自由――神の自由――の中に生きるという神の似像〔たる時間的存在〕は プレ・スサノヲ者としての人間ではなく また 単独分立するアマテラス者としての人間でもなく すぐれて《スサノヲ者‐アマテラス者》連関として史観を生きる人間であり その道は正当にもこの地上において与えられている このことを説き明かすものだと言ってよいでしょう。これが キリスト史観です。またそのすべてであると言ってもよいのではないか。
しかしかれら(哲学者たち・アマテラス予備軍)は そうした(つまり 《哲学者たちは 神の熟慮と力とを知ったが 預言の力を知ることはでき》ず 《預言者たちは神の霊によって教えられて 神が啓示するのを良しとした限りでの神の意志を伝えるに至ったが――キリストは預言者の中の預言者 いや 神〔の言葉〕であった―― 哲学者たちはそれを知ろうとしながらも人間的な推量によって欺かれたのである》という《人間の推量によって欺かれる また つねに欺かれうるような》そうした)無知や頑迷により 明らかに互いに矛盾しあうほどに欺かれているべきではない。かれらは強い論証力をもって 霊魂(人間の生・生命)が至福であるためには(――誰もがこれを求めている――) 地上の身体のみならず一切の身体(S者・S語)から逃亡すべきであると言い〔――つまりそのように 単独自力で みづからは空気のような身体となるべく(こうなれば あの二枚舌すなわち擬似的な《A語‐S語》連関が使える) おおやけにはもっぱらA語を駆使するもっぱらのA者になるべきであると言い またそれが世の中であると思い――〕 しかも他方では 神々の――神々の――霊魂は至福であっても永遠の身体に結ばれていると言っている。
- すなわち 上のようにもっぱらのアマテラス者になり得たならば 生きて雲の上のA圏で・および死後も同じく雲の上で天体に・もしくは自然なるものに結ばれて あたかも・いや文字通りカミガミの一人となって その霊魂(精神・生命)は至福であると言っている。
(神の国について 13・17)
哲学者たちはこのように 言っている。もしくは 暗黙のうちに了解している。この哲学者たち(ギリシャ人はこの哲学を 明示的に表現するよう 知恵を問い求めた。日本人は 暗黙のうちの生活上の知恵とすることに努めた)の主張が 倫理的に正しく 同時に 倫理的に言っても 誤謬に満ちたものであるかを わたしたちは知った。それは 国家による罪の共同自治なるやしろの《第一の死とそれからの復活》といった類型に見られるようにして 人間の各主観の問題となったゆえ。
わたしたちの史観の突破口は ここにあると主張してきたのでもありました。これは 人間のゆえにこの欠陥を愛すべきではなく また欠陥のゆえに人間を憎むべきなのでなく この欠陥を憎み人間を愛し虚偽を――内的に――棄てるという史観に支えられて その観想は(これは 倫理規範を超えたもの。だから 倫理的でもあるのだが この観想は) 行為(一般に倫理)にも及ぶとしたのでした。なかでも この主観――つまりこの史観は おのおのの内的な主観の中にあって そこにしかない――の過程する時間は 当然のごとく 歴史的であるということ 両性の対関係 協働の関係 社会の関係の中にあって 空想の世界のもんではないということ。したがって 概括的に言うなら 第二のアダムの諸期間のうち中でも哲学者たち・人間の理論の時代 この期間をも超えて 《A者‐S者》連関なる神の似像たる第三のアダムの時間が生起するであろうと 重ねて強調するということであったわけでした。
おそらくわたしたちは なおも あの第二の死を避けるとはどういうことか これを考察すべきかと思うのです。
(つづく→2007-10-03 - caguirofie071003)