caguirofie

哲学いろいろ

#141

もくじ→2005-05-13 - caguirofie

第三部 キリスト史観

第六章 八雲立つ出雲八重垣

第四節 第二の死を避けるとはどういうことか

第二の死を避けるとは――まづ当然 第一の死を経過しているのであるから これから復活して来なければならないわけですが またこの復活は そのあと第二の死に至るためでしかないという不敬虔の人たちの生き返りを そこに含むわけですが そのように―― 復活してきた神の似像が どういう〔性質・構造すなわち史観から或る〕神の似像であるか これを明らかに見るところに 言葉による表現としては 問い求めなければならない。
すなわち 第一に まづ神の似像が 自然的なプレ・スサノヲ者の像においてではなく また 哲学(愛知)によってA者〔単独〕優位論のもとに 自己を その身体から離れてのように もっぱらのアマテラス者とするような像においてでもなく まさしく《S者‐A者》連関という時間的存在のかたちであるであろうということ これは 大前提であります。しからば第二に この《A者‐S者》連関なる時間的存在が その内なる人および外なる人に同時において どのような史観〔を形成して その主観〕として 動態的な過程をなすか これが 第二の死を避ける神の似像のかたちの問題であるということでなければならないでしょう。
しかしわれわれは すでに このいま問い求めるかたちを 規定〔と言えば規定〕的には 指し示していたことです。すなわち スサノヲの〔身体を伴なった真の〕アマテラス化 amatérasisation de Susanowos つまり 真のアマアガリ ama-agari が そであると。

  • つまり言いかえておくなら 外的なやしろの中で S圏からA圏へその身体を移すようにして(つまり いわゆる出世をして) アマアガリすることではない。また このA圏‐S圏連関体制の欠陥はこれを 外的に A圏の打倒としての所謂る階級闘争にのみ求めることであってはならない。しかもそのようなA圏‐S圏体制の制度的なやしろの組み替えは 上の真のアマアガリの過程とともに 綜合して 付随するであろう こういうことでた。

そこでいま このアマアガリ 史観の内なるアマテラス化 これを 観想しつつ 問い求めることが 目的となるでしょう。
そうであるならば これは たとえば《神の国について》第十三巻第十八章に見出すことができます。やしろ人ではあっても 必ずしもA圏に移行せずに 内的にアマアガリするスサノヲ者の像は 次のごとくです。

さて 人間の技術は 水に入れるとすぐに沈む金属を用い それを何らかの仕方で加工し 水に浮かぶことのできる船を作るのである。

  • ここですでに 《金属》は 重さのある《身体ないしS者》であり 《技術》は 《霊魂・精神ないしA者》であり また《船》は これら《〈S者‐A者〉の連関》ないし 原理的には あの《木(十字架)の船》であることを人は 見ます。
  • そうすると 最後の比較項目のばあい 端的に《人間が神を造る》ということになりますが そうでもよいでしょう。ともあれ人は 時間的に 自己が船であることを または 原理的な船を分有していたことを 知るに至る。だから ここですでに言ってしまうとするなら 《〔生命の〕木の船》が 裏打ちするように働いて 《S者-A者連関》なる各主観を やしろなる海に浮かばせて アマアガリさせる・その約束をしているというもの。これが はじめの命題である。

〔したがって〕そうだとすれば 神が見えない仕方で働くのは いっそう信ずべき いっそう容易なことではないだろうか。

  • 論証的な精神によって 推量するのではないから このように 文脈の上で 表現されうる。

・・・さらに身体的でないもの(一般に やしろにおける共同の観念)は どんな種類の身体と身体の結合とも比較できない仕方で身体に結ばれている。それゆえ 神は地上の諸物が その重さ(《S者・身体》がこの重さを持つ。しかし 霊的な意志・愛も 比喩的には 重さとして 表現される)のために大地の低い所に引かれるのを防ぐだけではなく 霊魂が身体を持つながらもっとも至福に生きることを可能とするのである。その〔霊的な〕身体は土から出たものでありながら朽ちない。神は霊魂にその欲する身体を与え 欲するとおりに動かさせ 容易に坐ったり動いたりするのを可能としたのである。
神の国について 13・18)

このようなごく当たり前の経験的なものごとをとおして――なぜなら スサノヲ者は 天の高みに走りゆこうとも 地の低きに移り行こうとも 思わなかった―― 第一の死から 信仰によって希望を失わずに(すくう・掬われるとは このことである) 第二の死を避けるというアマアガリの命題に対して そうではなく外的に神々〔の一人となった人間であるカミ〕の模範事例を必要とするほど 人間はそのアマアガリの道を閉ざされていると言うであろうか。キリスト・イエスは 神としてその〔外なる人の〕模範であるが かれが過去の人であるからと言って それにつづく・幾人かの模範としてのカミガミを われわれは必要としなければならないほど かれは内的な方でないのであろうか。しかし 神はそのみ心を告知するために 人間のカミガミにまさって 一つなる神のいますことを示すのに その子を木の船の上に死なせるという手段をとったということほど かれは カミガミの一人なのではなく真の神でありその道であるということを 明らかにすることはないでしょう。

  • むろん 《われわれが かれに似る者となるであろう》と言われるとき そのわれわれの像を カミガミにたとえることは ゆるされる。

だから 天の高みに走らず 地の低きにも移り行かないということほど スサノヲ者のアマアガリを指し示す実態はないのではないであろうか。神の背面〔生きていた時には その肉。死後 復活のからだとしては 霊的な背面(うしろ)〕が そのようにかれが 人間の手にかかって木の上に死ぬということによって むしろ呪われる存在となったということのゆえに 人間にアマアガリの道を指し示して 生きているのではないだろうか。呪いの木が 生命の木となった そしてそれは はじめ(原理)からの神のはかりごとではなかったか。なぜなら あの人間の第一の死が入ったのは あの蛇にそそのかされてのように したがって死の 木〔の実を食べること〕によってであったのなら この第一の死ののち ふたたび生まれて 生命(霊魂および身体)が制作されてのように 第二の死を避ける道を与えられた。すなわち アマアガリがすべての人に用意されたのは この生命の木によってでなのであるとは 正当にも史観として言われうるであろうから。
われわれは これを論証することはできないであろうから 観想的な精神によって おのおの主観の内に――その外にではない―― 見るのである。第一部のはじめに見たように 吉本隆明は あたかも 或る視点からは この観想が 《或る遠隔対象を求めるただ人間の観念の自然過程にすぎず 自然過程であるなら それは人が 他者に対してどう振る舞っているかというかれの内省の過程とは 無関係である》と述べていた。そのように 論証的な精神によって 推量するのであると思う。《論理的な人間の内省》が それのみでは あのカミガミを生んだのである。しかし 吉本が《観念の自然過程だ》とも言うしかしわれわれのこの観想は 《人間の内省》よりも内的な省察に属さないということがあるだろうか。むしろ 《人間の倫理的な内省――それは むろん 貴いが――》のほうが 経験的なる人間の《観念の自然過程》であるのではないだろうか。たといそれがあの遠隔対象を求めないとしても(あるいは この遠隔対象性は 人間の自己意識の上限で切れていまうとしたなら)である。
しかし この遠隔対象は 人間の主観にとって 遠く隔てられているものの その内なるやしろに分有されるものであり この内的に生きて働きたまうゆえに 外的には 消えている(信教・思想・良心の自由)のではなかったか。しかし この自由 つまりこの《鉄格子の世界》なる海にあの船が浮かぶというアマアガリは ともあれあの遠隔対象を分有する人間の主観の過程においてであり これによって 《人間が他者に対してどう振る舞っているか あるいは正確には 自由を得ているかどうか》は 内省と外省として 現実であるとしか言いようがない。そうでなければ人は あの経験的なアマアガリという幻想の船を浮かべているか あるいは 知識人ないし哲学者たちが確かにこの経験的なアマアガリ体制を嫌っているとすなら もしくはそうだとしても まわりまわって結果的にも その経験世界の秩序を弁護していることにしかならない。
わたしたちは――論証的に言おうとするなら たとえばこのようになると思うのであり―― むしろ《観念の自然過程》でもいいと言うほど この神の観想は 決してA者概念の中においてではなく A者をとおして かつ朽ちるべき重さを持つ身体を伴なったS者の中にこそ見出され これが アマアガリしうるというほどに 生きた史観として過程(行為)させるということになる。こうでなければ 史観の船が浮く(第二の死を避けて)というのではなく 史観は あたかも第二の死の中にあるというほどに そのA者性なる霊魂は 空気のような身体と一緒になって――ちょうと足のない幽霊のように―― 雲の上(A圏幻想のムラ)に棲息しているということになりはすまいか。

  • だから 学問・思想・科学の その知のパラダイムの変換を われわれは あの国家の歴史的移行の問題とともに 主張した。

したがって ここでも あの生命の木が《天の雲に囲まれて来ることをあなたたちは見るであろう》という 地上のS者におけるアマアガリの時間が 成就するとわれわれは見なければならない。これが 《人が 他者に対してどう振る舞っているかという人間の内省の問題》である。このアマアガリの時間は むしろ経験的・歴史的な現実過程ではないであろうか。このように 史観の船が浮くように 第二の死を避けるという人間のアマアガリ(第三のアダム)の時間は 到来しうるし また すでに到来していると言うべきではなないだろうか。
ここで《精神は 外に出かけてはならない》 また 《経験的なものごとから来るそのメロディを人は 見つめてはならない――なぜなら このメロディは 沈黙しているときでも 人の中に起こるものであるから。つまり見つめなくても人は 現実的でありうる。もし 見つめなければ・つまり つきあいをどうしても大切にしなければ 現実ではなくなると思っている人は 自己の船を人間の自己の推量によって浮かべて むしろこのメロディ(流行歌)に乗せて アマアガリなる自由を 観念(幻想)共同しているのであるから。そうせよと説く もしくは 世の中はそういうものだと言う 人びとがいる――》という史観の動態が 理解されなくてはならないということも。

(つづく→2007-10-04 - caguirofie071004)