caguirofie

哲学いろいろ

展望

諸概念・諸原則の確認
――アウグスティヌス インタスサノヲイスム(人間的友情)を語る――

 人間( homme )は 社会的動物( zoon politikon )として 市民( bourgeois )=スサノヲ( Susanowo )であるであろう。
かれは 一義的に(〔人間〕関係の絶対性として) そして第一次的に 市民社会( bürgerliche Geselleschaft )=スサノヲ圏( Susanowoschaft )に 住む。
この社会を わたしたちは やしろ( Yasiro )と呼ぼう。
やしろにおける市民の協働( communis )関係を 共同主観( sensus communis )=常識( common sense )または 主観(主体)の共同化過程とよぶ。
共同主観は インタスサノヲイスム( intersusanowoïsme )。
やしろのインタスサノヲイスムは 関係・連関・過程としての資本( capital )である。
インタスサノヲイスムは 資本連関の歴史的な動態である。
この動態的な過程は やしろ全体として 一個のスサノヲ者から独立した動きであるが これ(その事実の成立)と矛盾することなく かれのインタスサノヲイスト行為より成る。〔これこれの認識像が やしろ全体の資本連関過程だよと見せられても 一個のS者から独立した動きというのは その認識像がそれなのではない。個人から独立したやしろの歴史過程の存在とは矛盾することなく 個人のインタスサノヲイスト行為は成り立つ。そもそも上の認識像の把握と表現も 一個のS者がおこなうインタスサノヲイスム行為にほかならない〕。
インタスサノヲイストの主観共同化はスサノヲ者の持つ光(理性)によってこれをよくおこなう。
光とよぶべき理性もしくは精神の普遍者は 概念として アマテラス( amatérasu )である。(こう呼ぶ)。
精神の普遍概念の象徴は 同じく概念として アマテラシテ( amatérasité ;Amaterasität ; amaterasity )である。自由とか平等とかの概念・理念として ことばとしては 把握される。
インタスサノヲイストなる共同主観者は アマテラス者( Amatérasu )でもある。
このアマテラス者は やしろの役割(職務)として 公民( citoyen )。
スサノヲ者=市民が この公民=アマテラス者性を 有する。
主観共同化は スサノヲのアマテラス化( amatérasisation de Susanowos )または アマアガリama-agari )である。(ブッディスムでは 《出世間 lokottara 》)。
アマアガリしたスサノヲが スサノヲでなくなるわけではない。
やしろの役割分担において もっぱらのアマテラス者つまり職務としての公民となること これも 通念としては アマアガリ・出世間とよばれる。
もっぱらのアマテラス者は やしろのスサノヲ圏から 相対的に独立(もしくは 自分勝手に分立)して 自己独自の圏域を築く。社会が二階建てとなる。
アマテラス圏( Amaterastum )は 第一次的なやしろであるS圏( yasiro )に対して スーパーヤシロ( superyasiro )と捉えられる。社会の第二階である。
A圏のアマテラス者公民は 一般に社会科学主体・ヤシロロジスト( yasirologistes )である。
ここで インタスサノヲイスム(社会思想)は ヤシロロジ( yasirologie / 社会科学)を含む。(理論的普遍 普遍的理論化の点では ヤシロロジが インタスサノヲイスムの諸要因を整理して位置づけ それらを含むが やしろの資本過程(生活)の動態的な要因としては インタスサノヲイスムが ヤシロロジを含む。もしくは主導して 新しいヤシロロジを形成させてゆく。S圏が 《歴史のかまど》とよばれる〕。
やしろ( Yasiro )は 一般に S圏( yasiro )とA圏( superyasiro )より成る。(むろん はじめの命題〔(1)〜(3)〕において S圏が やしろの全体ないし基本・基体であるが この総論に対して 上の各論が成り立つ)。
一定の地域共同体(スサノヲ共同体)としてのムラ( mura )において 一個のやしろ すなわち 構成として 《S圏‐A圏の連関形態》をもつ。
一定のスサノヲ共同体としてのムラ相互の〔資本関係としての〕連関は インタムライスム( intermuraïsme )である。
インタムライスムの資本連関は くに( kuni )をつくる。
一個の《S圏‐A圏》連関から成るムラの互いに連関しあったくには それ独自の中央に位置するべきアマテラス圏をもつ場合がある。
くにとしてのやしろシステム(社会形態)も おおきく《S圏(インタムライスム)‐A圏(中央)》連関から成る。
くになる社会形態は 一般に 生物学=社会学的な一個の民族( nation )〔=言語〕の集合を その土壌としている。
くにとしての《S圏‐A圏》連関形態( kuni-ihé )は ナシオナリスムとしての《アマテラス‐スサノヲ》連関体制たりうる。
インタスサノヲイスムまたはインタムライスムとしての資本連関は くにとしてのやしろ全体に 発展しうる。
このようなやしろの資本連関は くにの枠組み( ihé-national )を超えうる。または はじめに 超えていた。
このようなやしろ資本の連関は 〔イエ・〕ナシオナリスムまたはそのA圏の主導しまた支配するところとなりうる。
〔ところで〕 スサノヲのアマテラス化の歴史には 前史と後史とが ありうる。
それらは やしろの生活の中で 光と闇 善と悪 精神と身体 昼と夜 公と私などなどの対立する二項となる要因(また領域)について どう対処するかをめぐって 具体的なインタスサノヲイスムのかたちが争われることにおいてである。特に これらの対立する二項が 互いに相容れない二元であると唱えられるとき おおきな問題となる。
言いかえると 共同主観(常識)が歴史的に変わることである。民主主義の社会に至るまでの 時代の変遷でもあった。
やしろ資本の連関が 主体的にはインタスサノヲイスムにおいて 客体的にはヤシロロジにおけるインタスサノヲイスムにおいて それぞれどのようかたちを歴史過程としてとっていくかである。
資本形成の過程は 主体的にも客体的にも インタスサノヲイスムの問題であると考えた。(このとき 客体的なヤシロロジ視点に立ったやしろ過程が インタスサノヲイスト個人から独立して存在していても 上の視点に 矛盾はないと考えられた)〔(8)〕。
言いかえると やしろ資本は はじめに(原理的に) S圏(ムラ / インタムライスム)にあると価値判断された。


〔以下は 価値判断の内容をつけ加えて述べよう。〕――

くにとしてのやしろシステム すなわち広義の《アマテラス‐スサノヲ》なる二階建て連関体制は おそらく逆立しているであろう。アマテラス圏なる頭で立っているらしい。言いかえると それは 《S圏(インタムライスム連合主導)‐中央A圏(従属)》の連関制が ふつうのすがたであるだろう。
インタナシオナリスムも S圏段階でのそのような資本連関 つまり インタ・インタムライスムを――中央調整機関としてのA圏をとおして――過程させることが より一層ふさわしい。
なお 社会形態としての《A‐S》連関体制は より具体的に《A(アマテラス市民政府およびアマテラシテ元首)‐S》連関形態として捉えることができる。
このような中央A圏は インタムライスムS圏の全体的な調整・相互仲介の機関として考えられる。S者市民の代表(または代理)は S圏各ムラの中のA圏ないしA者であり 中央A圏は さらにその代理と捉えられる。(自治態勢(市町村ならびに都道府県)の段階と国家の段階とである)。
〔以下 これらにかんする神学的なヤシロロジの諸原則として。――〕
やしろが――少なくとも人間の内なるやしろが―― キリストの肢体である。
したがって――キリスト・神は愛であるから―― やしろ資本が愛である。
《この岩(ペテロ)の上にわたしの教会(やしろ)を建てる》(マタイ16:18)。
S圏やしろつまりムラが エクレシア( ecclesia = église ;自治態勢の議会)なる教会。(言葉の問題である。そういう表現を それとして 引き継ぐという意味)。
やしろ全体(S圏連合‐A圏連関形態つまり くに)が キュリアコン( kuriakon = church; 主の家)なる教会。(宗教から自由なそのような社会形態のこと。ほかの宗教組織などは 表現の自由にのっとって 大きくこのような共同自治の体制のもとに うごく。)
ペテロ(岩)は インタスサノヲイスト。
《あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。また主は言われる。見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは《岩》の上に立つであろう。私はあなたを《岩》の頂上に(霊的な共同主観に)置こう。私が通り過ぎるまで 私は手であなたを蔽うであろう。(≒《かごめ かごめ》)。私が手を除けるとき あなたは私の背面(《うしろの正面》)を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう》(出エジプト記33:20−23)。――つまり これは アマアガリにかんしてである。
たとえば 《主が復活して御父の御許に昇られるその栄光(アマアガリ Ama-agari の共同主観)において主の威厳が移り行くや 直ちに真実に私たちは岩の上に堅固( sanctus )にされるのである。堅固にされる前には恐れから三度否認した(〔イエスを〕裏切った(マタイ26:70−74)〔その〕)お方を確信をもって宣べ伝えた(主観共同化の実践)のである。確かにペテロは 〔前史においても〕予定によって(神は 《恵もうと思う者を恵み あわれもうと思う者をあわれむ》(出エジプト記33:19))すでに岩の頂上に置かれていたが 主はなお御手をもってかれを蔽い 見るのを遮られたのである。ペテロは主の背面を他日 見るはずであったが 主は未だ たしかに死から生へ移り行かれず 未だ 復活によって栄光( Ama-agari )を受けていられなかったからである》(三位一体論3・17)。
《主の霊のあるところに 自由がある》(コリント後書3:17)。
《私たちは顔蔽い(このいまの神学的議論のこと。もしくは 内面エートスの《固有の法則性》のA語理論スーパースサノヲイスム または A語観念共同スーパーアマテラシスム)なくして主の栄光(本史)を鏡(やしろの経験世界としての理論像)に映すように見つつ 栄光から栄光へ(前史から後史へ 共同主観から共同主観へ) あたかも主の霊によってのように 同じ似像に変えられるであろう(《キリストに似る者とされるであろう》(ヨハネ第一処:17) インタスサノヲイストが 同時にヤシロロジストとして立っているであろう)》(コリント後書3:18)
《真理は きみたちを自由にする》(ヨハネ8:32)。
インタスサノヲイストが 岩のように堅固にされて 同時にヤシロロジストとなるのは 理論によってではなく またヤシロロジストとして自由になるのは 真理の信仰によってである。(時間的なものが永遠に関係するように 信仰が真理に関係している)。
ヤシロロジストが 〔自己あるいは理論を〕知らないことと それを思わないこととは 別である。知らなくても 実質的に思っている・だから実践していることはありうる。
前項の後者(その思うこと)は 理論家も 理論する方法主体としての自己の〔精神・愛の〕滞留をあらわすようになるといったかたちのことである。そういうことが起こりうる。
したがって 信仰が 前史から後史へ移行する自己の歴史の動態のことである。
《神は ユダヤ人だけの神でしょうか。・・・ユダヤ人も異邦人も 等しく信仰によってただしい者とされる(アマアガリせしめられる)》(ローマ書3:29−30)。
ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム。
《あなたを愛し あなたにおいて友人を あなたのために敵を愛する人はさいわいなるかな。まことに 失われることのない御者(おんもの)において万人を愛する人だけが 親しい友人を一人も失わなくてすむのです。その失われることのない御者とは われらの神(S圏やしろの資本推進力=愛)でなくてだれでしょう。・・・あなたの法は真理 真理はあなたなのです。》(告白4・9・14)。(この神を言葉によってこれですと示すことができるとは思われない。信仰にとっては 教会だとかキリストの肢体であるとかはすべて 表現の問題である。)
ゆえに ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムにおける アマテラス予備軍(《顔蔽い》の制作者・仲介者)の解放。
《それゆえ 人間に従ってではなく神に従って生きる人は とうぜん善を愛する人となり したがって悪を憎む者となるのである。さらに だれも本性じょう悪いのではなく 悪い人は本性の欠陥のゆえに悪いのであるから 神に従って生きる人は悪い人に向かって完全な憎しみを持つのでなければならない。というのはかれは 人を欠陥のゆえに憎んではならず むしろ欠陥を憎み 人を愛すべきなのである。もし欠陥がいやされたならば すべては愛すべきものとなり そこには憎むべきものは何も残らないであろう》(神の国について14・6)。本性じょう悪いのならば 憎んでも仕方ない。善という一元のほかに 悪というもう一元があるとするのなら 互いにけんかするのは自由だが しても しなくても どちらも同じこととなる。悪という名の善であるかも知れないし そもそも 悪と善とをわきまえること自体が 不必要であり意味のないこととなる。二元論とは そういう思想である。
という神学の蔽いを――蔽いとしては――取り除くべき すなわち かく言う《わたし》を無化すべき。
なぜなら 《霊魂(精神・A者)のすべてのわざわいが身体(S者)から来ると考える人は誤謬を犯している。・・・霊魂の重荷となる身体の腐朽は 最初に罪を犯した原因ではなく むしろそれの罰だから。朽ちる肉が霊魂を罪あるものとしたのではなく かえって罪ある霊魂が肉を朽ちるものとした(――または この肉の腐朽性を あせって嘆き 二元論的精神主義のスーパースサノヲイスムを説く――)のである》(神の国について14・3)。
この悪しき霊魂から説教するアマテラス予備軍の《欠陥を憎み 徹底的に憎み その人を わたしたちは 愛すべきである》。
これは むしろ 身体の運動・生活・井戸端会議 また ヤシロロジとしてのそれらにおいて 信仰が愛をとおしてはたらくことによってである。
罪がなくなるとは思うな。身体の腐朽性も。色と金の世界がなくなるとは。この地上において。(もし なくなったときには わたしは 大嘘つきとなる)。
けれども 欠陥がいやされる。
そのような 《失われることのない御者》=キリスト の肢体の完成。