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哲学いろいろ

#95

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十三章a やしろ資本推進力の観想が 必要である

――§48――


前章では いささかヤシロロジ領域を逸脱して述べてしまいましたが これをわたしは 水田洋やマルクスのせいに帰します。冗談ではありますが そのような方向の偏りを要請されているとも考えます。方向の偏りを経て 真理が――むろん その代理表現としてのことばをとおしてですが――明らかにされてゆくのだとも考えます。
わたしたちは ヤシロロジ理論をとおしては そのヤシロロジストとしての判断の分岐点に立ってのあり方を 具体的に・つまり歴史的に 明らかに語ることは一個もしていないように思われる。これを ここでは 例示しなければならないでしょう。道を切り拓いてゆくと言いながら きわめて片寄った表現で述べることを余儀なくされているかと思います。切り拓くときには それも必要なのかと自分ながら言ってもよいとすれば 思うのでもありますが。

それから 〔イエスと弟子たち〕一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り そこで売り買いをしていた人びとを追い出し始め 両替屋の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返した。また 商売道具を持って境内を通り抜けることも許さなかった。そして 次のように人びとにおしえた。

聖書に書いてあるではないか。

わたしの家は すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。
ところが お前たちはそれを強盗の巣にしてしまっている。
イザヤ書56:7)

〔祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて イエスをどのようにして殺そうかとねらっていた。・・・〕
(マルコによる福音書11:15−18)

《商品世界の狂想》が 《強盗の巣》と言われた――あるいはその逆――のであることは 重ねて述べるまでもありません。これと同じ行為(具体的・歴史的なヤシロロジ実践)を いまも行なえというのではなく これは イエス・キリストの外なる人の模範である。
《商品》についての分析を マルクスは次のように始めている。
たとえば 机について その《机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なもの》としての《形而上学的小理屈と神学的偏屈》の内容である。
すなわち 商品は 《他のすべての商品にたいして頭で立つ》というその物語である。アマテラス語抽象普遍客観とその共同化された観念によって 立っている・つまり逆立ちしていると言っているはづである。
次の文章は 平田清明の解説である。 

普通の目では 商品は労働生産物として価値対象性を有しているのである。つまり労働生産者たる人間自身の労働の社会的性格が 映現(反映)している。

  • 《労働生産者たる人間自身》すなわちスサノヲ者の《労働の社会的性格》すなわちアマテラス者性(もしくは客観概念としてアマテラシテ)が 商品に反映している。あたりまえの話である。
  • ちなみに その社会的な性格とは 共同性のことであり それは スサノヲ市民の内に存在するアマテラス公民性(社会的需要なる内容)からさらに抽象化されて アマテラシテ象徴たる貨幣つまり貨幣的価値つまり数値というところまで 煮つめたかたちで 捉えられていく。貨幣とは 商品一般のうちの究極の共同性(最大公約数)なるアマテラシテ価値を体現する一商品である。
  • このアマテラシテ象徴価値基準が与えられると 商品はみづから狂想曲をくりひろげるという。むろん 人間がそうするのである。足で立たなくなり 頭で立つようになるのだと。
  • ただし そのようなA‐S倒立連関は 一般に(古代国家の時代から)すでに やしろの中にA圏とS圏との連関制として 出来上がっている。

それゆえ 

総労働に対する生産者たちの社会的関係が これらの生産者たちの外部に存在する諸対象の社会的な諸関係(――くにやしろ資本の下のA‐S連関またその倒錯関係――)として反映しているのである。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・1・4)

このような倒錯した世界が商品世界であるこの世界には 《魔法妖術》がかかっている。

  • 商品世界が出来上がってしまえば そこでは すでに くにやしろ資本=国民経済がなければ 労働(その生産物)は労働とならないと想定されている。商品とならなければ 労働したことにならないと考えられている。
  • そこでは 《魔法妖術》が つまり A語共同観念の覆いが つまり アマテラシテ貨幣をめぐるA語抽象普遍観念の覆いが――その欲望にからめて 幻想となり得て―― 人びとの顔にも 掛けられている。頭の中にウイルスのごとく侵入している。

この世界が《まったく神秘化》されていること――くにやしろ資本 イコール 絶対の侵すべからざるものだとされていること―― それは《白雲につつまれた宗教的(=共同観念的)世界》に似ている。この普遍的転倒性。これが 商品のフェティシスム(物神性)に特質的なのである。
(§5・2・1)

 

私たちは 以上の諸点(略)において一つの倒錯=転倒 quid pro quo があることをみいだしている。それをみいだしている私たちの目は もはや普通の目とはちがう。
(平田清明:同上)

このことを 《ヨハネによる福音》は 上のマルコによる福音の記事と同じ事例を記すとき 次のように述べた。

ユダヤ人の過越祭が近づいたので イエスエルサレムへ上って行った。そして 神殿の境内で牛や鳩を売っている者 および坐って両替をしている者たちを見た。
エスは縄で鞭を作り かれらを皆 羊や牛も境内から追い払い 両替屋の金をまき散らし その台をひっくり返し 鳩を売る者たちに言った。
――これらの物を持ってここから出て行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。
弟子たちは

あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす。
詩編69:9)

と聖書に書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエス
――あなたはこんなことをするが どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。
と聞いた。イエスは答えた。
――この神殿を壊してみよ。三日あれば建て直してみせる。
それでユダヤ人たちは
――この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに あなたは三日で建て直すのか。
と言った。イエスの言う神殿とは 自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活したとき 弟子たちは イエスがこう言ったのを思い出し 聖書とイエスの語った言葉とを信じた。
ヨハネによる福音2:13−22)

平田清明は――そしておそらく一般に マルクシストは―― 《A圏‐S圏のやしろ両圏の転倒連関 または 価値のアマテラシテ象徴(貨幣)とスサノヲ者主体(ないしその労働ないしその生産物ないしその価値)との連関の倒錯 より繰り広げられる商品世界に対する《普通の目》と 《それとは違った新しい目》と言う。新しい目は 共同主観である。聖書は この共同主観の根源的な推進力たる《あなたの家(やしろ)を思う熱意》と語る。推進力が《熱意》であり 《愛》であり――つまりそのように表現されることが ふさわしいというほどの意―― この愛が 共同主観者たる《わたし(S者性)を食い尽くす》と 預言(解釈)をしめしたのである。
《新しい目》がある・それが生起するとは必ずしも言わず プレ・スサノヲ者(自然人)性なるわたしが 死なしめられると言ったのである。
《イエスの言う神殿とは 自分の体のことだったのである》から キリスト・イエスが やしろ資本推進力であり 《キリストの肢体》とは ほかならぬわたしたちなのである。やしろろじとしては 《やしろ資本連関》(そのような意味での神社・神殿)のことになる。これを《建て直してみせる》と語って 《資本推進力》じたいを 告知した。マルクスは かれ(その力)によって 語ったとしか思えないし また そのことをはっきりさせるべきであろう。
《わたしの父の家を商売の家(倒錯した商品世界)としてはならない》と語ったのである。むろん 商業がなくなるのではない。転倒が転倒されるのである。
これが 歴史具体的な行為としての判断の分岐点のあり方の ヤシロロジストとしての共同主観のちからである。

これらの物を商品として相互に関係せしめるために 商品の番人(所有者)は お互いに人として相い対しなければならぬ。彼らの意志がそれらの物の中にひそんでいる。したがって ある一人は 他人の同意をもってのみ したがって各人は ただ両者(――《われ‐なんぢ》対応――)に共通な意志行為によってのみ 自身の商品を譲渡して他人の商品を取得する。したがって 彼らは交互に私有財産所有者として 認め合わなければならぬ。契約という形態をとるこの法関係は 適法的なものとして進行するかどうかは別として ひとつの意志関係である
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・2 太字は引用者。)

から 《普通の目とちがった目と》ではなく むしろ 新しい《意志》として わたしたちは立ち合っていると言っていなければならぬ。
心がまえではなく 竹槍武装でもない。すでに《わたしは 焼き尽くされている》のだから。死なしめられてのち この同じ愛に静かに燃え立たしめられる。この意志の科学を 理論しなければならぬ。むろん 実践しなければ――つまり共同主観が常識となって 日常生活するのでなければ――ならないのであるが このときには 前史の中に寄留しつつ歩んでよいのである。
そうでなければ ヤシロロジが 竹槍武装の個人的な心がまえ主義となる。その譲歩が 実践なのである。この譲歩(弱さの持つ義)が さばきに変えられると言われたのである。また 誰も キリストその方と等しいと思うわけではなく――わづかに 《両替屋の台をひっくり返す 銀行強盗》が キリストを裏返しに告知する反面教師だが―― だから 寄留・滞留すべきと言われたと受け取ってのように かれをわたしたちは分有する。しかし これも 分岐点に立つ判断の共同主観としてのあり方を示すために言うのであって 譲歩が実践であるとき 抵抗しない・またただ沈黙していることを 意味しない。(この点も 各自 こころに問うべきである。滞留・S圏やしろ資本の保守が 現状維持に同じだと思ってはならぬ。)
平田清明や水田洋やまたマルクス氏が 裏側から前向きに語った内容を わたしたちは 後ろ向きに語っている。

神の国はことばではなく ちからにある。
(コリント前書4:20)

から。なぜなら 裏側から 前向きに語ったばあい それがもし異言でないなら その理論としてのことばが そのまま平面的に――つまりただ共同主観者どうしの つまりやしろ資本推進力の・存在を思うのではなく つまり《わたしの前史が焼き尽くされる》というインタスサノヲイストのアマアガリ過程が つまり意志の科学が・省みられることなく――移行し共有されまたその意味で主観共同化(つまり理論共有や理論の再生産や)がすべてだと考えられることになるから。
それは 信仰であるが 

愛(意志)なくば益なし。
(コリント前書13:2)

であるから。そのために水田洋は 著書を《信仰告白の書ではない》とことわっていた。《愛》を異言として語ったのである。
後者の場合そしてそれが異言でない場合 それが 心がまえ主義でないと言うには どうしても個別的な何らかの市民運動かもしくは政党活動の中にのみ――その中にのみ―― いわゆるスサノヲのアマテラス化なる個体としての歴史を見ざるを得なくなるであろう。
(つづく→2007-03-29 - caguirofie070329)