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哲学いろいろ

#98

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十五章 これを 商品〔なる資本〕の世界に寄留しておこなう

――告白5・4・7――


たとえば 自分が樹木を所有していることを知り それを使用できることをあなたに感謝する人は たとえその樹木の高さが何尺でその幅がいくらというようなことは知らなくとも それをはかりすべての枝数を知りながら 所有せず その創造主を知りもしなければ愛しもしない人にくらべてまさっています。
(告白5・4・7)

ところが この樹木から机が作られ 机という商品 または 商品なる机 と成った場合 机という物の使用価値は もともと(昔から)樹木が使用されていたときのS者としての価値を保存しているが 商品としては・つまりその交換価値としては あたかも《商品どうしが互いに 〈われ‐なんぢ〉対応を持ってのように ある抽象普遍A語としての測定単位(たとえば 労働時間)によって 公的にA者としての価値(貨幣価値)が 付与されていることになる》であった。
人間存在が 《S者‐A者連関主体》であるからと言ってのように ここでも《A(交換価値)‐S(使用価値)》の連関構造が見られる。交換価値は 或る普遍性を持つから(なぜなら 一時間・一メートル・一円等々は 客観共同の前提を作っている) 商品が――はじめは 《A‐S》連関物であったのが―― もっぱらのA者価値物とみなされるようになる。(S=使用価値の側面は A=交換価値に比べて 二の次となる)。こうなると(なぜなら 人間主体も そのようなもっぱらのA者=専業公民が起こった) 商品の内部価値構成に A‐S倒立連関が生じる。
もともと 商品は 市民が互いに有無を相い通じるために 出現した。これを やしろ資本推進力が そう命じたというのではなく 市民のあいだのやしろ資本形成のために 正当にもゆるされた。また市民らは そのように共同主観していった。ところが ここに A者価値‐S者価値の倒錯連関が起こると 狂想なる商品世界がくりひろげられた。やしろ資本として S圏とスーパーヤシロA圏との倒立連関がおこなわれたのと同趣旨である。
だから わたしたちは《創造主・やしろ資本推進力》を知りかれを愛せと言っているのではない。それは いわゆる宗教である。なぜ《創造主》の議論を持ち出すかと言えば たとえば この《商品世界の狂想曲》の分析・認識として 次のようなヤシロロジ理論が 殊に近代市民的な商品世界に対して 批判的に(裏側から前向きに)打ち出されてくることについて これを知ろうとするがためにほかならない。
この点は すでに前章で触れたことだが また こう言うと わざわざ 自由価値的なヤシロロジ理論に いわゆる神学のおおいをかけようとしていると見られるであろうが もし こうしないと この《裏側・前向きの批判的な理論》が――マルクスの生前にはそうでなかったとしても―― ついにこの同じ《商品世界の狂想曲》のメロディに乗せられて 同じ知的商品として共有されるに至る・共有されるに終わるからである。言っていることは  回りくどいのであるが そういうことになる。――

経済学者たちは 一種独特のやり方をするものだ。彼らにとっては 制度に二種類があるだけである。人工的なそれと自然的なそれである。
封建体制の制度(商品交換の世界が 身分制によって制約されている)は人工的なそれであり ブルジョアジー(スサノヲ・キャピタリスト)の制度は自然的である。
彼らはこの点では神学者に似ている。彼らも同じように二種の宗教をたてる。彼らの宗教でない宗教は すべての人間の作ったものであるが 彼ら自身の宗教は神の啓示である〔と〕。――かくて 歴史はそのようにつづいたのであるが もはや歴史は終わった。
マルクス哲学の貧困 (岩波文庫 白 124-4)――プルードン氏の《貧困の哲学》に答えて――1847  2・1・〔7〕)

ここでわたしたちは あたかもマルクスのこのように批判する《神の啓示》を 棄てないのである。《封建市民のやしろ(そこにおける商品交換)と近代市民のやしろシステム》との二種の制度があり 前者は《人工的》で 後者は《自然的》だと言うのではなく

  • そのような一面は 真実である。なぜなら スサノヲ・キャピタリストの生産行為の形式は ともあれ平等で自由な(また 所有から自由な・何ものをも持たない)人間の自然的本性としてのS者から発している。しかし そう言うのではなく

ここでは 二つの歴史的段階を通じて 目に見えるやしろ資本連関は変遷しているが やしろ資本推進力(または 人間という存在)に変わりはないという視座を ひとこと つけ加えるのである。
なぜなら 《二種のやしろシステム または 二種の宗教形態 によってつづいてきた歴史が 終わった》と マルクスが言うとき そのように言うかれの視座も 上の視座のことにほかならない。そうでなければ 人間は もはや何を為すべきかを知らないと マルクスに対しては答えなければならないであろう。(一部のマルクシストは みな社会主義革命家になれと言うかも知れない)。つまり アマテラス・キャピタリストとなったスサノヲ者とそのやしろシステムを とにかく破壊せよという答えにみちびかれるか ともあれアナルシスムがまづ打ち立てられねばならぬと考えるか あるいは  さもなければ じっと事態を見守っているか(そのとき そのための弁明として 理論作業を主たる仕事とし 時に市民運動に参加する)であるだろう。
マルクスは たしかに いま現在の運動としてコミュニスム共同主観過程を言い またさらに《資本の推進力》と言ったのも ほかならぬかれであるのだが つまりそのように表側から後ろ向きに インタスサノヲイストとしてヤシロロジ発言をなしているのだが このとき かれが そのように発言し行動する自己に 或る神学がもし全くないというなら それは 全くないという神学が かれに在るのだと言っていなければならないであろう。人は 実際には そのように 自分の方法を滞留させつつ 生きている。
そうでないと言うには ただちに イエスのように《神殿から商人を追い出す》か それとも 《この世から出て行かねばならない》かであるだろう。
このマルクスを理解するためには――つまりかれと同じ共同主観に立つためには(あるいは もし立つべきでないならそういう思想だと了解するためには)―― わたしたちは 《神の啓示》を明示的に語る。そのほかのことではない。《歴史が終わる》ということは 《終えられたとき 新しく始められる》でないわけではないから。
わたしたちは ふたたび神の啓示を 新たな宗教として 信じよと言ったであろうか。むしろ 神の啓示 つまり マルクス本人が言うやしろ資本推進力を 神学として示していなかったとするなら 繰り返せば マルクスが その無神論も或る神学なのだと言っていなかったとしたなら かれは かれこそ マルクス教なる新たな宗教を 人びとよ創始せよと言っていなかったと誰が言うであろうか。
だが わたしたちは 神の語を用いない であった。そこに 公的普遍性たるアマテラス語価値概念(自然価格)および貨幣という現実価値たるアマテラシテ象徴の見いだされる商品世界において この商品ないし貨幣なる神が 偽りの神であることは スサノヲ者にははじめから分かっていたことであり 《あなたの家(やしろ)を思う熱意》が かれスサノヲ者を《食い尽くして》のように 十分にこの商品世界の狂想であることは 告知され〔てい〕た。
学・理論がではなく すでにスサノヲ者の心に・そして身体の運動としても 個々に告知しあった(共同主観した)のでないなら 近代市民スサノヲ・キャピタリスムが 矛盾を持ったものとして認識される気づかいはない。また 個々に告知せられたのなら すでに その告知者である神の語をわたしたちは殊更 用いる必要はなくなっている。全般的に 歴史通史的に 認識するうえで 用いることはある。これを マルクスにならって やしろ資本推進力と名づけて――神学・インタスサノヲイスムを〔むろん止揚しつつ〕保持して―― ヤシロロジ領域に立ちむかう。
これは 宗教になりえないであろう。自然的だからではなく この新しいスサノヲ者の意志の重さは 無意識の人工的に(人間行為の自然発生的に)と言ってもいいほど やしろの歴史過程の中から生じてきたものであり

  • この点 平田清明と同意見であり

これをもし 認識して《新しい目》の生起とその知解の共有を言うなら それはきわめて理論的な(理論生活的な)一宗教にもなろうが

  • この点 平田清明の方法はきわめてあいまいである。やしろ資本推進力を言っていないか もしくは分けて別なものとして言うからであるが

そこですべてを端折って言っても 〔この意志の重さは〕 或る宗教によって それを促したり また取り去ろうとしたりすることには なじまないものであろうから。
いわゆるマルクシスムを揚棄しなければならないと言うのは わたしたちの内的にでないなら どこに向かって言うのであろう。また ヤシロロジ行為としては 創造主を宣揚するのではなく――わたしたちはかれによって生き動き存在している―― 人びとを愛させよ と言ってのように 具体的な個々の問題に向かう。これを 同時に為すのであって 単なる心がまえでもなければ 単なるヤシロロジ行為でもない。


この点にかんする水田洋の発言は 微妙である。

キリスト教における政治権力と神の国

有名な 《王のものは王に 神のものは神に》(マタイ伝)というイエスのことばは 政治権力(現実の支配かんけい)と神の国(解放)との分離をしめしているし

  • ただし 両者が この地上にあっては 互いに入り組んで錯綜していること また 前者に在る人間が 後者を分有すること これらは すでに論じたが 省みられなければならないであろう。

パウロもまた 主人も奴隷も神のまえでは平等の人間だといいながら 外面的な身分かんけいと内面的な平等性とは 矛盾しないとかんがえる。

  • いや そうではなく 《神のまえでは平等の人間だ》ということは 《神はご自分があわれみたいと思う者をあわれみ かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる》(ローマ書9:18)ことを排除しない。
  • 《外面的な身分かんけい》は 《内面的な平等性(自然本性としての共同主観性)》とは《矛盾》するようにも現われる。《聖書にはファラオについて 〈わたしがお前を王として立てたのは お前によってわたしの力(資本推進力)を現わし わたしの名を全世界に告げ知らせるためである〉(出エジプト記9:16)と書いてある》(ローマ書9:17)と言われるとおりである。

現実の支配かんけいと神の国における自由平等とが 対置されたばあいに 両者が並行とみるならば ストア的な現実是認となり 矛盾するとみれば 社会変革的となり さらに 前者が後者の手段だとすれば保守的となる。そして じっさいにキリスト教は このみっつの立ち場のあいだを動揺しつづけたといっていいであろう。
(水田洋:新稿 社会思想小史 引用は1956/1968 2・3)

これが 微妙な発言である。註解したところによって 後半の文章を批判するとすれば やってできないことはない。たとえば 《現実の支配かんけい――〈A‐S連関体制〉すなわち国家というやしろ形態の出現の以前と以後 あるいは その未来に起こるであろう歴史的な形態移行 それらにおける支配関係――と神の国における自由平等とが 対置されたばあい 後者は前者に寄留しつつ進むのであるから その限りでつねに 滞留しつつやしろ変革的な進展がその基調とならざるを得ず その基調の中には 両者の並行する関係も 矛盾のあらわになる場合もあれば(つまり むしろ矛盾の出現のほうが 並行する関係だが) 前者が後者の手段とされる場合も むろん あり この手段とされ用いられる場合というのは 一方で やしろ形態の支配者たとえばA圏が 後者を宗教的な神の国概念なる観念共同として そのための手段に支配関係を動かしてその教義をつくらせるとすれば 保守的となり 他方で むしろS圏が その神の国のために前者・現実の支配関係を手段として用いるなら それは はじめに示したやしろ変革的な基調と同じものなのである。
だが 水田洋の言うところは むしろこの批判して示そうとした論旨とそう遠く離れていない。そう言い切ってよいだろう。
そうではなく 微妙な発言だというのは これによって水田洋は マルクシスムが この《キリスト教》(おおきくとらえたそれ)の一系譜にあると言っているようでもあり また マルクシスム〔というヤシロロジ観点〕を持たなければ《キリスト教》によっては 確立されたインタスサノヲイスムは生起してこないと言っているようでもある からである。わたしたちは ほぼ同じことを 方法の滞留が必要であり また 方法の滞留を 意志の科学として〔実践する中に〕 理論していなければならないと言って来ている。
事は かんたんでもあり 複雑でもあるようだ。けれども 神は 単純な存在でいたまう。
現実のやしろ諸関係が 矛盾を持つことなく 虚偽によって傷を受けることのないならば 創造主・救い主・慰め主・弁護者そしてやしろ資本推進力とよばれる神ということばを 人間は 持つことはなく 受け取ることもなかったであろう。(言葉としてだけでも そうであったろう)。問題は 《宗教としてのキリスト教〔徒〕が動揺しつづけた》のであり――また マルクス使徒たちが 正当にも 動揺しつづけたのであり(§52)―― 《やしろ資本推進力》が動揺・変化したのではない。
けれども この力の国の外交官(使徒)であるわたしたちは この推進力を飲みまつれとは言わず――歴史において 現代では むしろ人工的にこそ すでに飲みまつったと言ってのように―― 人びとを愛させつつ 神の語を用いないで 個々の問題にあたるであろう。このときの意志の科学〔というより 実践 というより 生活だが〕を この点では 水田洋はまだ 裏側から浮彫りにするようにして 発言しているように思われる。またそれは 異言だと思われた。
わたしたちは かの商品世界に寄留しているのであり こうだとはっきりさせるべきであると思われる。この商品世界を享受するために神の国〔の理論共同〕を利用するばあいは論外だが 一般にインタスサノヲイストたち・すなわち 神の国を享受するために前史なる母斑の商品世界を用いる人びとも そのあいだで 方法とその滞留形式において ゆきちがいが生じていると考えるのである。
(つづく→2007-04-01 - caguirofie070401)