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哲学いろいろ

#97

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十四章 観想と行為との或る種の理性的な結婚の尋求

――告白5・4・6――


商品生産者の一般的に社会的な生産関係は

  • 商品(《それ》)を介しての一般的にやしろにおける《われ‐なんぢ》なる対応関係は

彼らの生産物に商品として したがって価値として相い対し

  • 商品関係・その意味での価値対応があって初めて 《われとなんぢ》とが共同主観(常識)し合えるとなっており

また この物的な形態の中に 彼らの私的労働が

  • つまり 必ずしも商品アマテラス語を介さないS者の労働が

相互に等一の人間労働として相い連結するということであるのであるが

  • たとえば時間がその評価単位であり そのアマテラス語普遍概念が たとえば貨幣アマテラシテ価値として その尺度として用いられる。これによって 等一・等価という測定が成立――つまり 一種の共同主観が成立――する。このようなかたちで 相い連結するのだが

このような商品生産者の社会にとっては キリスト教が その抽象的人間(――つまり アマテラシテ象徴者。貨幣的価値の創出者としての人間像。ホモ・エコノミクス――)の礼拝をもって とくにそのブルジョア(=スサノヲ・キャピタリスト)的発展たるプロテスタンティズム 理神論等において もっとも適応した宗教形態となっている。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)1・1・1・4)

マルクスは言う。
キリスト・イエスは 《抽象的人間》なのではなく 《人間の貌においては 涙し声をあげて叫びながら十字架につき 槍で突いたら血を流した》具体的人間である。キリストが 見えないやしろ資本推進力として(もしくは 《神の背面・うしろの正面》として) 《等一の人間の自然本性》の源であるが――その限りでかれは 《抽象的人間》であるが―― さらにこの力は 《私的労働》にもそしてなんなら商品を介するところの公的労働にも わたしたちをとおして はたらきたまうと信じられるのであるが このインタスサノヲイスムそのものが 神すなわち推進力なのではない。それは 信仰が 教義や組織集団をもった宗教となった《キリスト教》が言ったのである。
だから 《抽象的人間の礼拝》《プロテスタンティスム・理神論等》の思想もしくはエートスが 《神》なのではない。プロテスタンティスムをもしウェーバーが《説いた》とするなら かれのヤシロロジは 新しい別種の《キリスト教》なのであり スミスは しかしながら 《理神論》を用いて説明したにせよ 理神論を《神》としたのではない。
というふうに 上のマルクスの言葉を 同じ内容として 言いかえることができる。

  • ただし スミスは 《商品世界の狂想》を 歴史経験的に見ていなかったし したがって そこからの解放を必ずしも捉えて理論していない。

けれども 《やしろ資本推進力》の神学の助けを借りて表現しても 借りずに表現しても どちらもまったく同じなのである。マルクスは 経験科学としてヤシロロジ理論をのべると言った上で そう表現している。わたしたちは ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイストの自己形成のための自己了解(自己還帰)として 神の語を 用いた。わたしは ここで マルクスの行き方を わたしのくせの問題として 嫌った。しかも このわたしのくせ(エートス)は わたしに絶対的に固有であると言うよりも 時代の・社会の情況に応じて 自己還帰を了解する表現が そういうかたちを採ったものである。もちろんこれは わたし自身のせいなのであるが。
一般に 《宗教》がすでに揚棄されたから 商品世界を見る眼も 新しい眼が用意(発見)された。けれども わたしたちは このような人間の歴史的・自然成長的な発展として生起した新しい眼をもって見よ とは言わない。新しい眼を持て とは言わず――なぜならそれは 隠れて密教的であるにせよ すでに存在する―― やしろ資本推進力に属(つ)くべきであると言う。それが 経験的にも 人間の歴史の流れに参画することになると言う。マルクス主義者・水田洋は 同じことを裏側から言っていたと考えるゆえ それを表側からも一度言うべきであると考えられた。
この歴史的な方向の偏りは必要であると考えられた。新しい眼がそれじたいで歴史を継承するのではなく――それはただ 歴史の産物だ―― はじめに歴史を継承するという意志(愛)がはたらくとき マルクスを継ぎ アウグスティヌスをよみがえらせることができる。
この意志は ただ知るという知解の意志ではなく 

わたしは信じた。それで わたしは語った。
詩編116:10。コリント後書4:13)

と言われるように 

私たちが目指して行く目標への導き手として 〔やしろ資本推進力が〕私たちに出会いたまうのであって 私たちがそこから来た道において出会いたまい
(三位一体論4・12・15)

て 生起してくるものではない。
新しい意志が生起し 新しい眼が得られたなら その自己の全体としての到達度合いを述べているべきであって 新しい眼が用意され発見されたそのことを 理論的に説明しても 事は始まらない。《新しい眼》が 歴史を継承するのではなく――それは 前史としてつねに継承している―― この《わたし》が 歴史を継承するのである。到達度合いに応じて ヤシロロジ行為において あやまちも起こると言った。そのために 新しい共同主観者は 意志の科学を理論しつつ すすまねばならない。けれども 

すべての事 あいはたらいて益となる。
(ローマ書8:28)

と言われた。なぜなら 本史によって 後史に立って 前史(つまり 過去)にも新しい共同主観(信仰・意志・愛)がつらぬいてのように――このことはすでにわたしたちは論じた(たとえば §15)―― そのようなかたちで 歴史が継承される すなわちわたしたち一人ひとりが 《歴史の共同相続人》(ローマ書8:17)となると 表側からいばって 言われた。しかし このようなことは 意志の行為をよく知る人びとは マルクシストにしろナシオナリストにしろウェーバリストにしろ すでに用いている表現形式である。
このような《異言を語ることを禁じてはならない》(コリント前書14:39)。《わたしは あなたたち皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが それ以上に 預言できればと思います》(同上14:5)は ここで聞かれるべきです。
わたしが言いたいことは 《 〈われ‐かれ(マルクス)〉 ‐歴史》の諸対応の視座の中でではなく 《われ‐やしろ資本推進力》対応によって 《われ‐なんぢ / かれ / それ》諸連関に到来し近づけということです。なぜなら マルクスもそうしている。とマルクスを解釈しなければならないのは マルクスもしくはマルクシストのせいであろうと思われる。つまり やしろ資本推進力 神の語を持ち出さざるを得なくさせたのは かれらのせいです。そのかたわらで 他の神々・一般に宗教との関係が――宗教は止揚されたというだけではなく 止揚された情況として そこに残像する神々(つまり わたしたち)との共同主観による連関・つまりわれわれの寄留の形式が―― よく認識され容易に実践されるようになったとわたしたちは考える。

私はすでに 不滅のものは滅びるものにまさるということを知り それゆえにまた たとえいかなる者にましますにせよ とにかくあなたは不滅でなければならないことをみとめていましたが そのように それ以外の真理をも見出そうと努力していました。
じっさい 至高至極の善(善とは 存在)であるあなた以上にすぐれたものを考えることは いかなる魂にとっても不可能であったし 将来も不可能でしょう。
(告白7・4・6)

という愚かさ・弱さを 方法としていなければならない。方法としていることを 確認する要が生じてきた。また これへの途上にあると言っているのではなく――わたしたちは この目指す目標への途上にある―― 途上のそのつどの到達度合いにおいて むしろ後ろ向きに後史として立ち 風景の認識(地図=理論)そのものを提示するのではなく 前史を含めた自己の意志の歴史を科学していなくてはならない。
これは 知解行為・地図の作成に還元され得ざる生の基本的なあり方であり それには 宗教としてではなく 信仰として つまり理論の奥に・あるいはその行間に 不滅のやしろ資本推進力を思うという意志・愛が 欠けるということのありえず また 一度は確認してすすむことが 要請された。そのほかのことではなく また そのほかのことであっては 元も子もない。
道を切り拓くと言いつつ まだここで滞留している。急ぐ必要はなく またヤシロロジ行為が試行錯誤の未完成なら 急いで何かになるということではない。だから 《わたしにとって生きるとは キリストを生きることである》(ピリピ書1:21)が すべてであるが そのとき 《わたしの父の家を 商売の家としてはならない》という愛に〔焼き尽くされて〕燃え立たしめられる。このことが 個人の心がまえでは解決不可能であるゆえに どこまでが 心がまえであり どこからが試行錯誤のヤシロロジ行為であるかを 滞留しつつ方法として確立させてゆく。
このとき 主観(心がまえ)が 霊的な共同主観としては――《父の家=キリストの肢体》がわたしたち自身であると言われたことにより―― 教会(エクレシア)=自治態勢( mura )つまり自由都市のやしろ資本連関(社会的諸関係の総和)の領域にまでは 何の困難もなくひろがると考えられた。それによって 誤謬をまぬがれないながらも 容易にわたしたちはヤシロロジ実践(おおきく生活のことにほかならない)してゆくことができた。


けれども

現実世界の宗教的反映は 一般に実際的な日常勤労生活の諸関係が 人間にたいして 相互間のおよび自然との間の合理的な関係を毎日 明瞭に示すようになってはじめて 消滅しうるものである。
社会的生活過程 すなわち 物質的生産過程の態容は それが自由に社会をなしている人間の生産物として 彼らの意識的な計画的な規制のもとに(――自由が基調であるゆえに 《規制》が有効:引用者――) 立つようになってはじめて その神秘的なおおいをぬぎすてるのである。
だが このためには 社会の物質的存立条件が必要とされる。これらの諸条件自体は また永い苦悩にみちた発展史の自然発生的な産物である。
資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)1・1・1・4)

という《諸条件》が このマルクスの当時とはちがって 現代ではすでに整ったとわたしたちは宣言したい。ここで 急がず 方法の滞留をなすことは マルクスがこう言ってそうしたのと同じであり すなわち そのような方法の滞留・この地上の国への寄留の歴史的な系譜じたいが むしろわたしたちの目指す目標なのであり(そこに ヤシロロジ実践をともなっている) 市民の祖国である。ここに やしろ資本推進力たるキリストが いたまう。ここから 現実のやしろ資本連関に――すでに寄留していてさらに―― 到来し近づき この現実の家をも ヤシロロジ実践をとおして 変革してゆくことができる。
これと異なったやりかたでおこなうヤシロロジ(あるいは インタスサノヲイスム)は われわれの共同主観者とは別のものであるだろう。


《ことばが多ければ 空しく滅び去る》(箴言 10:16)と聞きつつも わたしたちは それぞれ到達度合いに応じて 多様性において そして時に対立のなかに さまざまに やしろ資本推進力なるそのかたを証言しつつ 語りすすむ。証言しようと思って語るのでないゆえ そうなると思われる。また ヤシロロジ領域において 外なる形でも 宣教し また弾圧・迫害に抗しつつ 証言をなすべき行為の時代は すでに去ったと考えられるゆえ。
(つづく→2007-03-31 - caguirofie070331)