caguirofie

哲学いろいろ

#103

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十九章a 同じことを やしろ資本推進力が 三位一体であることとして

――§14――


マルクスは インタスサノヲイストとしてかれの描くやしろ資本連関に一つのかたちを与えて たとえば次のように表現している。

〔最後に〕われわれは 〔目先きを変えて〕自由な人間の一つの協力体を考えてみよう。
人々は 共同の生産手段をもって労働し 彼らの多くの個人的労働力を 意識してひとつの社会的労働力として反出する。ロビンソンの労働の一切の規定(その規定は この文章の前にあるが 省略している――引用者)がここで繰り返される。
ただ 〔ロビンソン・クルーソーの場合〕個人的である〔がその〕かわりに〔ここでは〕社会的であることがちがっている。ロビンソンのすべての生産物は もっぱら彼の個人的な生産物であった。したがってまた 直接に彼のための使用対象であった。
この協力体(S者どうしの二角協働関係のそのやしろ総体)の総生産物は一つの社会的生産物である。この生産物の一部は 再び生産手段として用いられる。それは依然として社会的である。しかしながら 他の部分は生活手段として 協力体の成員によって費消される。したがって この部分の様式は 社会的生産有機体自身の特別の様式とともに またこれに相応する生産者の歴史的発展の高さとともに 変化するであろう。
ただ商品生産と比較するために 各生産者の生活手段にたいする分け前は その労働時間によって規定されると前提する。したがって 労働時間は二重の役割を演ずるであろう。労働時間の社会的に計画的な分配は 各種の労働機能が各種の欲望にたいして正しい比例をとるように規制する。他方において 労働時間は 同時に生産者の共同労働にたいする したがってまた共同生産物の個人的に費消されるべき部分にたいする 個人的参加分の尺度として役立つ。
人々のその労働(A者的労働〔時間〕が同時にS者的な労働となっているような)とその労働生産物(A者的交換価値が同時に 消費者において S者的使用価値となっているような。言いかえると S者的労働が A者的交換価値〔=S者的使用価値〕を作り出すところの)とにたいする社会的な連結は このばあい生産においても分配においても簡単明瞭であることに変わりない。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・1・4  太字は引用者)

もはや この理論の内容を吟味しようとは思わない。たとえ まちがいがあったとしても それはよい。――水田洋の言うには この発言において インタスサノヲイスムの部分とヤシロロジの部分とは 明瞭に区別しがたいのであるが―― ヤシロロジストとしての発言として限定するなら 一方で そこにあやまりがあるから マルクスはまちがったと言うのは まちがいであり 他方で いやこの理論こそ真理であってこれを大前提として ヤシロロジを展開させるべきだと言うのも まちがった行き方である。
要は もはや この内容については いまは詮策しない。そうではなく わたしたちは 三位一体について少しく論議しようとしている。
マルクスのこの文章は 現実のやしろ資本連関(社会的な連結の目に見えるかたち)について 発言している。これはかれが やしろ資本推進力(目に見えない)にインタスサノヲイストとして固着してすすむその一つの結果であると言っても言わなくとも まづ そのようにかれの《記憶》していたところである。記憶しているものを そのようにかれが《知解》したのである。知解して表出する。
さらに はじめの記憶(身体を基体とするところの精神)と第二の知解とを かれの《意志》が あたかも結合してのように 表現したのである。そういうことになる。
また それは ごく基本的な 人間の存在あるいは行為の原形式(ないし自然本性)のあり方である。――処女性だから原罪をまぬかれていないとは言っていない。だから ヤシロロジ理論は 本質的に 時間的・偶有的・有限・どうでもよいと捉えられる。だからと言って この理論というものを むろん 無視することにはならない。
時間的で変化しうる領域のことがらに対して いくらか勇んで言えば 人は どうにでもすることができるようにではないが 統括している。この統括能力は 精神=身体において 記憶と知解と意志との三行為能力(能力行為)が担っている。
ところで 父なる神は――創られずして創る本性であり―― この人間の《記憶》に似ている。子なる神は――知恵からの知恵 はかりごとからのはかりごととも考えられ―― 同じく《知解》に似ている。また 聖霊なる神は やはり同じく《意志》に似ている。
言いかえると 《記憶‐知解‐意志(愛)》の三行為は 人間の能力であり 三つの人間ではなく 三つの能力であるが この三一性(三行為能力の一体性)が 逆に言うと 三位一体なる神の 似像であると考えて 不都合はないとおもわれるのである。
子の父と父の子と 父と子との交わりなる聖霊との 三つのペルソナの一体なるやしろ資本推進力に似せて わたしたちは造られたと考えて それほどの不都合はないはづである。(むろん 人は その父と母とから生まれ出たのである。このような 但し書きは これから 省くことがある)。もっとも 人間において 記憶が記憶するのではなく わたしが記憶しているのであり 知解能力が知解するのではなく わたしが知解するのであり 記憶(その意味で 狭義の精神)も知解(知性)も意志(愛)も それぞれ人間そのものではない。
したがって 人間の自然本性における三一性は 人間そのものではなく 人間の能力であり またその行為過程・過程的行為であり 人間の有(もの)である。一個のペルソナ(人格)の有する三行為能力とその一体である。
ところが 単純な本性にいます神は 三つのペルソナの一つの本質(存在)でいたまう。記憶すること自体が その存在であり 知恵であること自体が その存在であり 愛であること自体が そのちからでいたまう。
しかも 記憶のペルソナが 知恵のペルソナでないことはなく したがって 父(記憶)からの子(知恵)は 知恵からの知恵とも言われるのがふさわしく すでにこの父と子との言詮を絶する交わりは その両者から 何らの時間的間隔をおかずに 発出したまいてのように 聖霊なる愛として 第三のペルソナでありたまう。
三つのペルソナとその一体は 各個が各個と 各個が全体と 全体が各個と それぞれ 等しい存在である。
そのような人間の存在のみなもとが 告知されたことにより 信じられ――つまり その根拠を論証することはむづかしい―― 信じられたことにもとづき これを観想して そのように述べた人がいたのである。

  • この《サンクトゥス・アウグスティヌス》は すべてアウグスティヌスに負うているが この三位一体については 特にそうである。アウグスティヌスの観想(《アウグスティヌス三位一体論》)がなければ 無理である。ただわたくしも 《記憶(精神の秩序)‐知解(その表現)‐意志(意志行為)》の三一性を やしろ次元に対応させて 《司法‐立法‐行政》の分立協力する三権にあてはめたことがある。

人間における一個のペルソナの三つの行為能力の一体性よりも 三つのペルソナの一体性のほうが 不可変的・無時間的にして不可分離であると考えられるが このことは 不思議に見える。ところが これをわたしたちは 真実で一つのやしろ資本推進力と呼ぶ。わたしたち人間が その自然本性なる人間存在は このやしろ資本推進力の似像であると――告知にもとづき――とらえたのである。そうでなければ おのおの主観の共同性( communisme )は 現実でないと考えた。
こう言ったから 共同主観が実現するのではなく 主観共同化の過程は この霊的な共同主観によって歴史的に進展するであろうと言わなければならないと捉えたことになる。これを わざわざ明示して発言するのは ただ マルクスに対してその点において抗議するためなのである。けれども 一般のマルクシストによるマルクスへの〔かれの理論を 発展させるという〕抗議ではなく たとえばウェーバーとその学徒らによる抗議は すでにこの神を持ち出していたのである。かれらは 科学的であるためには 価値自由でなければいけないと言ってのように この神を 人間的なエートスの領域と次元に落とした。この神によってアマアガリするのではなく 自己がみづから先に――精神によって――アマガケリすることによって 神によるマルクスを エートスによるマルクスとして捉え つまり 単なるキリスト史観のエートス的な一派生形態であると 断じた。
これらに対して ただ沈黙しないでいるためには この神ご自身を――かれを 明らかにしてかれらに示すわけには行かない つまりわたしたちもそれは出来ないが かれらが この神を受け容れるにはまったくふさわしくないのだというその根拠を 明らかにするために―― 明示して表現し語った。この三位一体が いま問題である。
一つのやしろ資本推進力が 三つのペルソナの一体性であることによって この推進力に固着してすすむわたしたちの歴史に 前史と後史 その回転が存在するということ。アウグスティヌスの回心。また おおきく前史にあったアブラハム〔やヤコブモーセやら〕は ただ《ねたむ神》というふうに表現されていたこの神によって行き動き存在したとするなら かれらは 三位一体の神の日を楽しみにしていた。
また キリスト・イエスの出現によって かれらは 喜んだ。
また マルクスは キリスト・イエスの出現のあとの時代の人である。うんぬん・等々の点について。


子なる神が 肉となり人間と成ったと言うのである。三位一体の神のみこころを告知するために。また かれの出現したときにも かれが〔たとえば 十字架による死によって〕去り行かなければ 聖霊なる神は来ないと語られ ミクロ的な(個人個人の)前史〔と後史〕の存在過程が 明らかにされるようになった。
なぜなら すでに 子なる神のペルソナは 父なる神および聖霊なる神の二つのペルソナと一体であるが だから《わたしを見る人は 実に 父を見るのだよ》(ヨハネ14:9)と言われたのであるが いま見ている姿への接触は 認識の目標をつくるからである。
たとえば 冒頭にかかげたマルクスのヤシロロジ理論が すでに――精神において・ないし観念物として――認識の目標をつくって 絶対的な大前提であると見なされることにひとしい。やしろ資本推進力は 外なる人の模範だけではなく 内なる人の秘蹟として 心の眼で見られる必要があった。これは 前史と後史との問題である。

  • 心の眼で見るというなら けっきょくは 精神の力によっているではないか。そうである。違いは 一つに こちらからの努力によるのではなく あちらからやってくるものであるということ。もう一つに 精神でとらえると言っても わづかに 指先で触れられるほどに むしろ感性にあって 知覚するのだということである。

けれども 人は 内へ向き変えられなければいけない。心が清められなければならなかった。《しかし わたしが与える水(やしろ資本推進力 また 聖霊なるペルソナとして)は その人の内で泉となって 永遠の生命に至る水が湧き出る》(ヨハネ4:14)ためには 〔人間となった〕御子(子なる神)は 聖霊(なる神――こちらは みづからをむなしくして人間となることはなかった――)に 譲歩したまう。
だから アブラハムに あのマムレの木の下で 《三人の人》として神は現われたまうたと言う。アブラハムを去って その後ソドムの町に行ったのは かれらの内の二人であった(創世記19:1以下)。父は 《ねたむ神》と表現されるものの アダムとエワ〔とその子孫 つまり わたしたち〕に 善悪を知る木からとって食べたままにはしておかれなかった。恐れを持たせたままには しておかれなかった。けれども アブラハムらは キリスト・イエスの日まで待たなければならなかった。イエス・キリストはまだ栄光(憶測=うわさ=井戸端会議=共同主観)を受けておられなかったから。
やしろ資本推進力の信仰は いまだ前史にあったからだと思う。わたしたちも キリスト・イエスによって神と和解せしめられる前には 神に敵対する(つまり ねたみ 恐れ 格闘する)罪人であった。(いまも わたしは そうである。人間ではない人間 人間であることを放棄した人間には 許し難い感情がある)。
それが 栄光から栄光へ 暗いかたちから明るいかたちへ変えられつつある。
(つづく→2007-04-06 - caguirofie070406)