caguirofie

哲学いろいろ

#96

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十三章b やしろ資本推進力の観想が 必要である

――§48――


言いかえると そのような外なるやしろの実践があって初めて――それは A‐S連関の連関側面とのみ関係する場合を言うのだが―― 共同主観者(インタスサノヲイスム=連帯)と呼ばれる性質のものであって そのときには実際問題として ただ理論していることは 実践の内に入らず もはやどうでもよく どこからも実践の火の手があがらないなら そのような場合 ただつれづれのなぐさみに・また純然たる職業として やっていることになるだろう。ほんとうには あのあきらめの美徳と変わりないのである。
そうではなく ミクロ的な《われ‐なんぢ》対応の過程 また 前史としての商品世界の中にあっても インタスサノヲイスムが始まっているとするなら その場で 表側から後ろ向きに ヤシロロジストたるべきである。このとき あやまちは ゆるされるのである。そしてそれは 意志(愛)の行為である。
《この世(――商品世界とその意志・愛――)には倣(なら)うな》(ローマ書12:2)とは 《この世からわたしたちが出て行かねばならない》ことではなく(コリント前書5:10) その前史・母斑の世界に寄留することを意味する。寄留するインタスサノヲイストたちの持つ《新しい目》を説いたり(これは スーパースサノヲイスム) またこの新しい目によって普通の目が見ている旧世界をただ分析し批判して進むのではなく すなわち言いかえると 新しい世界〔の自己〕を知ることではなく いまこの旧世界に寄留しているという自己を思うべきである。これが 意志の科学である。
アマアガリ(転倒=第一の死 の転倒=回心)はすでに成ったのである。少なくともその約束が与えられている。したがってこのアマアガリ〔する自己〕を知ることと 今しかしなお寄留している自己を思うこととは 別のことである。心がまえによる解決主義になるのではなく むしろ心がまえ主義を止揚している意志のあり方(その重さ)のまづ確立なのである。
この方法の滞留するというアマアガリ確立過程は むろんつねに ヤシロロジ行為と同時並行している。そのヤシロロジ行為関係(社会)が 個人の意志とは独立した領域を形成しているゆえ 両者の同時並行的にしてかつ自己の方法確立という道が ひらかれている。インタスサノヲイストの寄留の道は むしろ個人の心がまえ主義からの断念を経て 確立されてゆく。(ただし 内面的のみの確立だと言おうとするのではない)。
むしろ 自然本性への到来(わたしが食い尽くされる)によって 第二の自然たる社会的自己(これは なお残っていると思われるゆえ。あるいは すでに残像となったそれ)をとおして 一般やしろ資本の連関過程に参画してゆく。この意味では個人の心がまえは 保存されるのであって それがなお保存されるゆえに ヤシロロジ実践は 心がまえだけでは解決されないというほどに 一つにその行為は 未完成・試行錯誤なのであって 一つに心がまえが 霊的な共同主観としては むしろ永遠の生命を得ると言われるのである。
これは 内と外との使い分けであったり 二重性であったりするものではない。内なる共同主観が――キリストの肢体=神殿が―― 真理を分有するというほどに現実的であるゆえに 外なるやしろの行為は真実〔の愛・意志〕において動くということ。このとき 人間の真実は なお偶有的・時間的・可変的であることをまぬかれないと わたしたちは知っている。

  • 人間の真実の集積が 真理に到達するというのではないということ。人間は 真理にしたがって=信仰によって 真実を表現しあって生きる。真理から 人間の中へ到来し 真実をもって人間に近づくことができる。

ここには 二重性も使い分けも ありえない。

  • 構造的・動態的な――使い分けではないが――内と外であったり 二重性であるかに見える。しかし 人間とその真実はつねに 小さなものであり これを大きなものと捉えてしまうのは 未完成がすでに完成だと言ってのように自己を誇ったからである。けれども 小さなものは 大きなものを分有できると考えられた。

もし仮りに 二重性や使い分けが 真理であるなら 世の中に矛盾はまったく存在せず 人間の思想的営為も生じないか またまったくむなしい仕わざとなるかするのではあるまいか。対立も対立でなくなり すべて《飲めや歌えや》と あの《普通の目》で・つまり普通の目と新しい目との使い分けでわたしたちは 生きることになる。
それには あの《資本(愛)推進力》を 心の内なる眼によって――心が力なのではない―― 見まつることが 既に告知されていることにもとづき 要請されている。けれども この《力》は 不在なものの現在であると言われるように かれが存在するとおりには思惟され得ず またわたしたちが思惟するとおりには表現され得ないと語られてきたことを想起すべきである。
ところが これに絶望することのないようにと この《力》=キリストは 肉となって 人間キリスト・イエスとして出現したというのが わたしたちの信仰である。したがって たといわたしたち自身 その当の義人=自由人でなくとも すでに表側から・後ろ向きに この方に属(つ)いてのように 表現(行動)してゆくことができる。信仰とは 《信じられるものではなく 信じさせるもの》(三位一体論14・8・11)であるから。
これが 意志の科学であり 実は 前史(その栄光)としても この母斑の商品世界において この意志の科学はおこなわれているのである(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・2。§53)。一つには ナシオナリスムというくにやしろ資本主義の観念的な共同性が もう一つには スサノヲ・キャピタリストらの〔物・商品としての〕資本主義の合理的な知識としての主観の共同性が これ(意志の行為)を 歴史的に可能とし――或る種の信仰(動態)となして―― また やしろ全体的に普遍なものとしてきたのである。もしこれらの動きが すでにあらゆる形態を採り終えて 最高の段階に到達したとするなら この母斑としての前史の動きは 食い尽くされ死なしめられてのように――つまり 《時の充満》とともに―― 後史へ回転( révolution )すると インタスサノヲイスムとしてはアウグスティヌスも見聞したし ヤシロロジとしてはマルクスも証言しようとしたのである。
自然史的過程としてそうなるであろうと考えられることは スサノヲ者がそれを欲し時にこれに走り実践することを排除しないし また スサノヲ者が 自然本性と第二の自然とを有していなかったということにはならないゆえ かれはこれを欲し また 走らなければならない。心がまえだけで解決することが出来ないというのは この謂いであり また 逆に この欲するものを獲得し欲する所に到達できるのは あわれみたまう神によると言われることにその根拠がある。
それゆえ わたしたちは希望においてすくわれていると言われるほどに ここに寄留し 方法の滞留をもって すすんでいる。それゆえ 《かれ》は 《夜 盗人のように来たる》と言われた。けれども 《これを見分けない人は 神から知解を求めよ。私たちに問い求めてはならない》と言っている。やしろ資本推進力に敵対する旧い生き方を棄てよ というのが新しい道たる意志の科学の入り口に掲げられた言葉なのである。

  • キリストなる神も 旧約の時代に特に顕著にそう表現されたように 《排他的》な神であるが この排他的であることによって 他の神々つまりわたしたちを 自由にする。つまり教会に行って 罪のざんげをしたり賛美歌をうたう必要はないし また井戸端会議ふうに共同主観しあって生活してゆくとき キリストのキの字も引き合いに出す必要はないであろう。

(つづく→2007-03-30 - caguirofie070330)