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哲学いろいろ

#77

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Palais Promontoire ( Césarée )

Décrit par Joseph comme un "palais de toute beauté," cet édifice fut construit par Hérode le Grand sur un promontoire se jetant dans les eaux de Césarée. La piscine au centre avait presqu'une taille olympique, et était remplie d'eau douce. Une statue se tenait jadis au milieu. Paul fut peut-être emprisonné au rez-de-chaussée de ce palais (Actes 23:35).

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十二章 この蜃気楼閣は 新しいインタスサノヲイスムにとって 母斑である

――§34――


ただ 前章のように紹介された戸谷新右衛門は 幕藩体制という封建市民的なスーパーアマテラシスム

  • つまり 《A (〔アマテラシテ天皇〕 / 幕府アマテラス‐封建領主・諸アマテラス)-S》なる連関体制

に対して 《忠義の宗教》を尊びつつも その《義務の観念》から その行動をとったのではない。それらに対して それらに抗して ちょうど当時のブッディストがアマテラス予備軍となって採ったかのようなスーパースサノヲイスムを 新しく別の教祖となって興そうとして そうしたのでもない。ただ 現代においては アマテラス社会科学主体は すでに市民政府(スサノヲ・キャピタリストまたは スサノヲ・ナシオナリストが構成する)であり 主権が市民に存する(《S‐A》連関制)というのなら スーパーアマテラシスムなる共同観念はすでに 蜃気楼閣である。
ヤシロロジの出発点は その理論また政策より前に このような社会事情の進展に当然のごとく 留意しなければならない。言いかえると 《S‐A連関制》・いわゆるデモクラシを あたかもいただいて これに照らして 理論・政策するというのでは必ずしもなく デモクラシ自体が 一つの理論なのであるから 蜃気楼閣・共同幻想をそれによって批判するのではなく そのデモクラシ理論の中に 蜃気楼閣〔の共同観念〕をしかるべくよく用いてゆかなければならない。
戸谷新右衛門伝の紹介者・小室信介が 意を尽くして述べた(告発した)当時のブッディスムなるスーパースサノヲイスムへの批判は すでに終えられている。と同じように 精神のエートスなる真実の愛・その徳を説く現代のスーパースサノヲイスムへの批判も すでに終えられたとこそ たしかに言っておかなくてはならない。
そこで ヤシロロジの理論的また政策的な課題ということになるが なおかつ 逆にこのときにも 一般社会事情(必然の王国としてのやしろ情況)は その出発点にある。(人は 夜から歴史を始める)。すなわち スーパーアマテラシスム(A‐S連関体制)の残像とスサノヲイスム(S‐A連関制)との敵対であり 言いかえると この新しいインタスサノヲイスムは まだ 旧いスーパーアマテラシスムの母斑を身につけている。
この旧い自己の母斑(あざ・ほくろのたぐい)が もし欠陥でもあるとするなら この欠陥を 取り除くために取り除くのではなく それがいやされ もとの自然本性としての自己が回復されるようにして 自己をあらわしてゆくわけであるが けれども この自己をあらわしてゆくときに インタスサノヲイスムとしてではなくヤシロロジとしては 社会事情に即した偶有的・可変的・時間的な過程が 必至であり またその過程をおいてほかにその道がないとしなければならない。
ヤシロロジのためのヤシロロジは ありえないと知らなければならない。たとえば純粋に幾何学的に論理的に 殊に経済的なシステムとしてはそれを理論しうるわけであるが 幾何学的にやしろシステムを理論するということは インタスサノヲイスムが自己をきれいに現わすようでいて それはただ哲学者の仕事でしかない。わたしたちは この哲学者の立ち場を摂らず 哲学者とともにかれらの仕事を用いる。
もっとわかりやすく言うと あのスサノヲ・キャピタリスト(そしてそれとスサノヲ・ナシオナりストとの或る種の融合)の時代に 《両種の資本主義的行動の対立》があらわれたように インタスサノヲイストの自己形成(それとしてのやしろ資本形態の確立)の過程においても 旧い自己の母斑がかすかにしろまだ認識されてのように 当然のごとく 《多種の(なぜなら やしろの分業=協業からくる)インタスサノヲイスト的行動の対立》は 必至である。
また 母斑が払いのけられたときにも この《対立〔的発展〕》じたいは――おそらく 別種の段階においてであろうが――見られるということ。したがって ヤシロロジ形成にあたっては むしろいま この《多種の インタスサノヲイスト的行動の対立》を――そのような必然の王国としてのやしろ情況の場を―― 十分に前提としてとらえていなくてはならないであろう。そして むしろこの前提が 一旦は 共同主観じたいの前提として捉えられ確立されることこそ インタスサノヲイスムの新しい自己表現であると考えられる。
逆に極論すれば ヤシロロジ理論は どうでもよいのである。また 前提の認識とその主体的な確立 そのような方法の滞留こそが やはり新しいインタスサノヲイスムの〔ヤシロロジにとってもの〕興隆であると考えられる。やしろ資本の形成は そのようにしてしか 過程されないであろう。また 《学》ということの性格が 一変しているであろう。そして むろんそれには 前史の学をわたしたちは用いるのである。前提として 必然の世界なる場を 共同主観のもとに把握する。そしてこの場に対する共同主観としての行為関係の〔過程的な〕確立 これが じつは ヤシロロジとして すべてでさえある。
わたしが ここで ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムについて述べることができるのは ここまでである。その新しい視座を提示すること程度までである。《遅疑逡巡》していたことの理由は このあたりにあったとは思っている。
けれども 実は もはや実に 多種のインタスサノヲイストたちによる対立的発展の行動(その形式)は 過程されているのであり わづかに これに対してA圏(A者)からするスーパーアマテラシスムとスーパースサノヲイスム〔との両種のキャピタリスト的行動の対立〕が 旧い母斑として残されているのだと思う。もしこれを ネガティヴになお見なければならないとするならば それが この母斑としてのではなく なおうごめく蜃気楼の蔽いなのである。この古女房の館が 住み心地がいいと見いだすようなものである。女房を取り替えよと言っているのではなく 女房(同じその人物)を変えよと言っていることになる。その人を愛せと。つまり人を愛するということは その人をして愛させよという意味である。
この抽象的な観想の主張が ヤシロロジの理論なのだと思う。この〔インタスサノヲイスムとヤシロロジとの〕いわば接点を抜きにしては 資本形成は おぼつかないことだと考えている。戸谷新右衛門伝が この接点を考える上で その歴史的な物語の全体たる構造(つまり やしろ)として 仮象領域ではスーパーアマテラシスム〔なる現代市民にとっての旧い母斑〕を そして実体(生活)領域では インタスサノヲイスムの実践および理論〔のあり方〕を それぞれ語り出していると考えられたのである。
この接点(もしくは 〔共同主観と共同観念との〕錯綜して入り組んだ局面)を飛び超えていくなら まだ進展はおぼつかない。つまりそれを下にとび越えて行くことは 必然の王国の共同観念的な停滞に入るであろうし また それを上に飛び越えてヤシロロジ理論(また 類型的には 《政治経済学批判》)をひとえに作業することは 自由の王国なる共同主観的な停滞 すなわちヤシロロジという名の内的な福音伝道の二番煎じに陥るであろう。
もちろん この錯綜する局面を下に飛び越えて行って その他方の極に立つならば 既成の事実・社会事情という意味での現実を肯定するスーパーアマテラシスムとなって帰ってくるであろうことは請け合いであり また この接点に対して 精神の徳を至上のものとすることによって 超越する人びとは このもう一方の幻影の極に立って スサノヲイスム一般を先取りし スーパースサノヲイスムの説教家となって 実際には この接点に立つインタスサノヲイストの進展を阻み 宙宇に浮いて存在しているであろう。
ヤシロロジ理論は――諸原則の前提に立ち―― このように さまざまなやしろ人の行動形式 これらを明らかにして 語る。このヤシロロジストは たしかに 弱さを方法として滞留することを 自己の資本形成の過程そのものとしており たとえば《死ぬばかりでありつつ しかも見よ 生きている》(コリント後書6:9)という地点に立っているとしか わたしたちには考えられない。

  • わたしは ここでも ウェーバーのスーパースサノヲイスムが 追いかけて来る・甘えてくるものとおもう。しかし もはやここでは逆に 甘えさせるがよい。かれらは 自分たちも一度は触れ得たやしろ資本推進力の信仰を ふたたび取り戻そうとして やって来るのだから。もはやここでは かれらの好きなようにさせて上げることが出来る。言いかえると かれらとわたしたちの共通点は 上のように言ったとすると 《さまざまなやしろ人の行動形成を明らかにして語る》ことにあると一見 みられつつも 共通点もしくは共同主観の霊的な根拠は これを語る信仰にこそあると言えるのだから。このとき かれらが甘えてくることを――甘えは甘えなのだと認識しつつ・認識させつつだが―― 排除することはゆるされていない。
  • 嫌ってやることは 自由である。おまえなど知らないと いちど言ってやることくらいは ゆるされるであろう。

わたしがこれらのことを言ったために あなたがたの心は憂いで満たされている。
ヨハネによる福音16:6)

ということになるのであろうか。わたしたちが キリストの再臨などであるだろうか。

人にはそれはできないが 神にはなんでもできないことはない。
(マタイによる福音20:16)

のではないだろうか。つまり 人間的な論法で言って S圏やしろの真実の資本家とは このような人のことを言うのではないか。戸谷新右衛門が なお 犠牲にならなければならなかったとするなら それは ヤシロロジにおいては 前史なのである。言いかえると 戸谷新右衛門は 最大限に譲歩して言うとしても ここで――この前史だと認識した時点で―― 後史に入る。しかし 《夕鶴つう》は 後史に入らず 後史を求めたところで終わっている。もしくは 後史を裏返しにして 反面教師のようになって 映し出すことにしかならないであろう。これらのことは あなたがたを恥ぢ入らせるために言いました(コリント後書6:5)。
キャピタリスムは やしろにおける分業から生じるクラス間のスサノヲイスト的矛盾と対立との最後の歴史的段階であり スーパーアマテラシスト帝国主義は その最終的なステージではなかったか。けれども わたしたちは クラス間の対立ではなく 多種のインタスサノヲイストとしての対立から成る諸行動の総体たるS圏やしろの発展を 語るのです。
搾取がなくなるわけではない。けれども 搾取に対して ゆすり・たかりをおこなう必要のないやしろシステムを考えるのです。言いかえると A圏によるS圏へのはじめのゆすり・たかりがすでに止揚されていて 搾取や詐欺は ただS圏においてのみ 生じうるというやしろシステムであります。インタスサノヲイストらの多種の対立的行動形式には 搾取的対立もあるかも知れない。この矛盾そのものを取り除くのではなく この矛盾が 対立的発展にみちびかれるようなやしろ資本制を 理論していきたい。
また このヤシロロジは すでにいま 理論していることができるし 理論していなければならない。
これに対して わたしたちは 基本的に・原則としては インタムライスムS圏連合主導‐中央代理A圏の連関制を考えたが むしろ具体的なヤシロロジ理論の確立は 一定の理論的システムの樹立ではなく この方法の〔一人ひとり主体的な〕滞留にこそあって 具体的なシステムにかんする諸理論・諸政策は そのつど偶有的(むろん 歴史の継承として必然的だが)・時間的・可変的であると突き放していなくてはならないかも知れない。
《S圏やしろ資本》主義とさえいうほどの一つのインタスサノヲイスムのもとに 多種の相互対立的なインタスサノヲイストらの〔政治経済的および文化経済的な大きくは両次元での〕運動過程とその総体こそが 理論の第一原則であると 考えられるかも知れない。また インタナシオナルな次元でのインタスサノヲイスムおよびインタムライスムという課題も とうぜん ひかえている。
あたりまえのようであり かつ もって回った言い方だが 一点突破の道は――もちろんなお可変的だが―― このように考えられた。
(つづく→caguirofie070311)