caguirofie

哲学いろいろ

#91

もくじ→はてな061223

Silo
Aussi connue sous les noms de Kh. Seilun, Shillo, Shiloh

Silo vue de l'ouest

Le sanctuaire portable que Moïse bâtit dans le désert fut stationné à Silo du temps de la Conquête jusqu'à le destruction apparente de la ville par les Philistins en 1104 av. JC.

Psaume 78:60

Il abandonna la demeure de Silo, la tente où il habitait parmi les hommes.

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十一章a 意志(愛)が 道を切り拓いてのように 資本形成する

――告白4・16・31――


それゆえ それらの学問をやすやすとやってのけた才能と 多くの難解な箇所のある書物を人間の教師の助けをかりずに読み解いたということが 当時の私にとって何のたしになったでしょうか。私のぶざまな姿で冒涜のために醜くなり 敬虔の教え(――これによってわたしたちは 処女性に到来する――)に関してあやまちを犯していたのです。
(告白4・16・31)

一般に ヤシロロジ理論にかんする知識としての学問が これによって 排除されることにはならない。知っていることと 判断の分岐点において意志することとは 別であると知らなければいけない。そのような両面を含んだ総合的なヤシロロジが生起するであろうと言っていることになる。

実に 私は或る暗い密林をとおして道を切り拓くように強いられているのである。
(三位一体論1・3・6)


第三部の終わりあたりで わたしたちは インタスサノヲイストがヤシロロジするとき 《異言》によって母斑を用いつつそうする例として 水田洋の《現代とマルクス主義 増補版 (1969年)》なる著作について触れた。かれは 言うならば この《ヤシロロジストとして道を切り拓く》ことをやはり 《異言》をもっておこなっているとわたしたちは 考える。以下のごとくである。

社会科学(ヤシロロジ)は直接に人間の関係をとりあつかうのだから 自然科学(――《われ‐それ》対応の純粋客観化が 従来 それであった――)のばあいのように 客観的分析を追求して人間生活からはなれていく(たとえ ふたたびそこにもどってくるとしても)必要はないと おもわれるかもしれない。それは 社会科学において分析の対象と主体がともに人間であることから しばしばおこる誤解である。こまかくいえば この誤解は二つの形態をとる。・・・
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年) 前編・第一章・3)

この文章(判断)の意味するところは ヤシロロジも 自然科学のように 《われ〔なんぢ / かれ〕‐それ》対応の中の《それ(社会的事象)》を まづそれとして 分析・認識する必要はあると言っているのであるから 或る意味で わたしたちのこれまでのヤシロロジ観とは違うと考えられる。ところが――ここではすでに 細かな論証は省こうと思うのであるが―― すでにここで著者は 新しい道を切り拓こうとして こう述べているのであることに わたしたちは気づく。どういうことか。
かれは このように やしろにおける《われ‐なんぢ / かれ》対応の個々のあるいは全体的な行為事実について 《客観分析》を為す要があると言って すでに この《われ》は 《なんぢ / かれ》に対応するときと《それなる行為事実》に対応するときとにおいて 同じ一個の主観・主体であると――時に《異言》・単独語において―― 主張する。
この認識があやまっていないなら この《われ》は 個体・家族の一員としてのインタスサノヲイストであるときと 全体的にやしろの一員であるヤシロロジストであるときとの両行為側面において それは 異なる《われ》ではないと言ったことになる。《客観的分析・A語概念による把握》の必要を言うがゆえに そう――つまり主観・主体の一貫したインタスサノヲイスト性を―― 主張したことになる。この意味で この書は 稀有な書物である。
上に予示された《誤解の二つの形態》をそれぞれ読んでいくと わたしたちはさらに そこではまるっきり反対の方向が述べられているように思うであろう。ところが それは ヤシロロジA語理論としてではなく ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイスト(判断の分岐点に立つわれわれ)として読むばあいは 知識を提示しているのではなく この知識に対して(知識を用いてむろん世界に対して)意志している表現行為であることに気づくはづである。このような意味で 理論はどうでもよいのであることに気づくであろう。

念のためにいっておくならば この本でのべられているのは マルクス主義とはなにかということよりも マルクス主義を〔対象的および方法的に〕中心とする近代社会思想(――インタスサノヲイスム井戸端会議というほどの意――)の性質についてまなびとったことの試論なのである。
これは信仰告白の書ではなく 信者のための書でもない。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年)

と その《まえがき》において論じていることからも わたしたちの予断をまだ ひっこめないかたちで つづいて取り上げたいと思う。

〔ヤシロロジの性質にかんする誤解の〕第一は 社会分析と個人の自己分析(内省)との混同であって これは社会の問題を個人の心がまえで解釈しうるかのような錯覚をひきおこし 竹槍武装とおなじ結果になる。
あとでのべるように 社会が個人の意志から独立した機構であることが 社会科学の必要性と可能性の基礎なのである。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年)

以上で 第一点の全部である。一見すると わたしたちのインタスサノヲイストからするヤシロロジは 《竹槍武装》であるかの感をまねかしめられる。
けれども 言うところは 逆であって そうしないで・つまり竹槍武装なる個人の心がまえによって解決しようと試みないで ヤシロロジ諸理論を知ることをではなく この知識の《基礎》をもってやはり《意志する》ことが 新しい道であることを 異言によって(つまり 単独語による主観の自己共同主観化として) じっさいには説いているのであると言えば さしさわりがあったり 詭弁や非学問的な言動やに陥ったりするであろうか。
著者は ヤシロロジ理論を知ろう・またそれを提示しょうとしているのではない。その後の つねに 判断の分岐点に立ったのである。ヤシロロジをではなく ヤシロロジストとして 発言している。そこまでの《個人の心がまえ》は 存在してよく また一貫した《われ》のそれとして 存在しなければならないのだと。《社会分析と個人の自己分析(内省)との混同》があってはならないが むしろ著者は 個人としてのヤシロロジストの意志するところを 発言したのだ。
これは 《信仰の書》であり しかも ことばとしては《そうではない》と著者が言うのは 《マルクス主義をこう解してわたしは信じる》と言っているのではなく 《マルクス主義もしくは〈わたし〉の主観に立って もろもろの判断の分岐点に際しての意志の科学をこう考える》と言いたいがためであろう。《社会(やしろ資本連関)が 〔このような〕個人の意志から独立した機構であること(少なくとも 近代市民の社会では)》が 大前提となっていなければならないのだが そこで独立主観の意志行為が やしろにおける行為事実の関係の中で 埋没するわけではないと いわば裏返しに 言っているのにほかならない。
これが――異言による――道を切り拓くヤシロロジストの一例なのである。
熱心な読者には このことによって わたしが 水田洋を持ちあげているのでもなく また 貶めているのでもなく ただヤシロロジストとしての存在(その過程)を 客観的に(むろん そのとき同時に 主観的にもだが)・つまり言いかえると やはり自由価値的に 分析・了解・いや分別しているにすぎないのであることは 了解していただけるであろう。事は かように じっさい  《或る暗い密林をとおして》わたしたちは この第四部以降では 歩んでいるのだと思う。と言っても 自己を誇ったことにはなるまい。
この現在と同時進行するやしろ資本形成を 水田洋の言う第二・第三の誤解の形態を見ることによって わたしたちは おこなうことが出来る。

第二は・・・

(つづく→2007-03-25 - caguirofie070325)