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哲学いろいろ

#86

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Le Passe de Meguiddo

Depuis les temps les plus anciens (BA) jusqu'aux plus anciens documents des environs (Thoutmosis III) et jusqu'au futur (Apocalypse 16), Meguiddo assume un rôle de premier ordre. Cela est due en grande partie à sa position stratégique à cheval sur le passe de Méguiddo (le Wadi Ara) et à l'intérieur de la vallée mouvementée de Jizreel. La route moderne suit les traces de l'ancienne; le tell se trouve près du coin en bas à gauche sur la photo.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十八章 現代のヤシロロジとしての共同主観〔過程〕

――アウグスティヌスマルクス――


前章からのつづきにおいて 論じます。

仮りにわたしが誇る気になったとしても 愚か者にはならないでしょう。真実を語ることになるのですから。
でも 誇るのはよしましょう。わたしのことを見たり わたしから話を聞いたりする以上に わたしを過大評価する人がいるかも知れないからです。また あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。
それで そのために思い上がることがないようにと わたしの体に一つのとげが与えられました。それは 慢心しないように わたしを痛めつけるために サタンから送られた使いです。この使いについて 離れ去らせてくださるように わたしは三度 主に願いました。すると 主はこうお答えになりました。

お前にはわたしの恵みで十分だ。なぜなら わたしの力は 弱さの中でこそ十分に発揮されるからだ。

ですから キリストの力がわたしの内に宿るように むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それで わたしは弱さ 侮辱 窮乏 迫害 それに行き詰まりの状態にあっても キリストのために満足しています。なぜなら わたしは弱いときにこそ強いからです。
パウロ:コリントの共同主観者への第二の手紙 12:6−10)

けれども 時代は変わり――なぜなら 《キリストの力》が たとえば《やしろ資本の推進力》であると表現される要が出て来た―― あのマルクスは(かれが この手紙を受け取ったかどうかは知りません。それは 神がご存じです) あのマルクスは 《自分を過大評価する人びとがいるかも知れない》ことを むしろ意に介さず 知っていて 善きにつけ悪しきにつけ コミュニスム共同主観者としての《福音》を 発したのです。
一つには もはや かれの時代または《キリスト教》の時代としてのやしろ情況にあっては 《弱さ 侮辱 迫害 それに行き詰まりの状態にあっても やしろ資本の推進力のために満足している》ことが 《ただ沈黙する》ことでは済まされないやしろ的人間関係・生産関係を呈するようになった。
むろんこのことも 同じパウロが(むろん キリスト紀元一世紀だから 原理的に抽象的に) 次のように言っていることに通じているのは 周知のことであります。

多くの者がただ人間的な立ち場から誇っているので わたしも 誇ることにしましよう。賢いあなたたちのことだから 喜んで愚か者たちをがまんしてくれるからです。
実際 あなたたちはだれかに奴隷にされても 食いものにされても 巻き上げられても 横柄な態度に出られても 顔を殴りつけられても がまんしています。
恥づかしいことですが わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら 愚か者になったつもりで言いますが わたしもあえて誇りましょう。
かれらはヘブライ人(――やまとだましい――)なのですか。わたしもそうです。
アブラハム(――あるいは 逆に オホハツセワカタケのスメラミコト=雄略大悪天皇――)の子孫なのですか。わたしもそうです。
キリストに仕える者なのですか。気が狂ったように言いますが わたしはかれら以上にそうなのです。・・・

  • 論ずるなかれ わたしたちは かれら以上に 日本人なのです。

パウロ:コリントのインタスサノヲイストたちへの第二の書簡 11:18−23)

また 同じこのマルクスの誇りの第一の理由の点は 《過大評価する人びとがいる》くらいでなければ 当時すでに・あるいはまだ優勢であった《キリスト教》の単なる二番煎じ もしくは それにもならずに その宗教の中に埋没してしまったかも知れないと考えられたかも知れません。つまり ヘーゲルの哲学にしりぞくか あるいは それ以前へとしりぞいてしまっていたかも知れないと憶測される。
第二の理由は 当時のキャピタリスム(近代市民の合理的なやしろ資本主義)がすでに興隆していて ともあれスサノヲ・キャピタリストらによるスサノヲイスムは やしろ全体に あまねく現実に(すなわち 協働関係をとおして) 日常的・常識的となっていたことに起因している。言いかえると スサノヲ・市民の祖国(神の国)は つまりインタスサノヲイスムは 現実のヤシロロジ領域で 表現され論じられる基盤が――プロテスタンティスムの新しいエートスを介したかどうかは知らず―― 出来上がりつつあった。マルクスは この神の国インタスサノヲイスムを ヤシロロジ次元で 《資本( Das Kapital )》とよんで捉えた人間の・やしろの歴史過程の中に 問い求めたのだと捉えられる。
不幸か幸か 《われ‐かれ(マルクス)》対応の中に いわゆるマルクシスムを生んで かれを《過大評価する》(なぜなら ヤシロロジ理論は 誤謬をまぬかれない)一種のアマテラシスムに近いスサノヲイスムを 歴史的に輩出させた。
アジアの諸やしろ つまり非キリスト教世界では たとえば日本では あの内村鑑三によってではなく このマルクシストたちのはたらきによって この福音が伝道されたのです。伝道される以前に インタスサノヲイスムが存在したことは いくらかすでにわたしたちは見ました。また この同じ一つの福音に立ちつつ キリスト者としてヤシロロジに――むろん 誤謬をまぬがれずながら――出かけた山路愛山と そしてマルクシストとしてヤシロロジに出向く――いくらかあの《過大評価》を容れながら言えば――堺利彦とは 対立的なインタスサノヲイストとしての行動を取ったことも すでに見ました。
事の真相は こうであったろう。愛山と利彦とは 《われ‐なんぢ》対応において 一つの根源語を語っていたろう。またあのハーンあるいは現代において水田洋(《現代とマルクス主義》)は必ずしも対応語ではなく 単独語において 同じ根源語をかたっているであろう。もろもろの学問は 一般に《われ‐それ》対応において 根源語またはその基礎領域の真実を 問い求め表現しているであろう。
けれども この根源語を 仮象として・だから抽象的な普遍(アマテラシテ)として語る
一方で
《 〈われ‐なんぢ〉 ‐ 〔概念としての〕それ(たとえば ナシオナリテ) 》対応の諸連関を説くスーパーアマテラシスムがあり 
他方で
《 われ(精神存在)‐〈 なんぢ(罪人)‐それ(ありもしない無限に大きなものとしてのキリスト像) 〉 》対応連関を説くスーパースサノヲイスム・つまり対抗スーパーアマテラシスムがある。
母斑の世界におけるやしろ資本の事の真相は こうであるだろう。母斑の世界における前史たる後者二者と 前史的本史たる前者二者(ないし 後史たるそれらの四者)とのヤシロロジにおけるあり方の真相は こうであるだろう。
ヨーロッパやしろの影響のみを取り出すならば キリストとマルクスと時にウェーバーを それぞれ基軸としてのように 旋回・展開したであろうし 日本のやしろ歴史に立ってみるならば ごく素朴な・日常生活の・第一次的な・プレインタスサノヲイスム(原スサノヲ共同体)の・時にその意味でのシントウの・スサノヲシャフト=八重垣資本の――前史から後史へというよりも―― 密教的な存在から顕教となった存在への発展・時に転倒・したがって 再旋回なる共同主観の進展であったろう。
ここに
《〈 《われ‐なんぢ》‐かれ 〉‐それ 》諸対応の連関総和(つまり やしろ資本)
は これを綜合し止揚しなければならない。キャピタリスム〔=ナシオナりスム〕にもとづくやしろとその世界史的連関の中で 先進的な形態としては あの《貧乏線の標準》が超えられあの《乞食》がやしろにおいて解放され ゆたかなやしろになりつつあることより この総合的なアウフヘーベンは 現実可能であろう。
もし ブーバーに従って 《人間のとる態度によって 世界は二つとなる》ことがまちがっていないとするならば それは このインタスサノヲイスムのやしろにおける(だから ヤシロロジにおける)解放の現実可能に対して 〔霊的な〕共同主観において信じる人びとのその重さと もう一つには あの母斑の世界の古女房のやしろ城館にその憩いを見いだすことへと引力の法則でおもむく人びとのその重さとであるだろう。
つまり 世界に昼と夜とがあることは 類型的には 変わりがない。また わたしたちが 自然史的過程としてこの引力の法則(必然の王国)を 取り除くことは 出来ない。けれども 昼が夜へは渡されずに 次の朝を迎える人びとは この母斑の世界の前史たる引力の法則(わたしたちは ここから出た)を 後史において 殊にヤシロロジとして 用いることができる。
なぜなら わたしたち自身そこから出たところの母斑の世界の引力の法則は わたしたちがそれによって生まれたとは とうてい考えられないからである。わたしたちは みな それぞれ母から出た(両親から生まれた)が 母によって生まれたのではない。父によって生まれたのでもない。

血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志によらず やしろ資本の推進力によって 生まれた。
( cf. ヨハネによる福音1:13)

のだから。そしてその前史では 死んでいたのだから。引力の法則(血すじ・肉の意志・人間の意志)は 用いられたのである。また 人間はこれを科学の力によって 用いようというのであるから。
《神国・八紘一宇大東亜共栄圏・悠久の大義》を言うナシオナリスト・シントイスムにおいても そのように必然の王国が真の現実なのではないと言うのは(神国というのであるから たしかに必然の王国を真の現実だとは言わないであろう) ただ引力の法則の絶対的に支配するやしろ生活の世界を嫌ったからにほかならない。
それでは この引力の法則からまったく離れて 自分の精神の道徳的な力によって アマガケリし 天使の世界を――ウェーバー流のキリスト教にのっとって――説くべきであるか。けれども キリストは 血筋において 肉の意志と人間の意志とから生まれた(つまり アダムの子孫である)人間キリスト・イエスであったのであって 天使から生まれたのでもなければ天使によって生まれたのでもない。母からそして多分 父から 生まれたのであって 霊的な共同主観は このことを排除しない。
したがって たとえばあの《愉快な乞食》によって 人間の自然本性=いまの意味では処女性が 示されたのである。処女性=自然本性において歩む人びとは 万有引力(ただし 人間関係としてのである)の法則の支配しない世界が 告知されたのである。このくには この地上にあっては コミュニスム共同主観のやしろとして スーパーヤシロ第二階が主導するやしろにおいて・だからその共同観念の中にあって――引力の法則にしたがいつつ また時にこれを用いつつ―― 寄留していると知ったのである。
母斑の世界=共同観念にはしたがわなければならない。その引力の法則からわたしたちが出たのである。しかし この古女房の館が しんきろう閣となって やしろ資本を収奪し侵略し われらが寄留と滞留を 停滞(《飲めや歌えや》)にみちびくとき わたしたちは これに ただ沈黙 しないでいる必要がある。なぜなら たしかにわたしたちも 世界が《八紘(あめがした)一宇(ひとつのいえ)》の《共栄圏》であることを欲するし またそれぞれのナシオンのやしろが《神国》であることを知っているから。
わたしたちが 何を為すべきかを知らないとは 言わせてはならない。勇敢に悲惨に耐える精神力を欠いていると言われ侮辱されることがあってもよいが ただ沈黙しているべきではない。

人を愛させよ。
(三位一体論8・8・12)

ここで 前史(その栄光)と後史(その栄光)とがあると聞かれたのである。インタスサノヲイストは かくのごとく ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム共同主観過程に臨んでいることになる。
青臭い論議ばかりであることに 恥ぢつつ こう申し述べたいと思う。
つぎの最終・第四部は 思想を論じているのではなく――これまでは そちらに傾いていた―― 思想の主体・やしろ資本家としての行動そのものを論じる(開く)ことを欲したいと思う。
(つづく→2007-03-20 - caguirofie070320)