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哲学いろいろ

#73

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Kirjath-Jearim
Aussi connue sous le nom de Tel Qiryat Ye'arim, Baalah de Juda, Deir el-Azar, Gibeath-Kiriath-Jearim (?), Kiriath Baal, Kuryet el-'Enab,

Vue de dessus

Kirjath Jearim occupe la colline centrale. Derrière elle se trouve le village arabe israélien d'Abu Gosh, et la colline de droite est occupé par le Moshav Yad HaShmonah. De nos jours, l'autoroute 1 passe près de ce site, comme le faisaient les routes majeures de l'ancien temps. Cette route fut le chemin par lequel les Danites voyagèrent lors de leur migration de la côte vers le nord. Ils campèrent près de Kirjath-Jearim à "Machané-Dan" (camp de Dan).

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十章a ヤシロロジにおいてこそ 方法の滞留はあらわれる

――そのような点についてのアウグスティヌス――


わたしたちは 現実から現実の中へ到来し 現実に近づくのでなければならない。わたしたちは はじめの現実すなわち 霊的な共同主観 ここに到達しているとか すでに義人であるとか自由であるとかとは 言えない。しかも この当の義人でないのに 義について思惟し 人間の言葉でこれを表現することを為す。聞く人も たといその当の義人でなくとも 聞いた義をむしろ自己の内に認め その義を了解するのである。( Augustinus )。この現実から義でない現実の中へ到来し 現実に近づくのでなければ 共同主観インタスサノヲイスムは 資本形成されないであろう。

  • 天の国から地上の国に降りてインタスサノヲイスムするという神学を持ったところでこそ ともあれ前史的にしろ やしろ資本形成は――人間的な尺度でだが――よくすぐれて行なわれた。日本でも アマテラス者は アマツ国・タカマノハラから降臨してきたという。これが はじめのインタスサノヲイスムの仮象的な先取り・A語抽象客観化であるかどうかは ヤシロロジにおいて議論されるところとなろう。そしてこの場合は 唯一の正解を求めてというのではなく この地上でのやしろ資本形成のさらなる展開にあたっての新しいより良い道を求めてというほどのことである。しかし 神の国はこの地上の国と混在し混同して互いに入り組んでいる。

はじめに 自由〔独立の精神〕を立てているのでは 自由な資本形成は 成就しがたいであろう。その場合は 精神の知力といった蔽いをなお被せて かごのとりとして自由であり そのようなものとしての人間の栄光である。霊的な共同主観から(――《主に属(つ)く者は主と一つの霊である》(コリント前書5:17)――) インタスサノヲイスム共同主観においておよびヤシロロジにおいて現実の中へ到来し 現実に近づくのでなければ やしろのふところは見いだされ得ないと考えられた。これは なお未知の領域であるから この共同主観は 時に 二千年のあいだ 大ばか者の詐欺であると考えられた。
けれども 現実は ことにヤシロロジにおいて 相互対立発展的なやしろ資本の形成過程である。この観想を通過してでなければ コミュニスム共同主観はいまだ 福音伝道の内部対流(二番煎じ)にのみ終わるであろう。マルクスシスムが一般に この内的エートス内部の対流であると言っているのであり ウェーバリスムは いわば外部〔仮象的〕対流なのである。共同主観(常識)ときびしく敵対する共同観念(しんきろう常識)なるスーパーアマテラシスムは 古い外的仮象対流であり 共同主観がこの共同観念世界に滞留するのに反して 共同観念はそれじたい 共同主観の停滞なのである。ウェーバリスムなるスーパースサノヲイスムは 共同主観と共同観念との敵対をみづから勝手に超え出た(それは 許されていない)ところで 関与不可能なものとして 共同主観を先取りして共同主観に敵対している。
この現実の中へ 現実から到来し 近づくのでなければ 愛の王国の歴史的な進展はすすまない。資本形成は つねに観念〔共同〕の資本 すなわち あのしんきろう蔽いの掛けられたくにやしろ資本の増殖・再生産ということになる。しんきろうが ことごとく解消し去るとわたしたちは言わない。やしろ資本の形成にあっては――その後史にあっては―― この共同観念しんきろうを そのために用いると言う。アマテラス予備軍の精神エートスの王国主義を 解放したならそれは 容易にすすむ。
だから やしろの現実過程は 相互対立発展的な歴史であり 歴史であってよいはづだ。ヤシロロジの営為が それである。

また 私は徳(精神の徳)のうちにある平和を愛し 悪徳(必然の王国)のうちにある不和をにくみましたが 前者のうちに一致があることに気がつきました。またこの一致のうちに 理性的精神と真理および最高善の本性(資本形成の推進力)とがあるようにみえたが 分裂のうちにはこれに反し 何か知らぬが非理性的生命を有する実体と最高悪の本性(空中の権能)とがあり それはたんに実体であるばかりか たしかに生命でもあるが しかしあなたに由来するものではないと――わが神よ 万物はあなたから出るものなのに―― あわれにも考えたのです。
そして前者を いわば無性の精神であるという意味で単子( monad )と呼び 後者を双子( duas )と呼び 悪行における怒りと 淫行における情欲とがそれだといいましたが こんなことを言いながら 何を言っているのやら自分でもわかりませんでした。じっさい 当時の私は 悪はいかなる実体でもないし われわれの精神は最高不変の善ではない(精神主義エートスは 資本形成の推進力=愛ではない)ということを知らず 学んでもいなかったのです。
(告白4・15・24)

これによって わたしは いかに冒涜的に見えようとも 言います 必然の王国的なものであってさえ その相互対立的な具体的なヤシロロジにおける共同主観の過程 これこそが 神からの愛の歴史的動態なのであり 資本形成のやしろ的課題は ここにあると。
ここで 精神は ひとえに退かねばならないと同時に これを精神をとおしてわれわれは見る 見るゆえに 資本形成の実践を為すのだと。
マルクシスムは この領域で ここロードスで跳ばなくてはならない(一般的に言えば 実業家にならなければならない)し 全般的に言えば このやしろの場は S圏の基盤であるから この基盤へ スーパーヤシロA圏をアマクダリさせなければいけない。そのとき 現行の共同観念を幻想として捉えることは言うまでもなく 対抗の共同観念=ウェーバリスムを 幻想の幻想であるから 嘲笑ってあげなければいけないことでなくてはならない。

後者は 神(資本の推進力)の語で味付けしつつも そのようにわたしたちが聞きつつも 食べさせられていながら じつは食べさせられていなかったものであり 前者の幻影は その魅惑は十分知りつつ そこに寄留し なおかつ 仮象的に食べさせられていたのであるから この仮象を無理に取り除くというのではなく この仮象現実を用いる また やしろのそのような分立的領域としてはそのA圏を S圏へアマクダリさせ〔それらS圏の相互調整・代理機関として用い〕るでなくてはいけない。
これが 前史から後史への移行であると。
たとえば一例として 

国民は国家財政を《ゆすり・たかり》の対象と考えていると 防衛庁(当時)長官が言ったそうである。――と水田洋は S圏‐A圏連関のそのかたちを簡単に論じている。
国民が 自分たちで払った税金を 自分たちの生活にとりもどそうとすることが なんで《ゆすり・たかり》なのか。防衛費だけをぶんどることは 《ゆすり・たかり》ではないのか。国会議員が自分たちの給与をお手もりできめることは 《ゆすり・たかり》ではないのか。社会保障国鉄(当時)の赤字だけが非難されて 防衛費の赤字がなぜ大手をふってまかりとおるのか。・・・
(水田洋:読書術 1982 §2)

そもそも 租税というように A圏が・または《A‐S連関体制》の全体が S圏から強制獲得する経済的なシステムを問わなければいけないであろう。このような国家論は マルクスシムによって 別の角度から論議されてきたと思う。が それは 前史から本史へではないと言ってのように 政治革命を経ようが経まいが やしろ資本形成の基本的な過程形態を――これが 方法の滞留となろう―― 理論していなくてはならないであろう。体制が変わらなければ・・・というのは とりわけこのA‐S連関体制が共同観念として強固であると考えられるアジア的な市民に特有であり 堺利彦の例に見たように 方法の滞留であるやしろ資本形成の基本的な過程形態を 別の体制ないし未来時の問題として 取り扱っている。
ここで これまでに何度か用いた《霊》の語について いくらか説明しなければならない。
(つづく→2007-03-07 - caguirofie070307)