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哲学いろいろ

#87

もくじ→はてな061223

Porte du Bronze Moyen( Meguiddo )

Fortement fortifiée au travers du temps, Meguiddo se ventait d'une porte de pierre de type Syrienne lors de l'époque cananéenne.

Cette porte est plus récente que la porte à axe courbé (rendue droite pour accommoder les chariots) et plus ancienne que la fameuse porte "Salomonique," faisant partie des constructions du roi Salomon décries en 1 Rois 9:15.

第四部 ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイストの形成

第四十九章a 《やしろ資本》論を からだごと あらわす

――告白4・16――


ヤシロロジの諸理論にかんする おまえは 無知を隠すために 方法の滞留というように振る舞っているのではないか。或る意味でそうである。或る意味ではそうではない。
需要と供給という引力の法則を 学的に体系づけたところで 何になるであろう。それが 世の中の母斑としての世界のその前提であることは 子どもでも知っている。市場価格の成り立ち 一物一価の法則 交換(生産および消費を含む)の仕組みを 論理的に体系づけることが ヤシロロジの目的であるのではなく 前提なる仕組みを知って インタスサノヲイストとして かつ ヤシロロジストとして わたしたちは おとなにならなければいけない。そうでないヤシロロジ理論家は もはや 中学生に笑われるであろう。
けれども わたしたちは 

悪事については幼な子となってください。
(コリント前書14:20)

というパウロ使徒(外交官)としての親心(コリント前書4:14−15)を知っています。

物の判断については大人になってください。子どもになってはいけません。
(同上14:20)

というのが ヤシロロジストとしての前史から後史への移行なのであり これが そのまま ヤシロロジ理論なのです。知識は いやでも このはじめの理論について来るでしょう。アウグスティヌスは 《勉強が嫌で 遊びを好んだ》けれども 知識の習得を 怠ったわけではない。
ここで 教育論をぶつつもりはない。けれども 学問とは 自己訓練( disciplina )のほかのことではないので 研究学問( scientia )が先にあって その意味で・そのもとで 人間がおとなになるのだとは とうてい思い難い。
この第四部は はじめ《ヤシロロジにとってのインタスサノヲイスム》と題しようと思ったのですが 同じ内容として 表記のようになしました。前章・前第三部のおわりに述べたように 《ロジック》であるとか《イスム》だとかではなく 主体の行動過程を主体とさせて 論じるのがよいと思ったのです。
この前提に立って 第四部をはじめたいと思います。


インタスサノヲイストとしてわたしたちが行動するとき たしかにヤシロロジの次元においては 矛盾があり対立が生じると考えた。
有限者なる《われ》と有限者なる《なんぢ》とが 有限者なるもの(《それ》)を介して やしろ関係を結んでいるとき そこには 両者もしくは多数者のあいだに 一般に所有の・したがって消費の矛盾が当然なのも然ることながら 生産・協働行為の矛盾が はじめにあると考えられた。インタスサノヲイストたるヤシロロジスト(社会人というほどの意)が 自己教育するというほどに 実地にその意志が問われるのは この矛盾から来る対立の時点においてである。
基本的な結論としての命題は すでに提案したと思う。言いかえてみると この対立の局面にあって わたしたちはいわゆる選択を迫られているわけであるが それは 《あれかこれか》ではなく むしろ《あれもこれも》というインタスサノヲイスム(共同主観)に立って 実際には いづれか一方を選択するよう判断するということであったと思う。
《われ》が互いに《譲歩〔していたし 譲歩〕する》ことによって 対立的発展を期すことになるかと思う。《わたしたちの持っている物を求めるのではなく――そこで物を介していることは前提なのだ―― わたしたち自身が わたしたちの求めていることであ》ったから。
この判断の分岐点において むしろ弱さをとおして 互いの共同主観の確立を享受してゆくことというのであったと思う。言っておきますが これは 道徳ではない。倫理でもなく わたしたちは 《われ‐なんぢ》対応 またそこにおける両者と《かれ》との諸対応の中のそれぞれの《われ》と 《われ‐それ》対応の中の《われ》とが 異なるわれではなく 一個のインタスサノヲイストであると知ってのように ヤシロロジにおける行動において むしろ能力によって これ以外の形式においては 事を為し得ないのである。そうではあるまいか。
倫理であるなら それは これらの結果である。また 道徳は これらの結果の抽象A語理論的な規範なのである。
いまおこなっていることは 《物の判断については大人になってください。子どもになってはいけません。悪事については幼な子となってください》という霊的な共同主観の省察です。

  • アダム・スミスの《 Theory of Moral Sentiments 》は その一つの研究である。かれは 《同感 Sympathy 》を言って これを理知的に知解していると思われることを除けば 《倫理的な共同情感の理論(ないし観想)》として この理論が 《やしろ資本》論でもあるでしょう。わたしは いまのところ 一つには その理知性・知解行為が中心となっていると思われることより 一つには にもかかわらず 文章表現がそのままヤシロロジ行為となっていると思われることより かれの理論を整理して論じるとか その文章の一節を引き合いに出すとか ようしません。

弱さによる譲歩 むしろ弱さをこそ誇るという共同主観過程にも もし規範があるとするなら インタスサノヲイストの内なる人の秘蹟に立った・その外なる人の模範が 生きた動態的な規準なのである。そのとき わたしたちは 他のことを 他の方法においては わたしたちの能力によって よう為さないのです。能力によって 出来ないのです。

  • スミスは 理知的に この結果の情態を あるいはその結果に至る判断の認識過程を 理論したかのようである。そしてこのスミスの観想についてのわれわれの感想は なお微妙である。

母斑を母斑として むしろ身体の運動において(可感的に・共同情感のようなかたちの共同主観として) 知ってしまっているから。わたしも気の狂ったように言いますが 

キリスト・イエスのものとなった(――資本推進力を知り飲みまつって 共同主観者となった――)人たちは 《肉》を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

  • 旧いわたしが焼き尽くされたというのだと思います。

パウロ:ガラテア書5:24)

から。かと言って 無感覚・無感動(アパテイア)なのではない。身体を放棄したのではない。そうでなければ 《物の判断においておとなになる》ことはできない。
けれども 

この十字架(――譲歩の能力。自然本性=処女性における資本推進力の分有――)によって この世はわたしに対して わたしはこの世に対して はりつけにされているのです。
(ガラテア書6:14)

から 前史を終えしめられつつ 前史の中に寄留している。勝手にアマアガリしようとは思わない であった。

割礼(――日本人にあっては 共同観念くにやしろ資本への入門儀式たる踏み絵を踏んだことの証明書――)があるかないかは 問題ではありません。

  • 証明書とは さしづめ みんなが――たとえ面白くなくても――笑ったなら 自分もいっしょに笑うことが 踏み絵であり 証明書です。なぜなら それは 前史における母斑なのであり ヤシロロジの問題としては 存在すること自体が 母斑の中から出ている。そういうかたちで生まれて来ている。

たいせつなのは 新しく創造されること。
(ガラテア書6:15)

であるとすでに知っているから。
ここで 対立的なヤシロロジストとしての行動の分岐点に際しての判断が 問題となります。
(つづく→2007-03-21 - caguirofie070321)