caguirofie

哲学いろいろ

#71

もくじ→はてな061223

Vallée d'Harod

Cette superbe vue est remplie d'histoires bibliques. Depuis cet endroit sur Tell Jizreel donnant vers l'est, on peut presque s'imaginer l'oint (mais pas encore couronné) Jéhu "conduisant de manière insensée," en route pour tuer les rois d'Israël et de Juda. 900 ans plus tard, Jésus guérit les 10 lépreux, probablement quelque part dans cette vallée.

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第三十九章a ヤシロロジとしても 方法の滞留ということ

――《アマアガリせよ》と《説く》アウグスティヌス――


現実の運動の一歩一歩は 一ダースの綱領( Programm )よりも重要です。したがって もしアイゼナハ綱領(社会民主労働党綱領)よりいいものができなかったとすれば――そして現在の状況はそれをゆるさなかったのですが―― 単に共同の敵にたいする行動を目的とした協定を結ぶにとどめるべきでした。
マルクス:《ゴータ綱領批判》に添えたブラッケへの手紙 望月清司訳)

たとえば 

労働の解放は 一地方あるいは一国民の課題ではなく 社会的課題であり 近代社会を存立せしめている国々すべてを包括する社会的課題であることを考慮して 社会民主労働党は 結社法がそれを認めるかぎり 国際労働者協会の追究する目的を支持しつつ 党を同協会の支部と自認するものである。
アイゼナハ綱領 1869年第二条第六項)

というように 《単に共同の敵に対する行動を目的とした協定を結ぶにとどめるべきでした》とマルクスは言うのである。
わたしたちは これが 前章で見た堺利彦の愛山のヤシロロジに対する批判の形式をめぐる問題点だと言ったことになる。《福音伝道のような方法の滞留――または 滞留をきらうのだが ほかに方策がなく止むを得ざる滞留――》といった形式で批判しようとした または 対処しようとしたと考えたことになります。
なぜなら 《一国民の課題にとどまらないところの やしろの課題》=《共同の敵に対する行動を目的とした協定を結ぶということ》が じっさい インタスサノヲイスムの福音伝道的な側面であると言わなければならないのであるが これは じつは 究極的なあり方としては 外的にやしろの情況にはかかわりなく 言いかえると《協定を結ぶ》が否かを問わず 人間が市民としての直面せざるを得ない内なるやしろとしての課題なのである。

  • もっとも ここに 労働者階級としての福音による共同主観化という・より具体的な側面を見なければならないが やはり この共同主観者に労働者階級だけしか容れないのではないことより インタスサノヲイスムと言いうるし 言わなければならない。

この意味で それは 福音伝道のようなインタスサノヲイスムの側面なのである。このことを 自覚して認識することは必要であるが これは ヤシロロジにかんする綱領(プログラム)ではなく いわゆる哲学であり じっさいには 方法の滞留ではない。(プログラム以前のプログラムつまりそのような哲学が――或る種のA語理論が―― それじたい 政治的実践と見なされたり またこの哲学的な・S者生活段階での《政治的実践》が 政党活動としての政治的実践へと糾合されることはありうる。)
もう少し 詳しく説明しなければならない。
このような内なるやしろの(《自己還帰》をめぐる自己の)課題が 人間的・やしろ的・世界史的な課題であるゆえ ――それが 誤謬をまぬかれていないかどうかを別として――たとえば上の《ゴータ綱領》としても そのようにヤシロロジにおける具体的なインタスサノヲイスムの滞留(寄留)のかたちとして 打ち出されてくることは たとえ《小資本家党》としてであっても ありうることであり わたしたちは このインタスサノヲイスムのヤシロロジ的実践の一側面を 見逃すべきではない。
言いかえると 《内なるやしろ的課題にかんする・したがってやしろ的課題にかんする〈協定〉》は すでに 人間が人間(市民)である限り その存在することじたいにおいて 結ばれているものなのであり この暗黙の(密教的な)協定の締結に《とどまるべき》と言うのは 方法の滞留ではなく 伝道者の立ち場にしりぞくということをしか意味しない。逆に言いかえると インタスサノヲイスムの共同主観的な《協定》は そのように 身体の運動において生活じたいにおいて 結ばれている(共同主観は 常識である)のであるから かれらがヤシロロジに向かうときには さまざまな対立的試行錯誤が過程されることは 当然のことなのであり この多種対立的な共同主観過程において 全インタスサノヲイストは 《共同の敵に対して》すすむべきである。
インタスサノヲイスト党(もしくは 文化団体等であってもよい)が どれだけ多くの派に分かれていたとしても それは何らさしつかえない。ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスムは むしろそうして対立的に分かれているのでなければ おかしい。しかも おおきくインタスサノヲイスト党は 同じ《共同の敵に対して》連帯して すすむのである。なぜなら 〔S圏〕やしろ資本〔の愛〕は 唯一であるから。わたしたちは これ以上に明白に述べることはできない。疑問を抱く人びとは わたしたちに尋ねるべきではない。みづからに問うべきである。
《現実の運動の一歩一歩は 一ダースの綱領よりも重要で》あって 《現実の運動の一歩一歩》はおおきくやしろ資本の形成として ひとつのインタスサノヲイスムを推進しているはづであり それらのおのおののヤシロロジとしての《一ダースの綱領》は 相互対立的であってよく そうでなければおかしいのであり インタスサノヲイストは この党派の対立を超えて共同の敵に立ち向かっているのであり そのように多様性の中におこなわれるのでなければ むしろインタスサノヲイスムとは言えない。《共同の》とは言えず 《主観》とも言えない。
インタスサノヲイスムの原理は 一つである。その原理から派生する諸原則も――内的な固有な方程式というほどに―― たがいに共同しているものである。けれども ヤシロロジとしての実践は――やしろ内の分業=協業というほどに―― 多様であり相互に対立的でさえある。これは 《多種のインタスサノヲイスト的行動の対立》であって かつ一つのやしろとしての課題をになって ともにすすんでいる。これに敵対するのが 上塗りする観念としての《両種のくにやしろ資本主義的行動とその談合的対立》なるもっぱらのA者の反やしろ的(やしろ侵略的)行動なのである。
けれども S圏やしろ資本が エクレシアとしての教会(スサノヲ共同体)であると同時に A圏‐S圏連関体制なるくにやしろ資本も キュリアコン(チャーチ)なる教会(おおきく やしろであるに変わりない)であると言われたことによって 一方で 唯S圏主義に立つアナルシスム(無政府主義)に走らず 他方で ただ権力によるA圏奪取によるS圏の解放なるいわゆる政治革命にも一義的におもむかないのが わたしたちの基本であり方法の滞留であると考えられた。ただ だから もっぱらのアマテラス者のうち 社会科学主体(市民政府)当事者 これは 反やしろ的であるとしても その欠陥はむしろS圏のインタスサノヲイストの欠陥(やしろ侵略性)を反映している部分があり この意味で(この逆説的に見た意味で) やしろ資本の形成に参画している けれども なおかつこのA圏‐S圏連関体制の外に出てしまって 観念的・精神的にスーパースサノヲイスムの立ち場を取る人びと 上のアマテラス者への予備軍 これらは もはや関与不可能というほどに やしろ資本の形成にも参画しないことによって 参画しているというしろものなのである。この甘えは やしろとしての課題にあっては ゆるしがたい欠陥であると考えられる。
人間は その存在(自然本性)じたいによって善である(やしろ参画的である)から 甘えるA者予備軍も ゆるしがたいというほどに 愛さなければならない。
(つづく→2007-03-05 - caguirofie070305)