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哲学いろいろ

#88

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Autel du Bronze Ancien ( Meguiddo )

Faisant partie d'un grand complexe religieux du 3e millénaire av. JC, cet autel de sacrifices est frappant par sa taille (10 m de diamètre) et son emplacement (derrière le temple).

Un escalier mène en haut de l'autel, une petite barrière téménos entourait le tout, et une grande quantité d'os d'animaux et de cendres fut découverte dans les environs.

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第四十九章b 《やしろ資本》論を からだごと あらわす

――告白4・16――


ここで 対立的なヤシロロジストとしての行動の分岐点に際しての判断が 問題となります。
《この世はわたしに対して わたしはこの世に対して 十字架にはりつけられている》ゆえ しかしながら 《あれかこれか》ではなく 遅疑逡巡・優柔不断のような《あれもこれも》が――しかしそのことも ほんとうは 選択肢の行動がではなく 《なんぢと われ》の存在じたいが求められているのだと言ってのように―― 判断の第一前提なのであります。
この《弱さを誇れ》と言われた。
ちなみに 江藤淳は 《引け際の悪さ》をほこると書いた。

見苦しいから引き下がるがよい 金がもうかるわけでもないし といわれてそれに順えば これは《諦め》という日本古来の美徳を守ることになる。そうさせないものが執念というものであって 不幸にして私は執念深さ 引け際の悪さ 見苦しさの価値を信じるが故に空論を弄している。
江藤淳:若い批評家の信条――窮して志をのべること――)

次のことばは 感傷的であると言う人は 勇敢にも悲惨に耐えている――なぜなら それは 《あれかこれか》のいづれかを 選択したからなのですが――そうして そのことから もたらされる自己の感傷を見てとって そう言うのでしょう。

わたしたちは 

  • 《あれもこれも》なる遅疑逡巡の判断をくだしていることによって

あらゆる面で苦しめられていますが

  • なぜなら 踏み絵を踏まない いや 踏むか踏まないかにこだわらないことによっても 一旦 ムラハチブとなるが 行き詰まりません。

途方に暮れますが 失望しません。
虐げられますが 見捨てられません。
打ち倒されますが 滅ぼされません。
パウロ:コリント後書4:8−9)

やしろ資本の推進力が一つであって その資本のヤシロロジにおける形成にあっては 矛盾・多種対立がある。けれども 一つなる愛に属(つ)くとき(これによって 譲歩の能力が与えられる) この矛盾を 上のように 自己自身の中に 止揚しているのです。これが わたしたちの求めているわたしたち自身なのです。
《されど パンなくして人は生くるものにあらず》という二段構えは ようしないのです。ここに感傷を見る人は 勇敢にも悲惨に耐えていると言いつつその悲惨 つまり世の中 つまり前史の栄光を 愛している。もと来た道にあって いづれは やしろ資本推進力なる愛を自分は愛するであろうと(いづれは 後史のアマアガリへ赴くであろうと) 自己を誇っているのです。
かれらは 強い。まだ 強い。このような人びとは キリスト・イエスが出会いたまうことはない。マルクスなるインタスサノヲイストに出会ったというのは 《われ‐かれ》対応の中で かれを したがって自分を 過大評価している。スミスの《倫理的な共同情感の理論》を《研究する》ことを愛している。そのような知解行為は ヤシロロジ行動のあとに・あるいは同時並行してやって来るのであるのに この理論成果によって スミスを・あるいは自己を 過大評価している。そのことは 自己に対しては誇れても 他の人に対しては誇れないでしょう。
踏み絵は踏んだが もはやそれは踏み絵なる前史であるとおれは知っているのだと ただそれだけを知っているに過ぎません。
ヤシロロジの対立は 人間的な諸勢力の対立抗争の中で 一つの解決を得ることになるであろうが 新しい対立のもとに 旧勢力になって行くであろうなどと言われるとき 時にこの対立抗争にまき込まれるのを嫌い――じっさいにはどこかの対立勢力に入りつつ これを意に介さず 知解行為(われ考えるゆえにわれあり)の中に自己を見出そうと欲し スミスなりマルクスなり 《われ‐かれ》対応の中にこれを発見したと言って―― 矛盾の止揚を延期(モラトリアム)させています。
ウェーバーのヤシロロジの方法が 現代の王者であることを裏付けるように 結局 精神において 共同主観をとらえたのだと言っている。したがって キリスト・イエスを長子としてインタスサノヲイストとなったパウロは この矛盾をヤシロロジストとして止揚するありさまを示して 次のように語った。

わたしたちは いつもイエスの死の苦しみ(やしろ資本連関の矛盾)を体にまとっています。それは イエスの命(資本推進力)がこの体に現われるためです。
わたしたちは生きている間 絶えずイエスのために死ぬ目に遭っているのですが それは わたしたちの死ぬはづの身にイエスの命が現われるためなのです。
こうして わたしたちの内には死が働き あなたたちの内には命が働いていることになります。
(コリント後書4:10−12)

これが 《われ‐なんぢ》対応の根源語なのです。
マルクスが この共同主観者の系譜に入るとするなら 《われ‐かれ》対応の前史(前史を前史として《知解》して足れりとするやり方)を棄てて おとなにならなければいけない。マルクスが 

わが神 わが神 なにゆえ我れを見捨てたまうたか。
(マタイ27:46)

という十字架の内なる人の秘蹟を 通過せしめられなかったとは 言えない。

お前が 神殿(くにやしろ資本)を打ち倒し 三日あれば 〔S圏やしろ資本を〕建てて見せると言うのか。
もし《神の子》なら 〔そしてインタスサノヲイストであるなら〕 自分を救ってみろ。
そして十字架から降りて来い。
(マタイによる福音27:46)

と言われたとき マルクスは 譲歩したのだが 降りて来なかったのである。《わたしたちの内には死がはたらき あなたたちの内には命がはたらいている》インタスサノヲイストの《われ‐なんぢ》対応の根源語の能力によって 降りて来ることを為さなかった。《この世はわたしにとって わたしはこの世に対して 十字架につけられている》から。
たしかに 《宗教が人間を創るのではなく 人間が宗教を創る》のであり まさかかれは マルクス教を創始したわけではあるまい。市民のくにを信じたのである。だから 語ったのである。
このような分岐点におけるインタスサノヲイストの判断を わたしたちは さまざまな形において 語ることができる。語ってゆくであろう。それが ヤシロロジである。ヤシロロジストとしても やしろ資本家であることによって わたしたちは からだごと その行動において――多種対立の中の判断において また 優柔不断は 判断停止でも判断回避でもないとき―― その身に《やしろ資本》論を著わすというわけです。われわれは 無条件に やしろ資本家であることでなくてはならない。

  • ちなみに すでに A語理論・知解行為としては その最初の段階に達した。あたらしい最初の段階に入ったのではないだろうか。神の権威によってではなく 神の分有なる後史の栄光によって これを味付けしなければならない。

神 佑けたまうならば このようなルネサンスとしての新しい共同主観過程は やがて世界史的なこととなるであろう。かならず また キリストはこの世界に来られるであろう。
放談しすぎたろうか。

(つづく→2007-03-22 - caguirofie070322)