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哲学いろいろ

#92

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Sommet de Silo

Les excavations du site mirent au jour de nombreux vestiges du Bronze Moyen, Récent, et de l'âge de Fer I.

Du temps d'avant les israélites, la ville était fortement fortifiée par des murs massifs avec du glacis. Après que les Israélites s'installèrent, le site fut sans fortifications; les résidences de l'Age de Fer furent trouvées construites à partir des fortifications anciennes.

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十一章b 意志(愛)が 道を切り拓いてのように 資本形成する

――告白4・16・31――

第二は・・・ 自然については直接に目にみえぬ部分の科学的分析が必要であることをみとめながら 社会については その構成部分がすべて人間であるために 日常の社会常識で十分だとかんがえるものである。
社会認識の断片化と実用化が ここから生じてくるし 自分の経験だけで社会全体を判断する経験主義(――ナシオナリテ天動説のもとの地動説:引用者――) それのうらがえしとして 抽象的な理論(たとえば 民主主義の理想)がそのまま身辺の現実のなかに具体化しているかのような理論信仰も 生じてくる。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年)

第二点の全部である。つづいて第三点を――やや長いが―― まとめてまづ掲げよう。

第三の誤解は 社会について科学的分析の必要をみとめながら 分析の主体としての人間の感情が 対象としての人間を分析するなかに はいりこむことによっておこる。
自然認識そのものについては 直接には 人間のあいだの利害対立は存在しない(技術化の段階ではそうはいえないが)のに 社会認識は 直接に社会の内部の人間の利害関係に影響する。そこから 分析主体にとっての真実であるかのような錯覚がおこる。
この錯覚は 社会科学のイデオロギー性とよばれるものであって 社会科学と自然科学との重要な相違がここにある。それがたんに錯覚として片づけられるものであるかどうかについては 十分に議論の余地があるし 錯覚を自覚の段階にたかめることによって かえって社会科学的客観性がえられるという主張もあるけれども いづれにせよ錯覚的要素がふくまれていることはたしかなのである。
分析主体の主観によって分析がゆがめられることは やはり科学の名にあたいしないといわなければならない。ある意味ではこれもまた 社会の分析を個人の心がまえの問題にすりかえることになる。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年)

したがって 言うところは これらすべて ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイスト形成への発言であることになる。じっさい これは 方法の滞留なのであって それを いわば裏側から論じている。表側から論じると ヤシロロジストとしての行動は 多種対立・試行錯誤のなかにあるということになる。このような単純な認識に還元することができると思う。
わたしたちは 《錯覚》があってもよいと言ったのではない。《欺かれるならば われ存在す》と言ったのである。このいわば自然本性としての主観・そのような人間の主体的な存在は 《客観》的なヤシロロジにおいても 排除し得ないし 排除してはならないとかんがえる。これは 《心がまえ》に近いが むしろ《こころ》という人間の自然本性なる場であると言ったほうがよい。そうして じつは 著者・水田洋も このように発言するかぎりで この自由価値たる主観は 確保して 言っているのである。そう見なければなるまい。また それゆえ 新しいヤシロロジは 意志の科学であることがその基調だと考えた。
表側から論じると いばって言っているようなのであり 裏側から論じると 訓戒(それを止揚するべく 著者は 単独主観において 自己の戒めとしてのように表現している)のように現われる。もしこのアポリア(打開困難)を打開しようと思えば 人は インタスサノヲイストとしての自己の方法それ自体の滞留のなかで 問わなくてはならない。それが 《われ‐なんぢ》対応におけるそれぞれの自問(またそれによる問いかけ合い)である。
これは 《日常における社会常識》をもって 井戸端会議のように なされるのであり これを恥ぢてはならないであろう。いわば この方法の滞留は通過させてのように マルクスもそうであったように ここで水田洋は この次元に行く(あるいは とどまる)ことをきらったのである。
わたしたちは ここで 《神〔から来て神であるやしろ資本推進力〕から人間の中へ到来し 人間に近づく》こととその方法を 表側からいばってのように 捉えたはづである。
いづれにせよ これらの論議が 新しく道を切り拓くやり方であるとわたしたちは 考えた。
わたしの議論の仕方について さらに次のようにも 考えている。この錯覚をも容れるかのような主観を打ち立てるやり方が 事の真相なのだと。そうしないと やしろ資本連関は 個人の対極に 倒立した資本連関過程があると言って 社会思想(つまり生活)とは別にそのヤシロロジ認識と施策があるというだけでは つねに個人の錯覚の対立連関であるか それとも この錯覚(つまり A圏しんきろうを蜃気楼閣視しないことより来るそれ)の対立過程を その裏側から その中にも人間の心・独立主観が存在するのだよと主張するべく 批判的に前向きにすすみつつ ただ浮き上がらせるという精神生活にとどまるかであろう。
それは――後者は―― 前者の世界の母斑を用いつつも 人間のしんじつ・そのあるいは純粋思想たる天使に仕えていることになり いや じっさいに言って 前史の母斑を後史に立って用いつつすすんでいるのであるから しかも単独語によって自己を後史へと向上させつつ やしろ資本推進力に仕えているのだが ――そうなのだが この過程を裏側から前向きにすすむなら―― その読者を 純粋思想たる天使に仕えさせるといった互いの共同主観過程にあると言わなければならない。
わたしたちは 何もいばって言う必要はないが 表側から言うことを遠慮する必要もないと思う。――裏側からというのは 基礎の領域でと言ったほうがよいかも知れない。
もしここで いわば新しい段階に入りつつあるとするなら わたしたちはその助走をこの章で論じたと思う。


なお念のために もしくは 以上のように一旦は言いつつ なお 付け加えなければならないことには 水田洋も たとえば

永遠に未完成であることこそ 思想と科学の生命である。
(水田洋:現代とマルクス主義 増補版 (1969年)

と言って むしろわたしたちの言う表側から論じている。わたしたちが これにも疑義があるとするならそれは ヤシロロジ(科学)の未完成であること・その試行錯誤性と インタスサノヲイスム(思想 もしくは イストとして主体)の未完成であることとは 本質において異なるということだ。なぜなら ヤシロロジ(もしくは やしろの歴史的展開)のいわば前史と後史というのは インタスサノヲイストのおのおの個人の一生涯における前史と後史との 仮象にして一括総和としての反映であろうから。 
こう断言することは 竹槍武装の個人の心がまえ主義の幣におちいったと言うべきであろうか。言いかえると このように主観において主観として主張する言論が やしろにおいて無理なく無限に展開される時代に入ったと共同主観しようと思うのだが どうであろうか。無理なくとおるとさえ思うが 無理なくとおるとしたら また 無理なくとおるとしても それは 未完成であるから とおるのである。
(つづく→2007-03-26 - caguirofie070326)