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哲学いろいろ

#94

もくじ→はてな061223

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十二章b 見えない資本推進力が これをうながす

――告白5・2――


かれ(マルクス)は 《形而上学的小理屈と神学的偏屈》とをまったく棄て去った地点からでなければ こう言うことは出来なかったであろう。かれは 無の情態(又は自然本性=処女性 あるいは アポケー)から こう語ったか もしくは このような商品関係という資本連関の現実に対して それを超えた見えざる現実〔としての資本推進力〕から ここに到来して この認識を持ったから こう語ったかであるにちがいない。
でなければ 《商品》の〔くにやしろ〕資本連関の中での生産‐流通・交換‐消費の諸行為・諸過程を分析して理論づけるのみであって 《商品の物神的性格とその秘密》(=この引用した第四節の題)などという或る意味で別種の神学的・異言的な根源語を語りはしなかったであろう。この判断の分岐点のありかをかれは 示して語ったのだと考えられる。
机について その《机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なもの》としての《形而上学的小理屈と神学的偏屈》 すなわち 《商品》についての分析をじっくり マルクスに聞いてみよう。商品は 《他のすべての商品にたいして頭で立つ》というその物語である。アマテラス語抽象普遍客観とその共同化された観念によって 立っている・つまり逆立ちしていると言っているはづである。


《商品の神学(またその偏屈)》を《狂想》と言うには そう語る人は 無神学かあるいは別種の神学かにおいて存在するというのは 論理的な帰結である。通俗的に言っても 《狂乱物価》と言う人は その狂乱から離れた地点(または 狂乱に手をつけられないような地点)からこれを言っている。これは 人間学の秘密であり 具体的なヤシロロジストとしての人間のあり方でしかない。
《われ‐なんぢ》対応のたしかに根源語でしかない。つまり 心がまえは ここ(この言葉)までである。あるいは 少しふざけて言うとすると 心がまえという概念が こころ・個人から独立したやしろ資本連関過程に対して 必ずしも敵として立ち向かうのではなく・だから竹槍武装するのではなく その自然史的な過程の基調の中でも なんらかの変革の手を加えることができるという意味であるなら それは 語源の上からも《噛み合え》としての《構え》であると見られなくはない。かんたんに言って この考え方を排除する理由はないであろう。むろん 心がまえのみというその心がまえ主義にまで至るなら それは あたまから排除すべきであろう。
《われ‐なんぢ》対応なら たしかに 関係であり資本であり愛である。(経験領域においては 愛には 正負の二方向がある)。しかるに それは 《物》または《それ》としての商品の見える関係や資本や愛(つながり)ではない。あるいは それらだけではない。商品の集積連関が――つまり やしろ資本連関の経済的価値の側面が―― 《われ‐なんぢ》対応と同じ愛であるとは言えない。
けれども わたしたちは この肉の眼で見えないほうの《われ‐なんぢ》対応の領域において その和解である関係=資本=愛を 一個の商品関係としての《もの》とは考えない。ものとは考えないどころか 人間の力であって人間の力ではないところから人間に到来する有(もの)であると考える。(経験の領域にある限りでは それ自体 一般的に もの・ことではある)。

  • すべて人間の力で 他者をコントロールできっこないのだから 人間の力ではないところが あづかっていると言わざるを得ない。

これによって 和解が成立したのなら その各自の主観は共同性を持ったとわたしたちは考える。共同性を持ったのなら その力は 一つであるだろう。その根源において 一つ であるという論理的な帰結が得られる。

  • 共同性とは 対立・多様が和解するのであるから 服従・支配の関係として右ならえして同じ一つの考え方にまとまる場合の共同観念(その意味での和)ではなく 対立的な・または少なくとも異種の主観どうしが 一つのやしろ資本形成の過程とその場に共存することである。それはむしろ 根源において一つであると抽象的に言ったほうがよい。(それゆえ かたちとして 右へならえするような和の必要はない)。このただ一つなる根源のものを 形而上学的に 有と見るか無と見るかは どうでもよいことである。
  • 無であってもよいのである。無神の一元論にもとづき 互いに共同性を持ち得る。ということは 有神論とこの無神論とは 互いに同じ一つの根源なのである。これを――目に見えない根源としては――霊的な共同主観と言っている。霊としか言えないので 霊とか神とか表現するというのみである。

けれども 机という商品が その目に見える神学的な《木頭から(つまり 思念ないし観念としての人間の頭からも) 狂想を展開することは 机が自分で踊りはじめる〔といった架空の話〕よりはるかに不可思議なものである》とき その理解に資するような

類似性を見いだすためには われわれは宗教的世界の夢幻境( Nebelregion )にのがれなければならない。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 同所=1・1・1・4)

  • ちなみに 思念ないし観念は こころの目に見えるものである。だから精神は げんみつに言って 神ではなく霊でもない。

マルクスの言うのは 商品の狂想的世界としての《宗教的な白雲境》のことであるが そして

私(マルクス)は これを物神崇拝( Fetischismus )と名づける。
(同上)

のだが これが あの判断の分岐点のありかたを 異言としてのようにそして裏側から 語っていることなのである。
預言としてそして表側から語るなら わたしたちはまづ 見えない現実(和解をもたらすなら それは 力である)を やしろ資本推進力と名づけて語る。そして この推進力(それは 霊である。無である。しかもそれは愛である。なぜなら 和解をもたらす)からの転倒を 商品的狂想と名づける。そのように いばって言うのである。なぜなら ここでは ヤシロロジ理論をつくることが 問題ではなく マルクスを解釈すること かれの歴史的な共同主観者性をともかく論証することが 課題である。
なぜなら マルクス自身も この転倒した愛たる商品的狂想からの解放とその主体を コミュニスムとコミュニストとして 表側からいばって名づけたというのが その消極的な理由であり その積極的な理由とは 次のように示すことができるし 示さなければならないからである。
転倒した愛も 愛であり この狂想から自己を解放しようとするのも 愛(意志)である。しかるに 商品たる物・その意味での資本が わが愛よと呼ばれるのは 不都合であるように(そのようにする人も 中にはいるかも知れないけれど) 人間の愛たる意志そのものが わが愛・わが望み・わが救い・わがあわれみであると言われず 同時に それでは あの仮説としてわたしたちが立てたやしろ資本推進力が それに向かって 主よ わが愛よ あなたはわがあわれみですと言うふうには やはり言われず こんなにも深い奥義を熱心に問い求める人びとによって〔理解されるように〕 やしろ資本推進力ないし《神は 霊なり》《神は 愛なり》と言われるのであるからが いまの理由である。
これは いばって 預言として 表側から 言ってよいように思われる。この最後の点は マルクスの共同主観者性の論理的な実証ではなく 全体として観想における精神に属する一認識なのであるが むしろこの後者によって マルクスのインタスサノヲイスト性は 証明しなければならないことのように思われる。
なぜなら こう言わないことによって・そう明言しないことによって たとえばマルクスや水田洋の場合では 経験的なヤシロロジという制約の存在することは承知しつつ言っても 〔かれらの場合では〕そのヤシロロジストとしての方法の滞留・判断の分岐点のあり方は――表側から言わないことによって また ただマルクス主義とそれを便宜的にしろ言うことによって―― 自己を誇っているからである。
自己が自己の力によって 共同主観者となり和解の力を得るのではないからである。これを 神秘性と言うなら この神秘性へは人は引き行かれていってもよいように思う。むろん神秘性が ただちに到達可能というのではなく その意味ではそれは目的(市民の祖国における憩い)でもないが ここに見まつる現実から人間は人間の中へ到来し 人間に近づくやり方が わたしたちの求めているわたしたち自身なのである。
おそらく 論証したとは思わないけれど 分岐点に立つ判断のあり方を語ることが出来たと思う。
なぜなら これは 個人の心がまえ以前(あるいは以上)の問題であって――かつそうして心がまえに関係してくるのであるが―― 個人の心がまえ また人間の(マルクスの・水田洋の等々の)ヤシロロジストとしての方法の滞留は 人間的な論法で言う愛・真実であるからだ。なぜなら マルクスや水田が コミュニスト共同主観者として方法(その滞留)するとき そのとき 理論し表現したかれら自身の〔共同〕主観が ピンポン球のように平面的に時と場所を移して・つまり主観や主体とその場を移して 共同化されるのではなく 《神は愛なり》というその愛の力が――むしろ絶対的に――はたらくこと これが ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイスト(つまり具体的で現実的な人間)のすがたであると言わなければならないからだ。われわれ人間は 何もしないという意味でもある。それが 絶対という意味である。
これとは異なった方法で ヤシロロジするとき その愛は 徳を建てない。(共同主観たりえない。ただし 前史の母斑の世界における和として 共同観念たりうる。)

このことを見分けない人は神から知解を問い求めよ。私から説明を問い求めてはならない。私たちはこれ以上明らかに語り得ないからである。
アウグスティヌス:三位一体論15・17・27)

だが わたしたちは さらにさらに なお 説明を問い求めていこうではないか。
(つづく→2007-03-28 - caguirofie070328)