caguirofie

哲学いろいろ

#90

もくじ→はてな061223

Tunnel vers la Source

( Meguiddo )

Ce tunnel de l'âge de fer relie le bas de l'axe d'Achab avec la source. Avant sa construction, les résidents de Meguiddo devaient sortir des murs de la ville pour puiser l'eau de la source.

Ce tunnel fut taillé des deux bouts à la fois (comme le tunnel d'Ezéchias) et ses constructeurs n'étaient décalés de seulement 30 cm lorsqu'ils se rencontrèrent au milieu.

第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十章b やしろ資本論は 意志の科学である

――告白4・16・30――


したがって人間という類はまだ変化せず ヤシロロジスト(社会人)の面で その自己了解に変化が生じたのだ そしてこの自己認識もしくは自己還帰は その源たる第一原因にあづけられていると 言わないより言ったほうがよく もしそうなら この天を誇るべきです。
わたしたちは このような《回心》は人間に過程されるとかんがえ いいかえるとその前史と後史とは 類としての人間に経験されうる現実だと言ったことになる。
《天を誇るべきだ》というこころは インタスサノヲイストの個人個人の福音伝道がではなく ヤシロロジが問題だということであり その理由は 天と地とが断絶したものではなく 地動説スサノヲ者が天動説を分有するという観想にあづかる精神(主張)にある。やしろ資本連関の経済的な行為関係・そのシステムに触れずに ここまでは言えるのではないだろうか。
ともあれ 時代は変わり これを神と呼ばず やしろ資本推進力と表現するようになったと思う。

《主よ わが愛よ / あなたはわが愛であります / 神はわが愛》といわれず 

神は霊なり。
ヨハネによる福音4:24)

といわれるように

神は愛なり。
ヨハネ第一書4:16)

といわれるのである。
(三位一体論15・17・27)

ように 経験的な現実のやしろ資本連関過程そのものを いいかえると 地動説そのものを たとえば《わが資本よ / あなたはわが生産行為です / 資本(お金・パン)はわが愛》と言わないのと同じように それをやしろの核たる《現実》とは誰も見ない ゆえに その核には 《やしろ資本推進力》なる《天》を見るという寸法です。《わが資本》と言わず 《神はやしろ資本推進力なり》と言って 表現じょう断絶したかたちで捉えることによって この推進力をわが主観が分有するのです。
ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイストは この力によって生まれ(ヨハネ1:13) この力によって生き動き存在する(使徒行伝17:28)。しかしかれらは 前史=母斑の世界(S者地動説の諸連関とその共同観念)から出て来たのです。

舌のようなものが火のように分かれて現われ 一人ひとりの上に留まった。すると一同は御霊(推進の力)が語らせるままに種々な言葉で語り出した。
使徒行伝2:3−4)

のです。
この《種々な言葉》の意味するものは この文章に沿っては 《民族(ナシオン)》=その各国語ですが そしてこの場合には 一個のナシオンが その中に 多を容れて 一個のナシオナリテというアマテラス概念なるのもとにまとまるというわけですが 同じ《種々な言葉》の一まとまりが より感性的に現実的には《やしろのクラス》つまり《社会階級》でありえ あるいは ナシオンを超えたたとえば神なら神というアマテラシテ象徴のもとには 宗教的な社会集団でありうる。
ただ これらに対して わたしたちは やしろ資本推進力が真実に一つのものであると考えるなら そのもとに現われる《種々な言葉》は 多種対立的な種々の言葉・その行動連関過程のままで〔さえあって〕よい。そしてもし これが真実であるならば そのためには インタスサノヲイスムの次元つまり人間の個体に即した領域では むしろ《社会階級》の所属性を超えて――これが 非現実でできないというのなら マルクスはついにその社会階級に束縛されていたと見なければならない―― 一人ひとりに《前史と後史》が過程されるのだ したがって この個体としての人間が その自然本性においては 《スサノヲ者性‐アマテラス者性》連関構造なる主体であると考えるならば かれらの織りなすやしろの全体的な構造は 一般に 《スサノヲ圏‐〔もっぱらの〕アマテラス圏》分離連関から成っているであろう ゆえに このくにやしろ資本の連関形態における両圏のちがいをさらに超えて S者ももっぱらのA者も その自然本性によるところの《種々な言葉》(それらの対立発展)のもとに 資本形成するのがよいであろう。――
ここまでは まだ 現情を追認したままの議論であるが なお動態的に S圏が やしろ資本の基盤となっており実際にもそうである現実のかたちがあたらしく形成されてゆくであろう そのときには もっぱらのA者において そのかれらのS者性が完全に解放されていると言ってのように 全体としては A圏をS圏へアマクダリさせるという方向が 捉えられているであろう。
このときには ナシオナリスムのスーパーアマテラシスムのでもなく 学問至上主義のスーパースサノヲイスムのでもなく つまりそのような形の天動説(A圏支配方式)ではなく もし天動説があるなら それは やしろ資本推進力という一つの天なる逆向きの天動説が認識されてのように そのもとには 《種々な言葉》のその多様性・相互対立性がそのままのかたちで つまりそのような形の各主観の地動説的行動が共同主観過程となって やしろ資本を形成してゆくはづである。
インタスサノヲイストの《前史と後史》とが ヤシロロジ次元に――やはり仮象的にながら――反映されて やしろ形態が新しいシステムへと移行するはづであり また このときにも S者個体の一人ひとりの前史と後史とは あたかもヤシロロジにおける変革とは別個としてのように 推移すると考えられる。
これは あの――わたしたちが排斥した――やしろにかんする或る展望であるのかも知れない。言えることは けれども それは やしろシステム自体にかんする展望ではなく ヤシロロジストとしての・だからむろんインタスサノヲイストとしての ただいまの主観〔共同化〕形成過程に属すると思われることである。
堺利彦の地動説は 一つに やしろシステム自体にかんする展望理論に傾きがちであり 一つに 同時にそれは 天が動かすという意味での《自己=天》動説たろうとする熱心に立っている。
このような方向で 《君たちはどう生きるか》の作品が 顕揚されると思われるのである。もしここで誇ることを為すべきであるとするならば このような主張は 後ろ向きに進んでおり 《君たちは・・・》の場合は 前向きに進もうとしているというその違いが それであると考えられる。ただし この後向きの前進は 理論であったり それ自体が――それ自体が――信仰であったりするのではなく ただ 方法の滞留として行為(信仰過程)の或る意味ですでに結果的な自己了解の内容である。言いかえると 教育は いわゆる教育そのものが 後ろ向きの前進という内容それじたいを教育することであるという結果的な認識を ただいま 予表させようとしたものなのである。
かと言って 次の――いくらか趣きを異にする・そしていくらか技術論的な見方だがの――考え方と 両立できないとは思われない。

この芸において 大方 七歳をもって初めとす。この比(ころ)の能の稽古 必ず その者 自然とし出(い)だす事に 得たる風体あるべし。
舞・働きの間(あひだ) 音曲 もしくは怒れる事などにてもあれ ふとし出ださんかかり(趣き)を うちまかせて 心のままにせさすべし。
さのみ よき・あしきとは教ふべからず。余りにいたく諌(いさ)むれば 童(わらんべ)は気を失ひて(する気がなくなって) 能ものぐさくなり立ちぬれば やがて能は止まるなり。
世阿弥風姿花伝 (岩波文庫) 〈第一 ――七歳――〉

要は 主観が 他の主観と交流して共同化することは言うに及ばず 他の主観を 見守るようにして 或る種の仕方でおおうこともありうるのであって いや そうではない やはりわれわれは 価値(主観)自由になって――つまり みづからの力による脱主観ともいうべきかたちになって―― A語客観によってのみ 互いに交流し共同化すべきだというなら むしろこのA語客観共同が 人びとの主観をおおいつくし その踏み絵を強制していると言うべきことなのである。


全体として このような判断の分岐点に立つことは 重要であると考えられた。この章は きわめて理知的に書いたつもりであるが もし理知的な認識も必要であるというなら このようなヤシロロジストとしての施策にあって そうではなく この施策のさらに結果の情態ないし この施策の出発点から結果までの 判断と認識ないし思惟の過程そのものを 理知的に明かす(アダム・スミス道徳感情論)のではないであろうと考えられた。
微妙な言い方だが また スミスを論駁したと思わないが このような点・このような出発点を言い続けることが ヤシロロジであると考えられた。
表題のごとく 《ヤシロロジストとして おのおの主観がからだごと著わすやしろ資本論は 意志の科学である》ことを――ただし この意志・判断・愛の結果の《倫理的な共同情感について理論体系化する》ことではないと捉えて―― のべたつもりである。
愛をとおしての判断じたいの行為過程またその原理ともいうべき《同感》の理論は それが《どこから由来するかを知らない》(告白16・30 この章の冒頭)か または 知っているであろうから その《光》(同上)とのつながり これをつねに意識するのではなく これに還帰していることを思うべきと言っているべきかである。
《照らされるべきもの(アマテラス語概念とそれによる理論)のほうに面をむけているのではなく 照らされたものを面で見るその面が照らされる》(告白 同上)ことが 《自由学芸》ないし諸科学・ヤシロロジ教育の 過程的目標なのである。
けれども この一章は あまりにも理知的であるので ただの道学であるから この一章の議論は捨て去ってもらってもよい。《われ‐かれ》対応の《かれ》をアダム・スミスにとる人たちに対してのべたものである。むろん わたしたちはスミスを論駁したとは思っていず アダムなる一死者の現代人の中におけるよみがえりを論議した。このような多種対立の中でのインタスサノヲイストの判断の分岐点における意志の科学を この第四部ではつづけて 明らかにしてゆくつもりである。
(つづく→2007-03-24 - caguirofie070324)