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哲学いろいろ

#99

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第五十六章 商品世界の衣替え(§49−§55の総括)

――告白5・5・8――


前章までの数章において 《くにやしろ資本主義(A圏支配‐S圏連関体制)》が 《〈商品=貨幣なる資本〉主義》世界を その内容としていることを りんかくとしてわたしたちは のぞいてきた。つまり近代‐現代市民の時代において。

  • ちなみに 大雑把に S圏やしろ資本にもとづくふつうの経済発展を 勤勉資本主義とよんだことがある。それに対して アマテラシテ象徴価値に主導され倒立したそれを ガリ勉資本主義とした。個人としても くにやしろとしても この区別でとらえた。

このような側面の分析をここでは主要な目的としていない。ヤシロロジストとしてのインタスサノヲイストが その判断の分岐点において 全体のやしろ資本の前提をおさえる上で 必要とおもわれる程度にとりあげたにすぎない。それ以上でも以下でもないので まづそのことを おことわりしておきたい。
このおことわりの上で 《商品世界》であるやしろ資本連関について整理しつつ 基本的な認識をあらためておこう。商品世界といえば それへと すでに 転化した情況を言っている。
マルクスは 《机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議》な商品世界の狂想にかんして 痛烈な皮肉を浴びせるように――つまり おとぎ話には おとぎ話をもって対抗しつつ―― こう言っている。《商品》なる物は 一般に質料によって出来ており 言うならばこの《物》におけるS者性が それの価値であり使用価値であるのだが S者たる人間にもあのA者性(精神の普遍性)が発見されたように 商品にも この価値のA者性 アマテラス語価値すなわち 交換価値なる一種のアマテラシテ象徴(そのような しるし)が 付与され 一種の客観共同ないし観念共同となっているということにかんして。――

これまでまだ 一人の化学者として 真珠またはダイアモンドの中に 〔それらをいくらいじくりまわし分析したみたところで〕 交換価値〔なるA者性実体〕を発見したものはない。しかし 特別の深い批判力をもっている・この化学的実体(S者性としての物)の経済学的発見者たちは 〔現実のやしろ資本連関を 価値自由的に《とらわれのない》眼をもって 分析したところ 次のことを発見した すなわち〕 物財の使用価値が その物的属性から独立しているのに反して(つまり 机――あるいは 真珠など――の持つ効用は 机の中じたいにあるのではない その外に・つまり逆にその使用行為の中に あるのに対して) その価値(交換価値。人格の交換をも促すA者性価値)は 物としての属性に属しているということを発見している。

  • 机やダイアモンドを見た人びとは それが 商品世界に君臨する王(アマテラシテ象徴価値)であるかのように これに対してひれ伏すというのである。物としての属性に 机の中じたいに この王者のしるしが 刻まれているのであろうという。話として。

彼らがここで立証することは 物の使用価値は人間にとって交換なしで実現され したがって 物と人間との間の直接的関係において実現されるのに 逆にそれらの価値(A者性価値。つまりこれこそが やしろとしての価値だと見なされるゆえ)は交換においてのみ すなわち 社会的過程においてのみ実現されるという特別の事態である。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・1・4末尾)

スサノヲ・キャピタリストおよびアマテラス・キャピタリストたる経済学者たちは 化学者たちとはちがって 《とらわれのない眼》でもって このような《特別の事態》を 学的理論として 発見している。かれらは 商品神殿に臨む祭司であるかのようである。
おそらく 人間が ただスサノヲ者としてだけ生きるのではなく その精神を発見しこの豊かさを持って自己を形成してきたように 言いかえると 一人の人間が《S者‐A者》連関主体として やしろ人としてのアマアガリをおこなってきたように 物財も そのはじめのS者性としての価値から A者性として単独分立した価値をもって 突如として商品となり やがて普遍的に君臨するようになり そうなった商品世界においては もはや S者性価値はどうでもよいと言ってのように ということは 物財は やしろにおいて交換価値をとおして商品となるのでないならば それは それじたいの価値が発揮されないと言ってのように この白雲につつまれた・きつねにつままれたような商品を基にした宗教の世界が やしろ資本連関のすべてだと考えられるようになったというのである。
これは 《机が自分で踊りはじめるよりはるかに不可思議なものである》 人間〔精神〕にとっては。というおとぎ話を わたしたちは 用意していなければならないというのである 方法の滞留にとっては。
おそらく S者性使用価値が 自由なやしろ資本連関の過程として・過程の中で そのインタスサノヲイストたちにとって 生産され交換され消費される・つまりその価値じしんを発揮する ためには A語価値(たとえば 労働時間という測量単位)そしてその普遍共同の象徴(しるし)であるアマテラシテ貨幣(それによる評価関係の中の価値)となったり それらをとおして 流通なら流通する必要はあったと考えられる。
けれども ここでも 目的と手段とが 転倒される。手段の世界が おとぎ話として また 国民経済学・近代経済学なる神学(幾何学的神学)として 明解に説かれ時に信じられ ほとんど唯一の人間世界とされるに及ぶ。
たとえば人間の《性》というもっともスサノヲ語に根ざす価値 いや 存在・行為が 一般商品世界に組み込まれ そのアマテラス語価値概念によって 測定され この神学にもとづいて 交換・消費される。これは 《狂想》である。学者は この狂想の仕組みを説明することに 自己の使命を見出している。したがって かれらは 商品という神に仕えていると見なければ 説明がつきがたいと言うのである。
物財(および サーヴィス)の アマテラス語客観価値による評量 および その流通の手段たるアマテラシテ価値物=貨幣が S者性価値物の交換のためのやしろにとっての手段として 用いられる そのためのやしろシステムが確立される これらのふつうの経済生活が やしろ全体において 実際に実現した社会が 到来するであろうし 到来しなければならないとマルクスは 見たのである。
ここには 誰も異論はないであろう。
けれども わたしたちは 完全なやしろ形態が来るかどうか それはわからない。しかし 完全なインタスサノヲイストは 来るであろう。また そうなりなさいと言われたことになる。(矛盾を容れたようにして 完全な者となる。だから その矛盾の時の充満が 変革・アマアガリの主体となる)。
これによって わたしたちは いわゆる社会主義社会が 将来すべき新しいやしろ形態であるとは よう言わないのであって(またそういう展望としては 語らないのであって) 同時に インタスサノヲイストであることの単なる個人の心がまえ主義からは 遠ざかる。言いかえるとその内実は 自然本性としての自己に到来することが――また 経験的なものごとを乗り越えて 理性的動物すなわち人間の言葉に到達することが―― 一つの目指す目標なのであり 神学的には やしろ資本推進力に属(つ)けというのが その命題なのであった。
いまでは この神学が あの商品世界の神学のおかげで 類型的にはただちに経験行為としても 容易に理解しうるかたちで 存在しうるようになった。とわたしたちは うわさしていたのである。

《経済学における或る種の言葉争いについての考察》(1821)の著者およびS.ベイリー(1825)は リカード(1772−1823)を非難して 彼は交換価値を 相対的にすぎないものから 何か絶対的なもの(アマテラシテ)に転化したと言っている。
逆だ。彼は これらの物 例えばダイアモンドと真珠とが交換価値として有する仮装相対性(A語価値概念は 抽象普遍的であるが・またはそうであるゆえに 相対的・手段的でもある)を この外観の背後にかくれている真の関係に すなわち 人間労働(それは S者性が基体である)の単なる表現としてのそれらの物の相対性に 約元したのである。
マルクス資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) 1・1・1・4末尾の註・三六)

というように すでに久しく この《うわさ=インタスサノヲイストの井戸端会議》は わたしたちが 待望していたものである。これが 単純な自然本性による人間の言葉なのである。外なるヤシロロジ領域におけるやしろシステムの変革(推移)とともに 自然本性たる神の似像としての自己形成においては 

完全な者になりなさい。
(コリント後書13:11)

と言われてきたのである。これは 使い分けなど出来ないというほどに 同時一体であることは もっぱらのアマテラス者(建て前)が 実際には 私的スサノヲ者(本音)でもあることが 同時一体であることに等しい。
このインタスサノヲイスムが やしろ資本連関の中に ヤシロロジ理論の生起とともに 確立されてゆくときには 《官的きゃ(A者公民)吾儕(おいら)の雇い物》(植木枝盛)と見いだされてのように 官僚・政治家等のA圏が 揚棄されるということも すでに十分にうわさされてきたことがらなのである。わたしたちは 人間のこのような力については 誇ってもよいように思う。かれらは やしろ資本推進力に属(つ)き アマアガリせしめられて こう語ったのである。
この人間の歴史的な動きを阻む者は その力・意志が《神に敵対する》(ローマ書5:10)ものであると言っても いまや その言葉が 神がかりとは認められないほど 商品世界の神がかりは 強いゆえ ただ沈黙しないでいるためには こう誇ってもよいように思われる。これが 単なる心がまえや感傷ではないことを証明するためには――むろん 現実の主観共同化が必要なのであり また―― 論理的に言えば 神に敵対していた自己が恥づかしくなって なおそのことの弁明のために 恥づかしさの中に 自分で 感傷を見出し 従前の自己の心がまえをもう一度おもい起こし 奮い起って この感傷と心がまえを かく言うわたしたちに 交換しようと申し出ることに その理由と動機があるからである。
この交換の申し出には つけ入らせるべきではない。なぜなら 恥づかしいと思ったその自己の虚偽は 内的にでないなら どこに棄て得ようか。
わたしたちは すでに信じている人びとに 語っているのである。《教会外の人は神がお裁きになります》(コリント前書5:13)。また そう言うほどに ヤシロロジ行為としては それぞれ自由に 実践してゆくことができる。
わたしたちは 意志の科学の新しい道を切り拓くための大前提については もう十分に語ることができた。残された諸章で かんたんに その踏み出しについて 雑談することができるであろう。


それにしても いったいだれが そのマニ(国民経済学者)とやらいう人に そういったことがらについても書くことを要求したのでしょうか。
そんなことに通じていなくとも 信心を学ぶことはできたはづなのに。じっさい あなたは人間にむかって 

見よ 信心こそは知恵である。
ヨブ記28:28)

といわれました。人は たとえこれらのことを完全に知っていたとしても 知恵を知らないということがありえます。しかるにこの人は こういうことを知らないくせに 厚顔しごくにも教えようとするのですから 知恵を知っているはづは絶対にありません。

  • 等々と 大胆しごくに向こう見ずに語りあって 不都合ではないと思われる。マルクスは これを科学的に証ししようとした。わたしは マルクスの行き方を嫌った。

じっさい そういう現世的なことは たとえ知っていても 吹聴するのは虚栄です。信心とはこれに反し 御前(みまえ)に告白することなのです。それゆえ彼は この点で道にはづれながら こういったことがらについてたくさん語っていますが それは こういうことがらをほんとうによく学び知っている人びとに論破されて それよりもっと奥深い他のことがらについての彼の理解の程度がどれほどのものかということが はっきりと認識されるためでした。彼は 自分が軽く評価されることを好まず それどころか あなたを信ずる人びとのなぐさめ主であり富の分配者である聖霊が 権威にみちて自分のうちにましますことを 人びとになっとくさせようとしました。
ですから 天や星について 太陽と月の運動について(やしろ資本の運動について) でたらめを言っていることが暴露されるたびごとに たとえこういうことは教理には関係ないにしても しかし 彼の企てが冒涜的であったことは 十分あきらかになるでしょう。彼は たんに自分の知らないことばかりか 虚偽のことまでも 気狂いじみた虚妄の傲慢さで語り 自分のいうことがあたかも神ご自身の口から出ることばであるかのように信じさせようと やっきになっているのですから。

  • 経済学者は このようなことを マニとはちがって 十分に知っているにかかわらず それを結果として共有していることになりはしないであろうか。

(告白5・5・8)

  • 林敏彦は A.マーシャルが《人間性の向上》ということを説いていると言う。

産業との発展と技術進歩と人間性の向上が 《有機的》に結合されてはじめて 経済は順調に成長していくことができる。これこそ マーシャルが《経済学原理 1》の最終章で提示した進歩の未来像だったのである。
(林敏彦:マーシャル《経済学原理》 (5)人間性の向上・・・日本経済新聞 《やさしい経済学――名著と現代――》 2007・04・02;  25面)

  • 一つに わたしは 《人間性の向上》ということばには 恥づかしさが先に立って よう使わない。また一つに いまの商品世界の舞台のままで前向きに《進歩》する過程として そのような向上を言うことには あいまいさが残ると思われる。

(つづく→2007-04-02 - caguirofie070402)