caguirofie

哲学いろいろ

#25

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

La descente du Saint-Esprit (vers 1160)
Le Champ-près-Froges (Isère), église paroissiale. Médaillon inférieur

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十四章b 同じくマルクスのばあい(アマテラス予備軍が解放される)

――同じく 《三位一体について》語る――

御子自身も 

これらのことを私が語ったために あなたがたの心を憂いが満たしている。されど私は真理を語るのだ。私が去り行くこと(死)は あなたがたの益になる。私が去り行かないなら あなたがたのところに守護者(聖霊。わたしたちは神によってかれを受け取ってアマアガリする)は来ないからである。
ヨハネ16:6−7)

と言われるほどに聖霊に譲歩したまうのである。
しかし 御子がこのように語られたのは 神の御言(御子)と聖霊とが等しくないためではなく いわば弟子たちのところに人の子が現臨することが かれよりも小さくない――なぜなら 御霊は御子のように僕(しもべ)の貌(かお・かたち。=肉)を受け取って ご自分を空しくされ〔ることは〕なかった(ピリピ書2:7)から――聖霊が到来されるのに差し障るように語られたのである。だから かれら(弟子たち)の眼から僕の貌(人間イエス)が取り去られなければならなかったのである。それは かれらは僕の貌を見つめて その見たものだけをキリストであると思っていたからである。
アウグスティヌス三位一体論 1・8−9・18)

《その見たものだけをキリスト(ヤシロ資本推進力)であると思っている》ことに対して そうではないよという信仰が 観念的な精神主義的な宗教になりうる。アマガケリゆく(去って行く)《つう》のイメージである。観念的な宗教への批判が この信仰による愛の王国を 経験科学的な自由の王国〔の宗教化形態〕のみと してしまわなかったとは言えない。
そこで はじめの信仰を――宗教的にではなく――経験科学的に認識する理論社会学・宗教社会学が起こった。かれらは 《夕鶴つう》を復活させた。観念的な宗教への批判がすでに成就したと見たマルクスは しもべの貌(かたち)の中に――つまりこのときむろん フォイエルバッハを継ぐかたちであるが―― 神の貌を見た。人間キリスト・イエス(つまり《愛》を――その内なる人の秘蹟と外なる人の模範とにおいて―― 見たのである。すなわち 自己のアマアガリを得て それを経験科学の分野で 表現していった。わたしたちは この方法を いま論議している。(この点は わたしの直観によって述べている)。
すなわち

キリストは 神の貌であられたが 神と等しくあることを強奪物と思わず かえっておのれをむなしくして僕の貌をとり 人間と同じ者になられた。
(ピリピ書2:6−7)

〔ちなみに 聖霊は 肉となって自己をむなしくすることはなかった。父なる神は 創られずして創る本性でいましたまい 御子キリストと そしてご自身とこの御子との言詮を絶した交わりである(つまり 両者から発出される)聖霊とを――キリストとともに―― この地上に派遣したまう。肉におけるキリスト・イエスの・その内なる人の秘蹟と外なる人の模範とを見たマルクスは その信仰(共同主観)が愛(聖霊)をとおしてはたらくという生の過程にあり つまり そのように行動し表現していった。
このとき  理論体系化は必要ではなく その自由人の連合のくにという理論を表現し 愛の王国の現実を証言したにすぎない。この愛の王国の実現が 保留されているのである。しかし すでにアマアガリ〔の約束〕を受け取ってでないなら 《保留》という概念=現実は 起こりえない。〕
このことの そして人間と同じ者ゆえの十字架上の死の(罪の病いは何ひとつなかったところの)第一原因は 何かということにわれわれが思惟を運ぶとき われわれは マルクスやあるいはスサノヲのように もっぱらのアマテラス者・そのA圏の共同観念とこの観念の賃労働者である人びとに 《或るあわれみの職務を引き受けて》のように 譲歩する。《あなた(第一原因)はかれ(人間となった第一原因)を天使たちよりも わづかの間 低い者とされた》(詩編8:5;ヘブル書2:7)そのキリスト・イエスに あやからせられ得てのように。
神学の秘密=人間学の根拠を――すなわち 内なる人の秘蹟(死‐復活)と外なる人の模範(良き羊飼い)たる人間キリスト・イエスを―― 見さしめられたから。
弟子ペテロは 復活したイエスから 《わたしの羊を飼いなさい。》(ヨハネ21:17)と言われた。ペテロとは 《岩》のことであり この岩が やしろのこの上なく安全な望楼 また そのインタスサノヲイストたちの資本連関(愛)であると考えられた(三位一体論2・17・28)。《私はこの岩の上にわが教会(エクレシア・やしろ〔家・都市・世界〕)を打ち建てよう》(マタイ16:18) また 《私の威厳が通過するやいなや あなたは岩の上に立つであろう》(出エジプト記33:22;三位一体論2・17・30)。

出エジプト記》ではつづいて次のように語る。

私が通り過ぎるまでは 私の手であなたを蔽うであろう。私の手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
(33:22)

モーセはそのとき 主の復活後 かれらの眼から主の御手が除けられて 主の背面をすでに見ているように 主を信じる多くのイスラエル人の代表( figura )であった。
(三位一体論2・17・31)

マルクスは 新しいイスラエル人の代表としてのように しかしもはや神学にはこだわらずに 経験科学の分野で 学問あるいは文学・芸術の新しい方法を実際に示すべく 表現していったと考えられる。ただ わたしたちは かれを パウロアウグスティヌスの系譜において見るという視野をとらずには かれを理解できないと思うのである。逆に言いかえると かれを理解するとき パウロアウグスティヌスその人が 同じく望まれると考える。けれども 経験科学はむろん必要であろうが その理論体系化 これは なくても不都合だとは考えられない。
自由の王国の理論体系化を 共同主観者の最大にして必要不可欠のものと考えて実践するいわゆるマルクシストたち かれらが マルクスをむしろ もっぱらのアマテラス者であったと見なし まつりあげているかにも見える。マルクスが 去り行かなければ あたかもマルクシスムなる聖霊はやって来なかったのであると言ってのように。そうではなく 現実のあるいは現行のアマテラス社会科学主体を まわりまわって 支持するアマテラス予備軍は 《マルクスとたとえばアウグスティヌス》というふうに あたかも二元論を採る。つまり あるいは言いかえると 《マルクスキリスト教と》という一つのセットをまず一元として またこれを《昼》の世界として もう一元には《夜》なる必然の王国を 暗に 立てて これらから成る世界が 世界だとうそぶいている。
この世に 昼と夜とがあるのは 現実だが マルクスも アウグスティヌスも この昼と夜とから成るとも言いうるこの世を 木の船(それは 一元ないし 唯一の真実の神)に乗ってわたろうとしたに過ぎない。二元も三元もなく やしろ資本連関はなるほど構造的だが この点では・つまり方法の点では 《単純な真実としての》弱さ・愚かさがあるのみだ。
これに反して アマテラス予備軍は そのような二元論を立てる学問ないしそれによってものごとを見る自己(そしてかれらは アマガケリしているから 或る種の仕方で捉えるなら 天使)に仕えているのである。キリストは あるいはかれに仕えているわれわれは かれにあやかることが出来てのように 《わづかの間 天使たちよりも低くされた》のである。なぜなら 《私が通り過ぎるまでは――すなわち 〈わたしたち〉が第一の死に死なしめられ アマアガリへみちびかれるまでは―― 私の手であなたを蔽うであろう》。
この《蔽い》は 一面では たしかに――殊にあの戦争時を考え合わせるなら――わたしたちは この世に寄留し この世の共同観念(身体・地域共同性)に従っているから このアマテラス語客観の観念共同性(ナシオナリスム)のことであるとも考えられる。また そのように考えて一向に差し支えないが 基本的には スサノヲの側からうたって認識した《八重垣に立つ八雲》であると言ってよい。
《かれが通過するやいなや すなわちわたしたちが 同じく〈わが神 わが神 なにゆえわれを捨てたまうたのか〉と言ってのように死なしめられるとき その時すなわち 内なる人の秘蹟が 時の充満を得てのように――そのとき 共同観念のしんきろう蔽いは追い払われてのように―― アマアガリを与えられ やしろの資本連関の動態を見守る つまりそれに積極的に参加している すなわち 岩の上に直ちに真実にわたしたちは堅固(サンクトゥス)にされる》のである。
わたしたちは いま この過程的な動態を歩んでいるというのが われわれの《現実》だと考える。方法が 現実なのである。それは 実現の保留であると同時に 実現なのであると考えなければいけない。必要ならば 必要に応じて そのための・またそれに立った理論と運動とが与えられてくるであろう。
保留の動態じたいが すでに信仰(共同主観過程)なのであるから この保留を さらに 信仰する・宗教するということがあってはならない。ウェーバーが これをしたのである。神が すなわち わたしたちが これを善用したまい その歴史過程にあづかるのである。
だから もちろん 《私はこの岩の上にわが教会を打ち建てよう》(マタイ16:18)というのは わたしたちが これを欲し またその実践に走らなければならないのであることは 言うまでもない。だから 《〈欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたまう神による〉(ローマ書9:16)のは わたしたちが欲するものを獲得し 欲する所に到達するためである》(アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ 第二問パウロの恩恵論)ことは あの《賢い人》にすでに告示されていたのでないなら このローマ書のパウロの言葉が キリスト者を自称するアマテラス予備軍の人びとに盾に取られて かれらをつけ入らせていたであろう。
したがって かれらの方法は 《マルクスウェーバー》と言ってのように そのアマテラス語理論においては倒錯しておらずその現実においては倒錯している二元論の たとえば《あわれみたまう神による》という文字で人びとを蔽う《むら雲》である。《神がその手で蔽うスサノヲ者の八雲》ではなく 《人間がその手で蔽う究極的にアマテラス圏のしんきろう(そのメロディと言ったほうがよい。しばしば甘い旋律である)》である。しかし マルクシストは マルクスと同じ地点に立つなら この方法の形成を 理論作業のあとまわしにしてはならない。
(つづく→2007-01-18 - caguirofie070118)