caguirofie

哲学いろいろ

#31

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

われわれはなぜかしこくあらなければならないか(その一)

私たちが 不可変的・不可視的な至高の生命を持ち

  • 肉なる・地(つち)なる死すべき・滅ぶべき存在にして 不可変的・不可視的な至高の生命を持ち

かつご自身で充足している本性について語られることを 可視的なもの・可変的なもの・死ぬべきもの・あるいは乏しきものの慣習に基づいて推し測るべきではないことを知っているか あるいは少なくとも堅く信じているなら

  • そしてなおかつ このように可視的なもの・死ぬべきもの・あるいは乏しきものの慣習をとおして推し測るべきことを知っているなら

われわれは一層 容易に許し合えるであろう。

  • だから けんかし合えるであろう。

しかし 私たちは私たちの感覚に接近しているもの あるいは私たち自身が内なる人において存在するものにおいても 知識的に捉えようと努めるとき 挫折するのである。

  • かざし折りかねるのである。経験的なものからわれわれの耳に届くあの歌のメロディを見つめるべきでないから。

それにも拘らず 神的な 言詮を絶したものにおいて信実な敬虔は慎ましやかに燃え立つ。

  • それにもかかわらず テレビに流れるホームドラマや 江戸時代の封建市民的な対関係の錯綜ではありながらその時代劇やの もっともわたくしなる・非神的な 言詮によっては蔑まれるという情感の単純なる共同性の中から 現実的な・現実的にして素朴な人びとの相聞(それが 単なる感傷相関的なものであれ)に接する時 虚構を伴なうという言語二重性を持つスサノヲイストの慎ましやかさは 信実に燃え立つのを知っている。

これは 自分に固有の力の不遜が膨れ上がらせるのではなく 創造主・救い主ご自身の恩恵が燃やすのである。

  • われわれの内なる至高のスメロキ・アマのカグヤマ(カグは ちらちらと燃える火である。cf.カギ‐ロ‐火)・そして アマ(海人・天)テラシテが 燃えるのである。

それによって神を把握しようと欲する当の知解力そのものをまだ把握していない人間は一体どの知解力によって神を把握しようか。

  • ホームドラマや時代劇のスサノヲ者のその内なるアマテラシテが 真正の相聞によって燃え立つのは いまだ知解せずしてすでに知解しているインタスサノヲイスムなる神の愛または隣人の愛 これを把握して(思惟して)いるがゆえである。知らなくても 思惟している。


しかし 彼がひとたびこの知解力を把握するなら 自分の本性においてはこれに優るなにものもないことに慎重に留意し さらに形の輪郭 色彩の輝き 空間の大きさ 部分の隔たり 量の延長 場所の間隔による或る運動 その他この類いのものをそこに見るかどうか考察しなければならない。

  • ブラウン管の中だけのインタスサノヲイスムは 実践主観ではない。

この類いの何ものも 私たちの本性においてそれに優るものを見出さないものにおいて つまり私たちの知解力においては――私たちはこの知解力によって把握するかぎり知恵を把握する――見出さないのである。
形の輪郭等 偶有的なもの・経験的なものによる或る運動の類い これらは われわれの知解力ないしわれわれの自己じしんとは 別個のものである。何故なら これらの類いは 人間の言葉によって捉えられるもの・ないし人間の有であるからである。
したがって 私たちの一層優れたもの(――つまり 精神 ないし 自己じしん――)においてすら見出されないようなもの(――つまり経験的なものの歌のメロディ――)を それよりはるかに優れている神(――もしくは それらの運動のみなもと――)において問い求めてはならない。かくて もし出来るなら あたう限り 神(――ヤシロはその似すがたである そして 人間も同じである――を性質のない善として

  • なぜなら インタスサノヲイスムの燃え立つ相聞の感動は 善である

量のない偉大さとして

  • なぜなら 相聞行為は 他の動物に見られない人間の偉大さである

欠くところなき創造主として

  • なぜなら 人間は 物理・化学・生命の法則を 発見するが またもろもろのモノを化合・加工するが それらの質料の状態と運動の法則を捉えもれによって人間ははかりごとをなすが これを最後に統治するものではない

外的な状態なくして万物を包括するものとして 場所的な規定なくして遍在し 時間なくして常住し ご自分にはいかなる変化もなく しかも可変的なものを創造されるものとして また情念なきものとして知解するのである

  • あとの五つの規定は アジア的な社会体系にあっては これをヤシロの奥なる存在と言うことはあっても 父なる神である存在とはたとい言わなくとも

あたう限り 神でないものを神について考えるのを避ける。

  • S圏ヤシロの相聞に生きる人びとは これをつねに すでに 避けている。この識別は すでにかれらのものである。ただかれらは 殊にアジア的な社会体系にあっては そこへ アマテラス語・その長歌共同相聞がやってくると これを避けながら 建て前として 全面的に付き従うのである。

アウグスティヌス三位一体論 5:1)

問題は ヤシロ‐スーパーヤシロ連関が S−A連関として A圏主導のもとに――それは 仮象である―― あたう限りの長歌共同の蔽いがかぶされているこのことにある。
この蔽いは 知解しても知らないと強弁するほど そしてこの強弁が長歌共同観念の水路を形成して A−S連関制の中に 丸く――丸く である――おさまるというこのことにある。丸くおさまると言うのであって 三輪の檜原の三和と弥和の中にはないであろう。それは はじめのカシハラ・デモクラシの形相体系(イデオロギー)の中にすらないであろう。
かくして インタスサノヲイスム相聞は アマテラス語による共同相聞の世界にかき消され長々と身を横たえるのである。われわれの問題――しかし これは 人びとの心の底には深く生きて横たわっている――は ここにある。
われわれは なぜ利口にならなければならないか。利口になってはいけない法はない。いにしへの人も 挿頭を折りかね 手折らずに うらぶれ立ちし歴史がある。この《うらぶれ》るのを 表において抵触することへと代える必要はない。それは つねに《裏触れ立つ》ものであるかも知れない。しかも 表の長歌においては これに抵触することなく これを貴び遵い利用しそして主導することができる。自己じしんから外の別の領域において 事は運ばれるからである。これをタブーとするのも 共同長歌幻想のなせるわざである。
そこには たしかに社会的な禁忌であるがゆえに 《有険》ないし《険が有る》ものであるかも知れない。しかし いまとなっては 逆に この危険が 禁忌と同じくむしろ A圏を含めた社会形態の全体のもの・もしくは 世界共同のものであって むしろA圏(世界的なA圏連合)が この危険の中にみづから踊り出すかのようにして この長歌共同の歴史伝統的な幻想禁忌を破られることを願っている。とわれわれは 見た。言い出しっぺが言うのだから まちがいはない。
われわれは A−S連関に対して ヤシロ‐スーパーヤシロ連関を用意するごとく また そこにおいてのみ この同じく歴史伝統的な相聞実態の底流に棹差すようにして 利口にならねばならない。これが 実践主観の実のある実践である。


この大前提において ここでは 人麻呂のいまだ取り上げていなかった他の歌を取り上げよう。
(つづく→2006-09-13 - caguirofie060913)