caguirofie

哲学いろいろ

#24

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

性・対関係・相聞 1 ――インタスサノヲイスムについて――(その四)

インタスサノヲイスムの第二命題に帰ることができる。また そうする必要がある。
自然史過程を自然史過程として うたの構造をうたの構造として その中に 非アマテラシテ(煩悩)の動きは 非アマテラシテの動くにまかせつつこれを迎え 迎えつつそこにやはりまかせる このようなインタスサノヲイスムじたいを展開しうべき内面的な展開を 見守っていかなければならない。
何もしないようだが これは ヤシロのつねなる存在の一つの勝利の道である。そして 相聞とは つねにこの謂いである。
アマテラスの勝利とスサノヲの敗北 または その反対といったように 相聞の分離して幻想的に連関するような統合のことではなく やしろの全体またはその内部動態的な相聞関係の過程――だから ここでは A圏もしくはスーパーヤシロもしくはアマテラス学問行為は 仮象なる共同貨幣として 二の次である――でなくては 共同主観の視座と方法が いまだ確かに定まらないであろうと考えられる。
おそらく われわれの内なる革命が 事の要請であるだろう。しかしながら この革命は 《栄光から栄光へ カミの霊(それは 風である)によってのように われわれが変えられる》ものである。すでに信じる人びとに ある種のヤシロの情況の変化から そこに鏡をとおして カミの栄光(現実としてのはじめの人)を映すように見つつ やってくる予感において 方向の転換が与えられるものなのである。われわれは このヤシロの動きに忠実でなければならない。それが われわれの自己のアマテラシテの獲得(真正のアマアガリ)であるからであり うたの構造がわれわれのもとによみがえるのを見るからである。そう言ってよいであろう。
しかも アウグスティヌスに倣えば これを あたかもわれわれが還りゆくべき市民の祖国であると見るべきではない。見るべきではなく ヤシロが つまりカミの似像が われわれの長歌の顔蔽いを取り除かれるようにして われわれの有となるのだと言うからである。人間の有である人間の言葉に到達しなければならない。カミの有の・カミの言葉のアマテラス学問行為からの自由 これが ここには 現実となってつねに存在するであろうからである。これが インタスサノヲイスムである。相聞の問題である。これは 第二命題の発展としての第三命題である。
さて 第四命題は この方法の方法 もしくはその方程式の実践的な方式に移るべきである。
インタスサノヲイスムの第四命題は 現実の現実である。第四命題は すでに信じる人びと カミの義もしくはヤシロの原理とすでに和解しいま和解し未来に和解するであろう人びと これに対する・そしてこれらの人びとの中からの インタスサノヲイスムの歌の表出によることになる。
まずアウグスティヌスを引用する。長く引用するが また そこには 《律法によらなければ / シントイスムの明示的な表現によらなければ わたしは 罪 / もしくは愛を 知らなかったであろう》といったように 社会体系の相違による 表現のわれわれにとっては外来性がある。しかし これをわれわれは インタスサノヲイスムの普遍性において 視座のすでに定立したところにおいて 方法の弱きにおいて またはその柔軟性において これを読むべきである。そしてこれを 現代市民の万葉主体であることをもって 超えてゆくべきである。それでは――

人類はカミの義によって 悪魔の権能の中へ引き渡されたのである。最初の人(アダム)の罪が 両性の結合によって生まれるすべての人の中へ原初的に( ogriginaliter )移り行き そして最初の親の負い目が子孫全体を拘束する。この悪魔(死の制作者)への引渡しは先ず《旧約聖書 創世記 (岩波文庫)Genesis =起源)》において意味表示されている。

  • ただし 古事記の神代では 一般に これらについて肯定的である。

そこにおいては カミは蛇に 《お前は地(つち)を食べるであろう》と言われた後で 人間に 

お前は地である。そして地の中へ行くであろう。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫)3:14・19)

と言われた。

この《お前は地の中へ行くであろう》と言われたことは 身体の死を予告するものである。なぜなら もし人間が正しく造られたままにあり続けたなら 身体の死そのものも経験しなかったであろうから。

  • ここでは たとえば梅原猛の言うように 《不死の信仰》を見るべきではない。それは初源的な生の信仰と言うべきであり 古事記ではまた すでにヨミのクニに逝ったイザナミが イザナキに

かくせば(もし離縁なさるなら) 汝が国の人草 一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。

  • と言ったのに対して イザナキは

汝れ しかせば 吾れ 一日に千五百(ちいほ)の産屋(うぶや)を立てむ。

  • とこたえたと言うヤシロ次元での生の信仰につながらないわけではないから。

ところが 生きている人に 《お前は地(ネノカタス国 / ヨミの国)である》という言葉は 人間全体がより悪いものに変えられたことを示す。

  • これは イザナミが イザナキによって かのじょが(あるいは かれも)自身の中に ヨミの国があることを知らされたとき 《あに恥見せつ(私に恥をかかせましたね)》と述べた時点に対応する。いいかえれば 《イザナキ‐イザナミ》の対関係も そのものの中に 罪・恥・闇などの非アマテラシテがあって これをたずさえて 時間(生)の中にあることになった。時間が始まった。歴史そしてヤシロが始まった。ことを物語る。

《お前は地である》という言葉は 

私の霊は これらの人間のうちに留まらないであろう。かれらは肉であるから。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 6:3)

  • ただし のちにカミ(ヒトコトヌシ)は その子(オホタタネコ)を 肉において造られた。

という言葉と同じ意味である。だから あのとき カミは人間を 《お前は 地を食べるであろう》と語られたものに引き渡されたのである。

  • 時間だから人間だから人生だから有限なるヤシロまたは巡礼の旅が この悪魔(死の制作者)のもとへ引き渡されて 始まったというのである。

使徒パウロのこと)はこのことを一層 明らかに次のように述べる。

あなたたちは先には自分の罪過と罪によって死んでいた者であって かつてはそれらの中で この世の霊(=時間)に従って 空中の権能の君主(=悪魔) すなわち不従順の子らの中に今も働くこの霊の君主に従って 歩いていたのである。
また私たちもみな かつてはかれらの中にいて 肉と情念の意思(=非アマテラシテ)を行ないつつ 肉の欲望において日を過ごしていたのである。
そして私たちは他の人びとのように本性的に怒り(または 怨霊)の子らであった。
パウロ:エペソ人への手紙》2:1−3)

不従順の子らとは 不信実な者である。

  • ヤシロの鏡(=現実的・概念的・形相的)をすりぬけて八尺(やた)鏡(=仮象的・具体物・その意味で象徴的)をもって そこにおのれを映しつつ(つまり それは 呪物とその信仰としてである) あたかもいま一つ別の闇・スーパーヤシロを形成して 時間的な生を送る専従アマテラス種族が 怨霊の子らであり不従順の子らである。
  • 神代紀のアマノイハヤド(石屋戸)の条に見られるごとく 自然・現実の日蝕を ヤシロの鏡をとおして見ることを回避し あたかもこの現象を スーパーヤシロの圏においてそっくりそのまま仮象的に演じるアマテラス者の岩隠れは 鏡に映ったままのひかりを見ているゆえに そのかれらの雲隠れは 非アマテラシテへのかれらの愛着という時間中断・その猶予つまり甘えなのである。
  • 非アマテラシテへの愛着というのは けっきょくは スサノヲに対する懐かしさであろう。けれども 甘えたくても 甘えられない。すでに アマアガリをしてしまったと公言しているからである。
  • またこのアマテラス者の甘えのあるとき もしそのとき神代紀の記すように タカマノハラにおまつりごとが催されて 雲隠れしたあとそこから引き出されえなかった場合には S−A連関社会形態そのものも こぞって空中の権能の君主のもとに馳せ参じなければならないという連関形態の全体主義もしくはファシスム(それは 空気のような身体を持った悪鬼・不従順の子らが 呪術的なマガタマとアマノムラクモの剣を持って台頭する特殊なA−S連関制というデモクラシ〔ナシオナル・ソシアリスム〕である)が 出現したとする論述は すでに述べたことがある。信実な者になる前には 誰もがそうであったかも知れない。

このゆえに すべての人間は原初から 《不従順の子らの中に働いている》空中の権能の君主の下にある。原初から と私が言ったのは 自らも他の人びとも同じように 《本性的に》そうであったという使徒の言葉と同じ意味である。つまり 本性的に とは罪によって堕落した(《恥を見た》)限り といことであって 初めから正しく造られた限り(――もしくは 《恥を見た》あとに カミによって 人間の歌の構造を 内なる第二のはじめの人において ヤシロの鏡をとおして 見まつることができた限り――) ということではない。
しかし悪魔の権能の中に人間が引き渡されたその仕方は あたかもカミがこれをなさった あるいは そうなるように命じられたかのように理解すべきではなく カミがただそれを許された しかも正当にも許された と理解しなければならない。

  • という神学と信仰とは われわれは 上に註解した事柄にのっとって 超えなければならない。言いかえれば このカトリシスムの理解は その中から プロテスタンティスム(つまり その意味での 反逆児スサノヲら)の新しい理解を生み出したごとく すでに共同主観なのであるから。しかも

なぜなら カミが罪人(はじめのアダムとエヴァ もしくは イザナキとイザナミ)を見棄てられることによって 罪の制作者(=悪魔)がそこに侵入したからである。しかもカミは 創造し 活かしたまうカミとして また悪しき者には罪の罰である悪しきものと共に多くの善きものをも与えたまうカミとして ご自分の被造物にご自身を示さないまでに被造物を見棄てられたのではない。
(中略)
悪魔はカミの権力によらず その義によって克服されなければならなかった。だが 全能者に優って力あるものとは何であろうか。あるいは いかなる被造物の権能が 創造主の権能に較べられ得ようか。ところが 悪魔は自分の邪曲(よこしま)な悪徳によって 権力を愛するもの そして義の背棄者 また敵対者となった。かくて人間は義を無視し あまつさえ憎んで 権力を求め それを獲得することによって悦び あるいは情欲によって燃え上げられるにしたがって いよいよ悪魔を模倣するようになるのだ。
それゆえ 人間を悪魔の権能から引き抜くために カミは悪魔を権力によってではなく 義によって克服することを嘉しとされたのである。

  • 人麻呂その人の・またはかれの息のかかったA者の スーパーヤシロの最高位へのアマアガリによってではなく ヤシロのオホタタネコのうたの構造によって克服することを嘉しとされた。

かくして キリストに倣う人間は権力によってではなく義によって悪魔を克服しようと求めるべきである。権力は或る悪しきもののように回避されるべきであるのではなく 義を優先せしめる秩序が守られなければならない。・・・(中略)・・・だから カミの民の力がまだあらわれないこの時に 《カミは御民を拒絶なさらず またその嗣業を見棄てたまわない》のである。
今 敬虔な人びと〔であることを願うわれわれ〕の弱さが持つ《義が 審きに変わるまで》 言い換えると義が審きの権能を受け取るまで 謙虚にして弱き義(――これは アマテラス者がまねぶものである――)はいかに大きな苦悩と不正を耐え忍ぶであろうか。
審きの権能を受け取ることは力が その秩序によって先行せる義に随伴する時の終末まで(――《かのじょの踊りが踊り終わるまで》――) 義なる人びとに留保されているのである。たしかに 義(むろん うたの構造である)に結び付けられた力 あるいは力に達する義が審きの権能をつくる。さて義は・・・。
(13:12−13)

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

これが われわれの方法の方法である。もしくは 方程式の実践方式になるインタスサノヲイスムと言うのであって このような相聞が 万葉集として 湧き上がってくるのでなければならない。だから ここで ひとまずの結論は キリストに倣うはじめの人・人麻呂のうたが うたの構造として かえり見られなければならない。神学もしくはカミの言葉を超えて ヤシロ(市民資本)なる人間の言葉に到達せねばならない。だから 文学をあたかも離れて すでに受け取った風を受け取ることでなければならない。
(この章のおわり。つづく→2006-09-07 - caguirofie060907)