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哲学いろいろ

#23

もくじ→2006-08-13 - caguirofie060813

性・対関係・相聞 1 ――インタスサノヲイスムについて――(その三)

ここで 相聞歌の問題を取り上げるべきである。
次の点が その原理として考えられる。すなわち インタスサノヲイスムの第二命題である。非アマテラシテ(闇・業)はこれをすべてその自然史の過程――生成・進展・衰退――にまかせるべきだということ。ここから 相聞歌は――つまり あくまで 主観の表現はと言ってもよい―― 発すると言うべきである。この命題の註解は 次の知解行為を そしてその歌の例は その次に引用する歌々を参照することができる。

私たちの言葉が(――つまりそれは まだ内なる言葉・思惟(おも)い これが――) 声となり(――つまり うたとなり――) カミの御言(みこと)が肉に造られたのは 自らを感覚的なものへ用い尽くすことによってではなく それを受け取ることによってである。
(vol.15, ch.11)

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

この一節は すでに引いたことがある。けれども これが 相聞(ないし和歌)の原理である。そしてわれわれは このうたの例を 人麻呂(また人麻呂歌集)の中から 任意に引くことができる。これまでにまだ取り上げていない歌から拾うことにしよう。

  • 上のアウグスティヌスの文章の註解を書くことは むずかしい。または 解説をしたくない気持ちがある。たとえば もっぱらのアマテラスは 自分がお勉強した事柄を気の済むまで 人におしえたいという気持ちに満ちている。自らを感覚的なものへ用い尽くそうとしている場合がある。
2415 処女等乎 袖振山 水垣乃 久時由 念来吾等者
少女らを袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけりわれは
2416 千早振 神持在 命 誰為 長欲為
ちはやぶる 神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲(ほ)りせむ
2417 石上 振神杉 恋我 更為鴨
石上 布留の神杉 神さびし恋をもわれは更にするかも
2418 何 名負神 幣矕奉者 吾念妹 夢谷見
如何ならむ名を負ふ神に手向けせば わが思ふ妹を夢にだに見む
2419 天地 言名絶 有 汝吾 相事止
天地といふ名の絶えて有らばこそ 汝(いまし)とわれと逢ふことやまめ
2420 月見 国同 山隔 愛妹 隔有鴨
月見れば国は同じそ山隔(へな)り 愛(うつく)し妹は隔ちたるかも
2421 *1路者 石蹈山 無鴨 吾待公 馬爪尽
来る道は石踏む山の無くもがも わが待つ君が馬躓くに

これは巻十一からである。その巻としてはすでに取り上げた。全巻が 古今相聞往来歌から成り ここに取り上げたのは 《物に寄せて思いを陳(の)ぶ》る歌で 人麻呂歌集から採られた一連の歌の最初数首である。寄物陳思歌で人麻呂歌集は 九十四首 巻十一全体で 百六十二首 また 古今相聞往来歌の類の下とされた巻十二では 人麻呂歌集所出歌は 二十八首 このどれを取ってもよいと思われるが また 各巻のその他の歌のどれを取ってもよいと思われる。
そこで これらの例示した歌はそれぞれ 《感覚的なものを受け取ることによって》うたわれている歌であり スサノヲイストの言葉であると言うべきである。言いかえれば 非アマテラシテ(それは 業として 感覚的・情感的である)を受け取りこれをその自然史過程にまかせ まかせるがごとくして アマテラス能力のもとに主導するかたちの中にある。スサノヲは このとき――感覚的なものを用い尽くすのではなく それを受け取ることによって 声として表出するとき―― アマアガリをおこなっており その部分でアマテラス主体である。
自らの内なる思いを物に寄せて陳べ たける思いを吐露しているかのごとくして しかしそれは 相聞として 相手または自己の感覚的な思いをすでに受け取っていることによって うたう。歌い手は 今日われわれにそう見えるようには この情感なるものを 自らをそこへ用い尽くすこととして うたっているのではない。そしてこのことは 重大である。
これらの歌では 主観がうたとなり しかもその主観は 《 Susanna = Amateur-asse( Joakim )》連関を見るがごとく 共同主観である。だから 相聞なのである。
そこには Amor がある。Amor を形成するアマテラスとスサノヲがいる。スサノヲは Susanna であり アマテラスは Amor-terrasse または Amateur-asse である。《イザナキ‐イザナミ》連関である。
これは エロスではない。エロスのアマテラス語を介した(それによってひとつの普遍となった)うたではない。しかも エロスの過程をとおしたヤシロにおけるひとつの姿がある。スサノヲイストの言語二重性としてうたわれている。非アマテラシテとしてのエロスと アマテラシテとしてのヤシロ(そのまつりのような)が うたわれている。
この引用歌群での最後のうたは かたちとしては 女性が作者である。だから 一つひとつの歌としても そうだが この歌群としても 相聞歌たりえている。これは 真理である。ヤシロの真理なのである。ヤシロロジが 対関係において象徴的に現われ 表わされるとは この謂いである。
《律法によらなければ わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち もし律法が〈むさぼるな〉と言わなかったら わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。》(ローマ人への手紙〈1〉 (コンパクト聖書注解)7:7)とパウロが言うが これを アジア的な社会体系の言葉にわかり易く解釈して述べるなら 《シントイスム(それは カミのみちである)の明示的な表現 そのようなインタスサノヲイスム(すなわち 相聞歌)によらなければ わたしは罪もしくは愛または非アマテラシテを知らなかったであろう。すなわちもし 記紀歌謡または精確には万葉集が 相聞歌をうたわなかったなら わたしは 相聞または性を知らなかったであろう》と表現できるが しかし この人麻呂歌集・寄物陳思歌は 《律法または それは法律であるなら禁止であるから シントウ(神道)もしくは相聞のかむながらの道の勧め》そのものではない。アマテラス語による恋愛入門書ではない。
これらの歌は アマテラス語の共同(特に 幻想の)相聞歌へのみちを 拒絶している。ふたりの相聞でしかない。しかも そうであるがゆえに ひとつの普遍・カトリシスムである。原形的な観念の資本である。この原形的なうたの構造が 他方でアマテラス語による再生産・増殖への道を断ち そこから自由であると言うことは不当であろう。しかし同時に そのアマテラス語による再生産はそれが成されたなら その結果は 元のキャピタルの仮象であって――必ずしも 剰余の価値でも 厳密にいえば ないであろう―― スーパーヤシロにおいてのみ そのようなA圏の住人のあいだにおいてのみ 成立すると観念されるだけのしろものである。
また これらの歌のいわゆる文学的鑑賞といったアマテラス学問行為も そこで 語句・風土・歴史情況等の探求・説明はそうでないとしても アマテラス者の手慰みにしか過ぎないのである。そしてこの問題は 根源的である。
つづいて 人麻呂歌集は次のように うたう。

2422 石根蹈 重成山 雖不有 不相日数 恋渡鴨
石根踏み隔れる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも
・・・日が多いので・・・
2423 路後 深津嶋山 暫 君目不見 苦有
路のしり深津島山暫しくも君が目見ねば苦しかりけり
2424 紐鏡 能登香山 誰故 君来座在 紐不開寝
紐鏡 能登香の山も誰ゆゑか君来ませるに紐解かず寝む
紐を解くなの能登香の山も君のおいでに紐を解く。まして私は紐を解く。(大系)
2425 山科 強田山 馬雖在 歩吾来 汝念不得
山科の木幡の山を馬はあれど歩(かち)ゆわが来し 汝(な)を思ひかね
馬があればいいのでしょうけれど歩いてやってきました。あなたを思って耐え難くて。
2426 遠山 霞被 益遐 妹目不見 吾恋
遠山に霞たなびく いや遠に妹が目見ずてわれ恋ひにけり
2427 宇治川の瀬瀬のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも
2428 ちはや人宇治の渡の瀬を早み逢はずこそあれ後はわが妻
2429 愛(は)しきやし逢はぬ子ゆゑに徒に宇治川の瀬に裳裾濡らしつ
2430 宇治川の水泡(みなわ)逆巻き行く水の事返らずそ思ひ始(そ)めてし

おそらく しかし これらの歌は 現代のわれわれにとって 必ずしも言葉にして表明することの要らない心の秘めた思いを語っている。言いかえれば 少なくとも 対関係は 対関係でも 私的な二項関係として 胸に秘めて 何かの折にこそ 口に出してうたうことができるその情況をうたっている。そしてこれらは 相聞歌のあり方が変わったのであろう。そして相聞のうたの構造じたいは 同じであるとすれば 万葉集またはその時代は 相聞歌としてのうたが それ以降の時代に対して はじめのうたとなったことを物語っている。そんな歴史的な変遷であるだろう。
あとのほうに掲げたうた 《ちはや人宇治の渡りの瀬を早み逢はずこそあれ後はわが妻》であるとか 《宇治川の水泡逆巻き行く水の事返らずそ思ひ始めてし》であるとか これらの歌の表明は もはや小説の中であるとか映画のストーリの中に出てくることがふさわしい公的な二項関係をうたったものであることを物語っている。
そしてこれら二首の歌についてみれば 主観を表わす下の句を言い出そうとするための上の句を成す序詞は 価値がなくなったというのでなくとも むしろこれらがさらに長歌のようなあいさつ言葉となっている。ただ 《逢はずこそあれ後はわが妻》 また 《事返らずそ思ひ始めてし》と述べるだけで 事は足りるのが 実際である。だから もう一度言いかえれば 上の句の《ちはや人宇治の渡りの瀬を早み》《宇治川の水泡逆巻き行く水の》は 時にまだるっこく 時に上に述べたように小説作品といった公的な二項関係の句であると考えられる。より直截にいえば それぞれ 《待っていてくれ》《もう離さないぞ》と言うほうが 実際である。
しかしながら なお 《・・・逢はずこそあれ後はわが妻》《事返らずそ思ひ始めてし》と言うことは 《逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも》《君が目見ねば苦しかりけり》等々と言うように――それらは 言うまでもなく 私的な思いを述べているのだが それが 私的な二項関係の主観共同を前提していることは 実際である―― だからやはり 他でもないふたりが ふたりの問題として その問題を静かに むしろ静かに 見守るように進むべく 言葉にしたうたなのであろう。再度言えば これらの歌は 本質的に 抒情であるとかその美であるとか またそのようにして一人がその密かな思いを内に反芻しているといったことを 第一義とするのではない。それらを 歌の鑑賞形式で見ようとすることは 現代のわれわれが一般に共同相聞歌の情況の中にいて たとえてみれば 心は誰にも渡さないぞといったようにして かたくなに《わたくし》なる世界を貴んでいることの結果を反映しているにすぎない。だから あくまで ふたりの問題として 静かに見守るようにして表現しているのであろう。
たしかに 何かがすり替わっている。しかも同じ業(=非アマテラシテ)を持った人間として 相聞のことじたいは 同じ情況をつくり出している。万葉は このまま滅ぶにまかすべきか。作り直すべきか。また そのまま再生させるべきか。
しかし これらは 一概に 規定・展望することはできない相談である。ただわれわれに出来ることは 万葉を今に伝えるアマテラス学問行為 これは 新しいかたちへと転換させうるであろうので ここから出発すべきということである。長歌が いま一度生まれるだろうとか そうでないだろうとか 相聞の形式は アメリカナイズするであろうとか いや古風なものが見直されているとか こういった議論には さして意味を見出すことはない。現代の相聞じたいに 何か動いており 何かが変わりつつあるとすれば 一方でこれらの新しい情況をうたった小説作品等が現われてもくるであろうが われわれの方法としては 人麻呂なら人麻呂のうたおよびその方法を すなおにそのまま うたいつぐことである。
そしてそれは むしろ既成のアマテラス学問行為の中に見出されたとされる文学もしくは文学鑑賞の方法 これを 動かすことに求めるべきであろう。
しかし ここにも問題があるとするなら 旧いアマテラス学問行為の批判を 新しいただアマテラス行為のやり方において成すとすれば それは アマテラス二重言語性の中の衣替えとして 律法的であり仮象的である。なぜなら そこでは 頭に蔽いがかぶらせられているのであるから たとえば 長歌の 長歌だけの 衣替えということになろう。
長歌が本来 時代の移行を見守りつつ うたい出されるものであり それにつづく短歌形式の新しいかたちの創造につながっていると見られるかも知れない。しかしながら たとえば人麻呂が その人麻呂歌集(それは 短歌を主体とする)をその初期にうたい出し これにもとづいて 長歌も創造されたといった人麻呂作歌事情の歴史的変遷についての研究成果が示すような事柄が ひとつの共同主観移行の方程式であるとするなら このことは深く省みられるべきなのである。
何ものか そこに批判をやどしてしかも自己措定的なはじめの歌が 出現せずはなるまいと言う。しかも このはじめの歌は すでに密教圏においては ヤシロのどこかで歌われ始めているそのようなていのものである。これが 主観共同であり これによってのみ新しい主観共同は 出現して来なければならないだろう。
そこで われわれは インタスサノヲイスムの第二命題に帰ることができる。また そうする必要がある。
(つづく→2006-09-06 - caguirofie060906)

*1:糸偏に 上にムが三つ 下に水を書く文字