caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十三章 ルウソの女性論への批判

したがって 私たちが段階的に内観を進めて行き 魂の種々なる部分を考察するなら そのとき私たちが動物とは共有しない或るものを見出し始め そこで内なる人がすでに認識され得る理性がその仕事に着手するのである。この内なる人(スミスの《 man within 》)自身も 時間的事物の管理を委託されているあの理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ち さらにその頭が同意するなら 言い換えると指揮所で命令し見張る理性のあの部分が いわば男の役割のごとく それを禁止し抑制しないなら その敵の中で衰えるのである。その敵とは徳を嫉む悪鬼たちとその首長(かしら)たる悪魔である。
永遠なるもののあの直視は妻と共に禁じられたものを食べた頭(男)自身からも失われ したがって彼の眼の光は彼と共にないようになる。かくて この両者は真理の照明によって裸にされて いわば甘い果実の葉のようであり しかも彼ら自身は結実なくあるかということを見るために開かれた意識の眼をもって 善き業(わざ)の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って自分たちの汚辱を蔽うのである。
たしかに 魂は自己の権能を愛するとき 普遍的な全体から 普遍性を奪われた私的な部分に滑り落ちるのである。・・・
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 12・8) 

わたしは 《ジュリ または新しいエロイーズ》の筋書きに 深入りしたくないし 深入りする前にも もうこれ以上 論じたくないし それは わたしの能力をこえていることだからであるかとおもう。アウグスティヌスを引用して サン-プルーを祝福できればと考えるのみである。
また 同じかたちで 《エミル》〈第五編〉の中で 結ばれることになるエミルとソフィとの二人を 祝福すべきかなと思うのである。

  • ただし その〈第五編〉の中のルウソの女性論には 異議がある。

現実にあるものはよいものだし どんな一般法則も悪いことではない。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.25)

  • という命題をかかげて ヘーゲルではないが つまりヘーゲルとはちがって この女性論においては 経験現実の経験法則を――要するに 習性のような経験律を――利用しながら 自然人教育を説いていくとき そのこと自体も悪くはないと思うのだが その自然人の自己教育を 男性には認めて女性には認めないふしがある このことである。

女の理性は〔同感〕実践的な理性で それは ある既知の目的を達成する手段をみいださせるにはきわめて有能だが 目的そのもの(自然人確立)をみいださせない。
エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) p.47)

  • という表明を見ることによって 一つの揚げ足取りをおこなうことができる。揚げ足取りでもないのかも知れない。もしそうだとすると 一例として 次の文章は どこに欠陥があると考えるべきだろうか。

若い女性によい行ないを好ませるようにしたいと思うなら たえず 賢い女になりなさい などと言うのはやめて 賢くなることに大きな利益を感じさせるがいい。知恵のねうちえお完全にわからせるがいい。そうすれば知恵(=ソフィ)を好ませることになる。その利益も遠い将来からもってくるのでは十分ではない。現在のこととして その年齢のいろいろな関係のうちに 思いを寄せる男性の性格のうちに それを示してやるのだ。まじめな男性 すぐれた男性を描いて見せるがいい。そういう男性を見分け 愛することを 自分のために愛することを 教えるがいい。そういう男性だけが 女性を 友だちとしても 妻あるいは愛人としても幸福にすることができることを証明してやるがいい。理性を通して美徳を教えるがいい。・・・
(同上 pp.80−81)

  • 欠陥があるとしたら どこにあるだろうか。わたしは 初めの条件すなわち《若い女性によい行ないを好ませるようにしたいと思うなら》の含む視点にあると思う。
  • 男の生徒エミルに対する教育と比べて 視点が この女に対するばあいでは 異なったものとして論じられている。そして そのあとに述べられることがらは――つまり 全体よりは個人 将来よりは現在のことを 話題にとるといったことは―― 男女に共通の同じ一つの視点による教育においても たしかに女性のばあい その過程的な展開の初期の段階では たとえそう意図しなくとも――つまり 性によって視点をたがえないときには 意図しないはずだが―― 経験事実として 実際にたどりうることだとは 言わなければならない。
  • どういうわけか 女性のばあい 実利的な過程展開が 相対的な同感実践においては 観察されうるようである。中で 《愛人としては》がもはや論外なことは言うまでもない。

わたしが エミルとソフィとの出会い そして 二人が かれの教師(つまり語り手=ルウソ)やかのじょの両親にも助けられて 賢明にその愛をそだて 晴ればれしい門出をむかえるにいたるその過程 これはよく描けていると思うだが サン-プルーを祝福するほどには それへの祝福をいくらかちゅうちょしたことは 次の理由による。
ルウソの叙述が――その筋書きと表現とが あまりにも美しく出来ているので うらやましくなって いうのだが その叙述が―― もしや 《善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ――よく生きようとしながらなのだが―― いわば上手に語って自分たちの 何らかのまだ残っている汚辱を蔽う》ところのいちじくの葉になりはしないかと おそれるからである。《よく生きようとしていながら》 他面で 《善き業の実なく》《何らかの汚辱を残しているのではないか》とは どういうことか。わたしは この点 逃げ腰になるが それこそ わたしたちには判断できないことがらだからである。
わたしはなぞに逃げる恰好であるが 他方でルウソのここでの叙述は 理性にうったえるだけではなく 感性にもうったえていて その力が有効であるなら そこには なぞはない もしくは 自然の歩みのなぞも 心で感覚をとおして 捉えられた恰好である。そして 個人が自然人を確立することと 自然の歩みとは 微妙にちがうと考える。《自然の歩み》とは 自然人を確立した個人個人が あたらしい社会人となって 交通関係を結んでいき その歴史的な社会の歩みを 自然人(ないし内なる人)の観点からとらえようと努めるところのものである。もしくは 社会の歴史的な歩みをとおして そのなぞを とらえようとするときの一つの代理的なことばである。
ところが 《この内なる人自身も 時間的な事物――たとえば結婚――の管理を委託されているあの理性によって外にあるものに節度を失った進行をなし はなはだしく滑り落ち さらにその頭が同意するなら その敵の中で衰えるのである》と聞くからである。

  • ただし 結婚は善である。時間的事物といっても 必ずしもその式とか制度・しきたりとかの部分をいうのではないところの結婚についてである。

サン-プルーもエロイーズも そのいきさつは どうであれ――《魂は 時間的なものの無知によって或る点で誤る》から 《そして なすべきようになさなくても》―― 《いわば帰郷の道のように旅するその人生を 人間にとって常なる試練がかれらを捕捉するように送》った。なにも 悲劇を愛するのではない。悲劇を愛するから こういうことを言うのではない。けれども 悲劇を欲しないことと 理想を描くこと――これの想像に引き入れられていくこと――とは 別である。《物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 〔それは確かに内なる人の想像のなかにおさめられて〕魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる〕ことに 警戒すべきである。というのは 事が 結婚とか社会的な交通とか相対的な行為関係の領域(つまり 相手・他者があることの問題)に いまは かかわるのである。おどかそうと思って 言っているのではないことは 悲劇を愛するからでもないことと 同じである。
ルウソの叙述としてのいちじくの葉は なにも《汚辱を蔽おうとする》ものではなく しかも ’エミルとソフィの二人自身 善きわざの実を》むすぼうとつとめて 生きている。いちじくの葉ですら ないのかも知れない。そしてエロイーズやサン-プルーは 《汚辱》も何もひっくるめて 引き受けるかに生き しかも いちじくの葉(同感実践の一般的な諸規則)を 何か固定的な従うべき規範として 提出しようとするのではない。しかも 悲劇を欲せず みじめな状態から 私的なほどに主観的に 脱しようとして 相手とおつきあいしていくのである。
脱しようとする時点では とうぜんのごとく 同感の交通関係の中にあるのである。かれらは 《その敵――もちろんその相手の存在のことではない――の中で衰え得る(または衰え得た)》ところから 事実問題としては 出発し これを 自然人確立のもとに のりこえて進む。エミルとソフィとは 《その敵の中で衰え得ない》同感実践の交通関係――このばあい 結婚――の中にいるかのごとくである。
このことは 抽象的な自然人としてだけではなく 相対的に新しい社会人の同感関係として あってよいのだが あっていいことのむき出しの叙述と だからその主張(表現実践)と そしてそのさらにあとの叙述・主張・さらに具体個別的な実践とは これまた別である。
エミルとソフィ夫妻の 社会人としての同感実践 これをわたしたちは 志向している。そしてこれも同じく 自由になされるべきものだが その変則的な一例は むしろサン-プルーなのである。われわれは悲劇を 一般に 好まないから かれに ふさわしい配偶者をみつけるべきである。それだけではなく それからあとの夫婦の・また家族(家庭)の社会に開かれた同感実践を 見出していかなければならない。
すなわち 個人を個人として知るといういま一つの主題である。

  • 人が 家族・親族の関係に拘束されるという言おうとするのではない。ただし夫婦は互いに互いを 自由にまた同等に拘束すると言えるはずである。

ソフィの両親の夫婦関係が それか。だが かれら夫妻は 父親・母親として その娘ソフィの教育と結婚に かかずらわっていて まだわれわれを満足させない。新しいエロイーズとして提出されたジュリの サン-プルーとのではない結婚関係 その家庭での 夫婦の実践はどうか。それは 善意によるものとしてであっても ジュリのサン-プルーとの交通関係の 《汚辱》とは言わなくとも 同感の破綻が 尾を引いていて それを《蔽う》ための実践――後ろ向きの実践 ただの準備――であるという制約をまぬかれない。個人は 個人として まだ 知られていないのである。
同感の規則 徳性などの規範といういちじくの葉に《蔽われ》ようとしていて 生きた個人は 個人として 顔を出さない。こういう場合 あとで展開するジュリの悲劇 コレは悲劇とは言わないのである。悲劇におわるか それをのりこえて進むかの舞台(人生の旅路)に まだ上がって来ていない――それを すでに初めに 放棄したかっこうである――からである。サン-プルーが 自分のためであれ他者のためであれ これに 同感実践をつらぬいたことは偉大なことである。ただしわれわれは 死ぬこと欺かれることわずらわされることを欲しない。サン-プルーは ジュリが結婚した時点で 去ってもよかった。
エミルとソフィ二人の夫婦としての新しい旅立ちを 祝福したいのだけれども かれらが 結婚するにいたるまでの教育および同感実践は われわれがそれに(その叙述をとおして)いわゆる共感するとはいっても 結婚後の同感実践の持続を まだ保証するものではない。ルウソが その結ばれるにいたるまでの教育と同感実践を美しく描いた点をもって 単なる想像上のいちじくの葉になりはしないかというここでの物言いは 単なるわたしのやっかみである。話のつごうで そういうふうに もっていっただけである。つまり 新しい旅立ちを祝福したいということは それまでの経過をやっかんでいるわけではない 念のため。
そしてまたスミスは 《内なる人=良心》を議論の中に残していたが 社会的に同感実践する人を経済人として示そうとしたなら 観念的ないちじくの葉をその意味で――頭に蔽いを被らないと意味で―― 取り払った。自由な経済活動を 自由な経済活動とした。(そう提案した)。
そして個人を個人として知るという文学は やや客観理論的にあつかわれていくのである。文学的なアウグスティヌスは いまから見てややなぞの部分が多い。この二人やまたルウソらにしても かれらに学ぶために こういう言い方をするのである。