caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2005-11-28 - caguirofie0511128

第十七章 社会契約論への異議

《最初の約束》から こんどはそれを《社会契約》として規定することへ移るところで わたしたちは 注意したほうがよい。または 異議をとなえたほうがよい。
国法または社会秩序の 由来をなすとともに原則(法の精神のごとく)であるもの これは これまでの議論にもとづく限りで 素朴に結局 人びとの交通である。もす少し基準をもたせた言い方をすれば 同感実践を推進する信用交通である。そしてさらに なぞをもたせた言い方をするなら 同感実践する社会人は 自然人(自然法主体)であることにもとづく。これらのことが 《最初の約束》である。そしてこれをそのまま 《社会契約》と表現しなおすことは 自由に可能であり――ということは そこまでならおそらく 第一の基本実践たる《自然の教育》を 《人間の教育》として・またその人間の教育の観点から 捉え表現しなおすのと ほとんど同じことであろうから―― しかも 人間の(人為的な)教育が 最先行する中軸ではなかったごとく この《社会契約 / 最初の約束 / その意味における〈同感人〉》は すでに 相対性の世界そのものに入っている。
自然人の教育が それでは 絶対の世界かというと なぞとか信仰の動態においてはそうであろうが これまた結局 《相対性の世界を相対性の世界として捉える第一の基本実践》であると 議論されてきたところのものである。社会人の交通における同感信用の関係 といった約束が この自然にもとづくものであるとする限りで この約束は 普遍的なものだろうと考えられてきた所以である。このとき 社会契約は 相対的なもの――誤解を恐れずにいえば どうでもよいもの――である。ルウソは言う。

つまり 国家にへ廃止できないような基本法はなにもなく 社会契約すらそうである。
社会契約論 (中公文庫 D 9-2) 3・18)

ということは 表現だけの問題としていえば 社会契約は 第一の――原理とか真理とかにもとづく――人間の基本実践に由来するものと見てきているのだから ここで 自己矛盾におちいるかのようなのであるが いうところは 社会人の交通・要するに日常の社会生活が そのまま基礎とか原則とかであるとすればよいので そこで同感人であることといった基準ないし規範も 決定的なものではないし固定させる必要はないということである。矛盾におちいってもよいかように言うとすれば そうである。
《力を共同にして 一般意志の最高の指揮のもとにおく》(cf. §16)といった内容規範が 社会契約と言いかえた時点で もし付随するというのなら これは  《最初の約束》から確かに付随しそれを応用して持たれるさらに具体的な約束事のことである。これは  《廃止できないようなもの》ではない。つまり いま普通におこなわれている社会人の交通を さらにその《力を共同にして 一定の社会形態のひとまとまりにとっての一般意志というものを 応用のかたちで約束しあい これの最高の指揮のもとに 各構成員をおく》ことは 相対的で可変的なことがらである。
だから  《最初の約束》を《社会契約》といいかえ これじたいを考察し規定していくことは いろいろ可能性のある応用としての約束事である。もしフランス革命が ルウソのこの《社会契約論 (中公文庫 D 9-2)》の実践である一面をもったとするなら もちろんたしかに 一つの可能性を それとして 追求したということだと考えられる。スミスは 一般意志の代わりにむしろ たしかに経済人〔=同感人〕としての個別意志の実践のもとに 人間の教育過程をとらえ もしくはさらに 社会形態(統治形態)のひとまとまりとしての一般意志をも超えて 《自然の行程(歩み)》を 自然の教育として 観想するといったことを付け加えて言ったものと思われる。つまり一定の理論としては 最後の点ではもう 何も言わなかったということである。
何も言わなかった人は 同感人の出発点(生活態度の全体)に立ち 生活基礎の側面での経済人を示そうとするかっこうである。何か言った人つまりルウソは 同感人であることと同じ内容だと思われる《最初の約束》に対して 社会形態の観点からして ふたたびあらためて 約束を表明しあおうとしうようなかっこうである。社会生活のためには 《同感人であることに私は同感します〕と いちど 宣誓するようにしましょうとのごとくに。
わたしがわたしを思う→わたしは わたしを思うところのわたしを思う→そのわたしを わたしは思う→またまたそのわたしを・・・というように いわば無限にお《自己》の連乗積をつくっていくことは じっさいに言って 自然人への自己到来の基本実践なのである。
自然法主体であるわたしをp どこまでも自乗していくことは 抽象的にして経験的な我れの 主観動態(もしくは なぞを容れれば 信仰動態)であると思う。その自己の 経験的なの部分をとらえるなら 出発点としての同感行為ないし同感人である。この同感人であることに 人は 同感することもできる。ということは そのことを 自己の自乗過程という自然人原点が 人間的な論法でいう限りで 保証しているのである。また だから この同感人という生活態度(あるいは 同感交通しあうという生活態度)を そういう自分に対すると同時に社会的な 約束ということができる。とにかく誰か一人の他者と交わるというとき そのことじたい 同感交通でもあり約束でもある。しかし この約束を 守りますよとあらためて約束するとは どういうことか。
同感人が交通しあうということじたい それは 社会的な意志のあらわれであり この約束という出発点が 一般意志の実践である側面をもつ。ここへ 首長とか国家とかその法律とかが介入してきても 出発点は 一つ・すなわち最初の約束である。この約束を約束させる そして特に その一般意志の側面を重視して強調するような契約ごととは どういうことか。
だから 最初の約束を 社会契約といいかえるだけではなく その中の内容要素たる一般的な意志を もういちど 約束づけるということは じっさいには あたかもその背後で つねに自然人原点にかえりなさい・その自己を自乗し自立していなさいということと 等しい。《一般意志》は 《最初の約束》に含まれると考える。
さしあたってエミルは 人びとが新しい社会人として互いに同感人であるという最初の約束をまなべばよいと 考えられる。そしてじつは 現代のわたしたちにとっても もしその後 スミス=ルウソのこの線で 経済的にも政治的にもいわゆる一般に民主主義が 実現されてきている つまり獲得されてきているとするなら 極論としては エミルと同じものをまなべばよい。
先にこのように言い放ってしまってからだが たとえば この《一般意志》は 《市民の宗教 religion civile 》にまで発展する(社会契約論 (角川文庫―名著コレクション) 4・8)。フランス革命の宣言が 《人間および市民の権利の宣言》といわれたのとあたかも同じように いまわたしたちの出発点たる生活態度を 宗教の観点からとらえるとすれば それは 《人間の宗教》と《市民の宗教》とに分類される。前者は 《自然の神の法 droit divin naturel 》であるのだから 結局 自然人確立をはたすあたらしい社会人の 最初の約束をふくむまでのもの(自己自身の動態)といってよい。後者は じつはこれも 《市民の 神の法 droit
divin civile または 実定的な 神の法 droit divin positif 》といって 《自然の教育(神の法)》と 表現上は つなげているのだが その基軸は おそらく 《最初の約束を守ることへの約束》といった点にあるのだと思われる。法律つまり国法ともつなげられているから 国民宗教・国定宗教といってもよいものであり 時と場合によって 民族宗教ともなるものだと考えられる。
もしこうだと考えるならば 実際のところ それでもまだルウソは 個人の生活態度という出発点を問題にしているとき 人間の宗教は「むろんのこと 市民の宗教も わたしたちの言ってきた同感人のことだと言わなければならないと 先ずは言いつつ たしかに《最初の約束→社会契約 / 一般意志→市民の宗教》といった議論の展開にそっては この自同律(同一性)に しかし 何がしかの尾ひれがついているようだと思われる。
この尾ひれというのは 議論がそれほどそれたことを意味せず おそらく 繰り返すならば 最初の約束を守ること 自由な同感実践の社会的な実現をはかることのためにこそ 言われているものだとは 見なければならない。また 《宗教》と言うのは やはり教会制度の存在――それが 統治にかかわってくるから――の関係上のみであろうとも 考えられる。つまり特にヨーロッパ人としてであろうと。
それでは なおかつ 《社会契約論》という応用教育にまとまるかに見える尾ひれとは どういうものか。まずはじめに

そこで 主権者(市民)がその頂点をきめるべき 純粋に市民的な信仰告白がある。それは厳密に宗教の教理としてではなく それなくしてはよき市民 忠実な臣民(主体)たりえぬ 社交性の感情(社会性の意識)としてである。
社会契約論 (角川文庫―名著コレクション) 4・8)

これが 《市民の宗教》である。だから ほとんど 最初の約束つまりは 人と人との交通(
sociabilite )のことにほかならないのだが この約束を守らしめるという尾ひれもつくという具合である。

それを信じることを何びとにも強制することはできないけれども 主権者(つまり一人ひとりの市民のことでもあるが)は それを信じないものは誰であれ 国家から追放することができる。
(同上 つづき)

新しい社会人として同感実践する人びとの個別的な意志のほかに――あるいは じっさいには その個別意志の自同律として―― 一般意志があると すなわち 一般同感があるというふうである。これは 尾ひれまたは上塗りのように 思われた。エミルは どうこたえたであろうか。もっとも この上塗りをおこなわない場合でも 時には 罰として国家から追放されるべきだといった結論が 人びとの同感交通の結果から生じることがあるかも知れないという一つの文脈の中でではある。
罰則の上塗りなのではない。あmたこれは 《不信心な人間としてではなく 非社交的な人間(つまりおそらく 非同感人のことである)として・・・追放することができるのである》(同上)といっている。
このような 同感人の自同律(アイデンティティ)――たしかに 骨格はそうであろう――この議論に もしおひれまたは逆に欠陥が 生じてはいないかと危ぶむのは 意地悪く論理的にだけ言おうとおもえば 次の論点である。
《人間の宗教》――すなわち 自然陣=同感人たる新しい社会人の人間の教育――だけでは 同感実践ができないゆえに この人間の教育には 上に見た《市民の宗教という応用面の約束事が必要になってくるというルウソの論理は 次の考察にもとづいている。

この〔人間の〕宗教は市民の心を国家に結びつけるどころか 市民の心を地上のすべてのものから引き離すのと同じように 国家からも引き離してしまう。私は 社会的精神(つまり交通の)にこれより反するものを知らない。
社会契約論 (角川文庫―名著コレクション) 4・8)

こんなことをふたたび言い出すのなら――論理上の批判をしようとしているのだが―― なんのために これまで《自然人⇒同感人としての新しい社会人》を みちびいてきたのか。エミルは 社会に戻り国に帰り 気持ちよくつきあい(=交通) 友情をむすび さらにはお手本となるのではなかったか。あるいは――あるいは―― 国家や社会制度は 可変的などうでもよいものと捉え その意味で 市民の心を地上のすべてのものからも引き離すところの生活態度は 社交性の感情・同感交通の精神(意識)と とうぜん 両立するもののはずではなかったか。
これは ルウソにあっては 《神の法による自然本性》を内容とする《人間の宗教》が 《現在のキリスト教ではなく それとはまったく異なった福音書キリスト教である》(同上)といわれることと――だから 細かいこととしては 当時および当社会の経験現実の情況と―― ふかくかかわっているものであろうとは思われる。しかも 今の論点では この一つの前提条件(ないし付帯条件)を考慮したうえで 欠陥となるべき尾ひれがつくのではないかと思われる。

キリスト教はまったく霊的な宗教であり ひたすら天上の事柄に関心をもっている。キリスト教徒の祖国は現世のものではない。キリスト教徒は彼の義務を果たす。それはそうだ。だが それを行なうのに 彼は自分の努力が成功するかいなかにはまったく無関心である。・・・国家が繁栄していても キリスト教徒はほとんど公共の幸福を享受しようとはしない。・・・
社会契約論 (角川文庫―名著コレクション) 同上)

人間の宗教を 具体的にキリスト教として議論している側面には 触れないとするならば ただ論理t系にだけあげつらうのであるが 《自然人⇒新しい社会人》として もう十分に出発点を固めてきたエミルは それでは 《かれの義務を果た》しつつ そのほかに いったい何をせよと ルウソはここで 言うのだろうか。《義務を果たす。それはそうだ》だけでは 《最初の約束》が守られないとでもいうのだろうか。
義務を果たすことは 最初の約束を守ることである。一般意志の側面も むしろそのままそこに 果たされており めんどうくさい社会契約を持ち出さなくとも それを市民の宗教にまで引っぱっていかなくとも 人間の宗教(人間の教育)だけで じゅうぶんに」 社交性の感情を 実践している。個別的な同感人の個別意志によるこの実践 つまり義務の遂行のとき かれは 一般意志・一般同感・市民宗教の信仰告白という旗でも掲げていなければならないというのであろうか。
いま成人したエミルは 《人間の手にうつるとすべてが悪くなる》ことを 知っている。しかし 新しい社会人として ここで――地上でそしてかれの国で―― たしかに同感実践する。人びとと交通しあうという約束を守りつつ(だから それは もはやたしかに 義務ではあっても 規範的な・自己規制的な義務や権利ではないだろう) 生きる。だから従って 《人間の手にうつった》ところの《自分の努力が成功するかどうかにはまったく無関心である》。つまり 善悪の問題もさることながら 人間のおこなう事柄は 相対的で可変的なものなのだから それらの努力を成功にむけてとうぜん傾けつつ 義務を果たすが たしかに結果いかんには その意味で頓着しない。とルウソは かれを 教育したのではなかったか。それとも はじめから 自然人と社会人とのあいだには 埋められない亀裂が生じていると見ていたからなのであろうか。それを言いたかったのであろうか。
しかし だとするなら 人間の宗教のほかにまだ 市民の宗教をたてて 自由な同感交通の実現をはかろうとすることは 亀裂のていのいい修復でしかない。
《社交性の感情》は すでに人間の宗教が それを相対的でどうでもよいものとしつつも とうぜん 新しい社会人として・また最初の約束として それこそ自然に(あるいは社会自然的に)持っているものであり むしろそれゆえ このままで かえって この市民の宗教の内容となるものごとを よく実践mんしてゆけるのだし そのほかに どうしてわざわざ 一般意志・一般同感をかかげなければならないのか。あるいは 全体として捉えて結局 この一般意志をもちだしたことは それが そうはいっても あくまで 個別意志の実践のなかにしかないというのだから むしろ 《市民の宗教》と《人間の宗教》とは――はじめに少し触れたように―― 同じ一個の 人間の教育のことを言おうとした こうとしか考えられないのではなかろうか。