caguirofie

哲学いろいろ

#15

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十六章 エミル 社会契約についてまなぶ

わたしたちが見てきた順序で

  • 《エミル または教育について》

わたしたちが苦しんでいる病気はなおすことができるし よき者として生まれついているわたしたちは 自分を矯正しようと望むなら 自然の助けをかりることができる。
――セネカ《怒りについて》2・13

  • 《ジュリまたは新しいエロイーズ》――アルプスのふもとの小さな村に住む二人の恋人のあいだの手紙――

世界はかのじょを知らずに所有した
われ われはかのじょを知った
ここにとどまるのは かのじょを嘆くためである
――ペトラルカ

  • 《社会契約について または国法の原則》

われらは協約の公平なる法を明言し
――《『アエネーイス』ローマ建国神話》第十一巻

という三つの書物をとりまとめて論じるのは わたしの勝手なやり方である。
《共同自治におけるわれわれの自立( droit politique )の原則》が 社会契約――仲間との交通 contrat social ――であるというと わかったような・わからないようなことになるかも知れないが 要するに 《まっすぐ( droit = direct )立ち 方向( direction )づける( diriger )》のは 《交通 contrat 》ないし《まじわり・約束 convention 》に 由来(初め= principe )するのだということではあるまいか。
《出会い contrat / convention 》が 《互いに距離を保って( di- ) みちびく( -riger )》ことだ そこで《権利・法律 droit 》が持たれる すなわちその全体として 人間の自己教育の関係過程における同感実践のことだと。
ここには 教訓・倫理・習俗・掟・道徳その他の慣習法といった 同感行為の一般的な規則も生じる。通俗的にいって同一の言語を話す同一の民族という一定の範囲にまで この慣習法は 容易にひろまりうる。その限りで この一定の民族社会の中で 人びとのつきあいの《起源(初め = principe )》をあたかも一個の人間が象徴すると考えられたならば そういう人間を人びとが協議して立てたか または誰かが勝手にそういう人間になろうとしたかによって 《首長(初め = principe )》としての指導者( dirigeant / directeur )が出現する。この経緯の問題の詳細はあとまわしにして 平俗的に見て こうして 国家が出現する。相対的な同感実践の領域では 相対的ゆえに経験現実として 《法や権利 droit politique 》は この《首長 prince 》から出て来ると考えられていることがありえた。ルウソは 《初め principe =原則》のほうが先だといい とりあえずそれは 《交通・まじわり・つきあい・約束》のことだと考えるが ただし この原則も 自然人原点そのものではないから 《社会契約すら可変的である》という意味あいのことを述べた(社会契約論 (岩波文庫)3・18)。いまは 社会の共同自治のなんらかの構造が出来上がったことを 見ておけば足りる。

  • 社会形態としての二階建て体制。《スサノヲ-アマテラス》連関制。

そして エミルやソフィの個人個人としての同感実践は この国家たる社会構造の範囲いっぱいにまで――あるいは結局 それをも超えて―― 少なくとも考え方として 及ぶというのが 新しい出発地点(進行の場)であった。

社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながら この権利は自然から由来するものではない。それはだから約束( convention )にもとづくものである。これらの約束がどんなものであるかを知ることが 問題なのだ。
(1・1)

社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)

わたしたちは しかしながらこの《問題》にかんして すでにあらかじめ見当をつけている。
すなわち 第一の基本形式として 《人びとは実際には〈社会人〉として生活しているのだが このとき その存在の原点としては おのおの〈自然人〉であるということに 同感(同意)する》という きわめて抽象的にして経験的な実践。そしてそのあと――時間的なあとではなく 原理的に見てそのあと―― 《この〈自然人〉への往きの実践から あたかも還ってきてのように 〈新しい社会人〉として生きる ということに互いに同感する(信頼関係を築く)》という実践。これを いいかえると 《おのおの出発点として同感人であることに同感する》ことであり おそらくこれが ルウソのいう《約束》あるいは《社会契約》のことだと考えられるのである。
あらかじめもす少し憶測することがゆるされるなら 最初の《約束》が 国家という社会形態のもとで 捉えられたものが 《社会契約》だと。わたしたちとしては 《社会人・市民》であることと 《国家人・国民》であることとは 形態的に歴史段階的に・また法律のあり方などの点から 相異はあると考えられるものの とうぜん 前者が後者の基盤であると考えられるから いまは取り立てて 論議しない。
新しい社会人が したがって同感実践しあって 社会生活するとき その同感人であることに持続的で勤勉であるなら そういう一般的な徳性をもって 信頼・信用の交通関係をきずく。これは 社会秩序である。この《社会秩序》は その人間存在としての根源にさかのぼれば 《自然人ないし自然の教育》にもとづくと言い得る。ただし 直接の 交通信用・信用交通の過程的な成り立ちは 千差万別とは言わないまでも とくにその仕組みは 相対的なものであった。だから そういう相対的なものであるという意味での《社会秩序》は 新しい社会人の《約束にもとづくものである》。《同感人であること 同感人であることに同感すること》という《約束》にもとづくものである。その意味で 《社会秩序は――直接に=自然人信仰のままのかたちで――自然に由来するものではない》。そして 同時に 事がこのようであってみれば 《社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である》。
権利( droit )とは 生活態度の方向づけ( direction )が 同感協議にもとづいて明確であって 自立( droit )しうるところのものである。この社会秩序は 同感人=新しい社会人という出発点を介して 自然人という原点にもとづくことに変わりはないであろうから。
エミルたちは この出発点における《約束がどんなものであるか》を まなぼうとしている。この場合は すでに生活態度の問題としてであるから すでにかれらの同感実践の 基礎をなす一環である。まなぶことにおいては いまから考えると 政治学あるいは社会科学の基礎のことであるが ここでは 議論の新しい進行の地点としては エミルならエミルという一個人の同感実践の(または 人間の教育の)過程そのものである。《社会契約論》を狭く解釈することに あるいはなるかも知れないが ここでは この仮説する一視点をまもりたい。
わたしたちは 《つねに最初の約束にさかのぼらなければならない》(ISBN:4003362330 1・5)のである。国家という社会的な信用交通の一形態 これがいま 一つの話の前提だが この中で

多数者をおさえつけることと 一つの社会を治めることとの間には いつでも大へんな違いがあるはずだ。
ISBN:4003362330 1・5)

から。つまり 《同感人であるという出発点》が――もしいま もうくどくどと 自然人という原点をもちださないとするならば しかし―― 省みられなければならない。社会秩序は つねに過程的な(そしてそれが 問題の相対性を語るとも言える)実践関係なのだから 同感行為の持続という勤勉関係(つまり経済的には 資本志向の社会)のことでもあり 勤勉といい信用といい それらの徳性は 本質的に 個人個人のものであるから。
すなわち たとえ誰かひとりの人間が 《同感人》の象徴として 勝手に立って どういうわけか 指導者( directeur その意味での立法者)となり 国家という社会形態をつくりあげたというときでも 《同感人としておののが自己を教育し社会を治める》という《最初の約束》にもとづいており その限りで この国家の《社会秩序》も《神聖な》ものであり かつ 同じくその限りで それとしては 《自然に由来するもの》ではなく そこに 《多数者をおさえつけること》を一つの手段とするところの社会秩序も成り立つというかに見えるわけである。
つまり 《多数者をおさえつけること》による統治も 《最初の約束》にもとづいている。つまりさらに 多数者をおさえつけることによる社会秩序が いやな場合でも そこでの信用交通または勤勉の関係は どう転んでも 本質的に個人個人の――いろんな方向性をもつにせよ――同感実践によって成り立っている。最初の約束にさかのぼらなければならない。

ばらばらぶばっている人々が つぎつぎに一人の人間のドレイにされてゆくとして その人数がどうであろうとも わたしはそこに 一人の主人とドレイたちしかみとめない。人民とその首長はみとめられない。
ISBN:4003362330 1・5)

というわけである。たとえ国家内の社会秩序であっても 最初の約束にもとづくなら そこでの同感人の人民と同感人の主張をみとめて 《気持ちよくつきあい 互いに友情をむすべる》ということになる。《ドレイ》も・だからその《主人》も じつは旧い形で同感実践しあうわけだが 《ばらばらなっている人々》は 同感実践するところの個人個人ですらないというわけである。そして 新しい社会人は 国家をいま持ちながら 首長と人民とであることはできるが 主人と奴隷であることはできない。ようになっている。
国家の法律がそうなってきており それは はじめの約束にもとづいた社会信用の交通関係の考え方からして みとめられるから。この基本的人権といったことがらすら 実は 
国家の社会制度として保障されているとしても 国家がその国家ゆえに 初めに約束しあったものではないから やはり 個人個人の実践・生活態度ということが ルウソにおいて 強調されている。人びとが約束しあって 国家ないし首長を立て その法律にうたわれるようになったものである。
すなわち 新しい 互いに文学人としての 個人個人の 交通信用の実践 このような進行の地点が ルウソの論議の中心である。ここで反対する人は なんで最初の約束にさかのぼらなければならないのかと言えるのみである。それに対して 国家は最初からあったわけではないと答える。重ねていえば

そこで人民が国王を選ぶ行為を検討する前に 人民が人民となる行為検討するのが順当であろう。なぜならば この行為は必然的に前者に先行するもので これこそ社会の真の基礎であるからである。
ISBN:4003362330 同上箇所)

《ばらばらになっている人びと》が いま仮りに国王を選び そのことによってこくみんとなったとしても 国王を選ぶというときには 人びとが人びととなること――そういう最初のまじわり・約束――が 先行しているから。これが スミスの《同感人》(その成立)とおなじであるとわたしたちは考えた。そして容易に――少なくとも考え方として容易に―― 《経済人》にも進みうるであろう。《自然人》は 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》原点。《新しい社会人たる同感人》は 《人民が人民となる行為 そこでの最初の約束( convention = ともに集まり来る)の経験的にも生活態度における確立》という出発点であり すでに進行の地点。政治からも経済的にも自由であり ただし この社会的な自由は 直接に自然に由来すると言い張っていくわけにはいかない。それは 約束にもとづくところの相対的なものであるから 政治=経済=社会的な制度を自由にえらんでいけるとともに そのことがつねに 過程のなかにある。そして 信用交通の勤勉関係の過程であった。
そうすると 言えることは

共同の力をあげて 各構成員の身体と財産を防御し 保護する結合(信用交通)形態を発見すること。この結合形態によって各構成員は全体に結合するが しかし自分自身にしか服従することなく 結合前と同様に自由である。

これこそ社会契約の解決する基本問題である。
ISBN:4003362330 1・6)

とルウソがあらためて定義することは ほとんど不要となるのではあるまいか。同感人であること そのことに同感すること そういった最初の約束で 基礎としては 社会秩序は成り立つ。これを社会契約とよんでもよいが 教育の一般規範 同感実践のおきたとなるのではない。《最初の約束》は ある種の規範であるだろうか。《わたしがわたしである》ことにもとづき 《新しい社会人として出発する》という約束 これが おきてとなるだろうか。法のもとの平等 あるいは 内面的な・また外への表現行為の自由 これらが たしかに法律であり おきてでもある。つまりまた 法律は 《約束》にもとづいている。この約束をもちだしてくると 人は 不自由となるであろうか。
だから

われわれのだれもが自分の身体とあらゆる力を共同にして 一般意志の最高の指揮のもとにおく。そうしてわれわれは 政治体をなすかぎり 各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる。
(同上)

というところの《一般意志》さえ わたしたちは持ち出さなくともよいと考える。一般意志は 《一般意志の最高の指揮のもとに自己をおく》ところの個別意志(そういった同感実践)にしかないはずだから。社会秩序の制度としては 法律(とその運営)にもおこなわれるわけではあるが。ただしこれも 基本的には 個別意志(つまり各個人)による協議の過程・それによる問題解決のことでしかないから 最初の約束で済む。つまり各人が 同感人であるということ。
エミルは《社会契約論》からまず 《最初の約束》をまなぶ。最初の二人ないし三人が 社会生活として 互いに交通するという約束 またこの三角関係の錯綜かつ結合としての しかし同一の約束。つぎに この最初の約束をもった同感人たちが 首長を立て 国家をかたちづくったとしたなら その一個の統治体の観点から 最初の約束を 社会契約と呼び変えるということ。そして この社会契約について その内容があらたに――自同律の確認のかたちでだが――規定されてくると あるいはエミルは 異議をとなえるかも知れない。つまり 最初の約束をもった者としてわたしたちは 新しい社会人の出発進行の地点に立つことだできたと考えるのであるが ここで 社会制度としては・またその社会の諸制度に対しては いまおこなわれているものから あらためて出発していけばよいであろうから そのとき 最初の約束を 《その約束を守るという約束》としての一般意志ないし社会契約のかたちへ 持っていくことに対するいくらかの異議。