caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十章 交通 交通 交通

《社会契約論》にかんして ここで ひと区切りを打ちたいと思うのだが それには 次の一論点をさらに見ておくのがよいし 見ておかなければならない。
これまででは 《社会契約》を《最初の約束》の言いかえであると考えてきたが それは確かに 言いかえなければならない理由が それとしては あり この理由は はっきりと一つの論点をつくっていると思われることである。これまででは この言いかえの理由を ただ単に 《最初の約束を守るための約束》としてのみ とらえていたが そして その場合でも 時に 《守らせるための約束の確認といった意味だけでの一つの制度方式になりうる市民の宗教》がからんでくるとまでは とらえていたが これら一般意志や市民の宗教など それじたいの性格を把握することとは別に じつは それらが持ち出されてくるためのはっきりした理由がある。ほかでもなく 国家という社会形態である。
最初の約束は 社会人としてだが 一般に・あるいは任意に ふつうに生活しあう人びとの交通のことである。社会契約は これら社会人の中に・あるいは上に 首長・為政者がいるという場合の約束形態である。
わたしとしては 事の本質に 変わりはないだろうと考えて 《最初の約束 / 人間の宗教(教育)》と《社会契約 / 一般意志 / 市民の宗教》とを 結局 おなじものなのであって たとえば前者の原則すなわち《人間の教育》一本でとらえると見てきた。法律とか社会秩序とかも この一本の原則のもとに・その原則のなかにおさめるようなかたちで とらえてきた。
ルウソが《国家》を 一論点として・ないし議論(物語)全体の中間項としてとり上げるのは もともと 《自然人確立した新しい社会人が生きるのは 政治社会・統治体すなわち一般に国家のもとにおいてである》のだから あたりまえの話であるが――だから わたしたちも なにか別論のようにあつかったりしなかったのだが―― 細かく見れば この国家を 一種の《人格》として立てている。〈第一篇第六章 社会契約について〉で わたしたちの〈第十六章〉の中に引用した文章を語ったあと こう言う。

この〔一般意志による〕結合行為は成立するとただちに 各契約者の個人に代わって 一つの精神的・集合的団体を成立せしめる。この団体は集会の有する投票権と同数の構成員からなり この結合行為からその統一性 その共同の《自我》 その生命とその意志を受け取るのである。このようにしてあらゆる人格の結合によって形成される公的人格は かつては《都市国家 Cité 》 いまは《共和国 République 》あるいは《政治体 Corps politique 》という名称をとり その構成員によって 政治体が受動的に法に従うときは 《国家 Etat 》 能動的に法をつくるときは《主権者 Souverain 》と呼ばれ それを他の同じ公的人格と比べるときは 国際法のうえで《国 Puissannce 》と呼ばれる。構成員についてみると 集合的には《人民 Peuple 》という名称をとり 主権に参加するものとしては個別的に《市民 Citoyen 》 国法に従うものとしては 《臣民 Sujets 》と呼ばれる。
社会契約論 (中公文庫 D 9-2) 1・6)

後半の定義は その用語が ルウソもこのあと言っているように 固定的なものではない。だから 人びとの社会的な交通を 同感理論するとき その政治社会のひとまとまりとしては 国家(首長の存在・それにからんでの法律とその運営)を 視野におさめるというだけではなく この国家に 《構成員の人格の結合とその統一性 その意味での一つの公的人格》を見るといっていること これが あるいははっきりした一つの論点になるかと思われる。
もっとも 結局はここでルウソも 事実認識をおこなっているのだろうと考えるのだが こう認識される事実が わたしたちの言ってきた・それのみでよいであろうという最初の約束に からんでくることは 現代では 否定しようのないことがらである。また 別の観点からいえば ルウソがこの著作の最終章(第四編第九章〈結論〉)で 国際法にかかわるような問題が のこされた課題であると言っていることにも おおいに からんでくるものと思われる。
だが いづれにしても わたしたちの結論は こうであろう。つまり 首長が仮りに何らかのいわゆる簒奪者であったとしても 事後的に承認されているという事実にもとづくのなら そしてそれが 奴隷と主人との交通関係という無効の約束によるものではないとしたなら 事実問題としては 有効な《最初の約束》にもとづいていると見なさなければならないこと ゆえにこういった限りでは 国家をある種の統一的な人格と見ようと見まいと 最初の約束だけでよいとすること。原則は それだけでよいと考えること。そこでは 最初の約束にもとづいて生活しあう人びとのあいだに 首長が立っているというにすぎないこと。だから 別種に社会契約を結びあって 首長を立てたり 統一的に人格をあらたに結合しあうのではなく 最初の約束の上に首長も立っているという単純な事実が 分析的に 社会契約にもとづくと言いかえられたにすぎないこと。その社会形態は 国家であるということ。
あるいは 次のように見ておくことができるかも知れない。人びとの社会的な交通は 最初の約束にもとづく。というよりも 交通じたいが 約束である。このとき 国家における交通関係は 最初の約束の一形態として 社会契約というのだと。そのときには確かに一定の領土と人民 またそのひとまとまりとしての《力 Puissance 》《主権者》という概念と経験現実がうかがわれる。
この間の事情をルウソがどう説明しているかをみる番である。

この社会契約の公式から 次のことがわかる。結合行為は公共(主権者たる人民)と個々人との相互的約束を含むこと また各個人はいわば自己自身と契約しているので 二重の関係で すなわち主権者の一員として個々人に対して 国家の一員として主権者に対して 約束していることである。
社会契約論 (中公文庫 D 9-2) 1・7〈主権者について〉)

つまり そうすると 最初の約束は 社会契約として 二重の交通構造を持ったかにみえる。だがこの《二重の関係》は 個人どうしの水平的なものと 個人がその一集団たる人民とかわすかのごとき垂直的な関係にかかわる約束は 市民個人と首長個人とのそれではない。首長個人も まったく一個の市民である。社会契約も 最初の約束と同じように 人間の交通という事実と概念での約束事である。その上に 首長がいたり 国家としてまとまっていたりするのである。同じかたちでいえることは 一般意志も 個別意志の・個別意志としての・ないしそれらの協議過程としての できごとである。一つの社会形態のまとまりとして 個人とその意志を そのまとまり・あるいは秩序という側面で 一般意志と分析しておくにすぎない。ルウソは 一般意志を含んだ国家的な社会契約という設定から 降りてきている つまり逆算しているところがあるにしてもである。
社会の秩序・公共の福祉――これらは 最初の交通約束が たしかに目指すところのものである。個別意志おのおのの自然的にそして社会必然的に――のためには 一定の集団の統一をも約束しあうという社会契約・だから一般意志が それとして 強調されなければならないだろうか。ルウソはそう言っている一面があるし ここが 同感交通しあう個別意志が その約束・あるいはその過程じたいとして 社会秩序を形成する一般同感ないし同感一般を 持たないということがあるだろうか。交通ということじたい あるいは同感人であるという出発点じたい 他者を想定しているのだし 他者を想定することは いったいなんのためであるのか。同感人のあいだに 対立・矛盾がないとか なくなるとかいうのではなく 含まれているはずである。交通・社会生活とは とうぜん この想定のもとでの話し合いである。自由に新しい社会人として交通しあってゆく・対話してゆくという最初の約束が それだけでは 一般意志を実現しえないということなのだろうか。一般同感を 決定的に規範的に持たなかったゆえにこそ 個別の同感人は 過程的な秩序を 公共の福祉を過程的に 実現していくということではなかっただろうか。
いま言っていることを 決定的な命題とするのではなく 基準だとか原則とするのであり 社会契約の 一般意志としてのまとまりの部分をなすところの約束も この基準たる最初の約束にもとづいている。そして この原則をやはり決定的な命題とするのでもなかった。社会契約すら可変的だが 最初の約束も その根拠は そういう同意(もしくは交通の事実)にあるというにすぎない。そうすると ふたたび 大前提たる自然人の問題にいきつく。そうすると この最初の最初である自然人の実践 これを 放棄するか 受け容れるならそれに由来する同感交通の最初の約束たる出発点に立つか どちらかしかない。
わたしたちとしては 最初の約束に立ち かつ ここにとどまることを考えている。国家形態に生活するばあいでも 最初の出発点にとどまることを考えている。原則として。ルウソは これに 一般意志を約束しあう一項目を含めた社会契約をかかげる。かのように語っている。これは 教育物語のたとえばの話を抜け出して 事実問題として一つの大きな論点になるとは思われる。首長のいる国家形態という事実から ルウソは 最初の約束に 社会的なまとまりという一要素を含めた(あるいは強調した)契約・またそれへの意志ということを つけ加えたのだと思う。
だが 教育物語の同感理論としては このような社会契約も 最初の素朴な約束にもとづいていると言うだけで すむのではないか。《たとえばの話》の部分・要素で 早くいえば 肥大している。
だから これは 教育物語ではないという反論がむろん あるかも知れない。あるいは逆に 教育物語だから 部分的中味の話で 肥大しているとも。これは措いて 前者だとしたら しかしながら このような事実問題としての《習俗(交通)と統治との必然的な関係は モンテスキューの〈法の精神〉という書物で十分に述べられているから その関係を研究するにはこの著作を参考にするのがいちばんいい》(cf. §15)というのは 矛盾である。つまり 《社会契約》は 《国法の諸原則》を内容とするのではなく 統治行為の政治学をまなぼうとしたことになる。あるいは 統治のされ方をと言ってもよい。それならそれでよいのだが それなら わたしたちもいまの論点を 別の問題とすることができる。すなわち 《国法の原則は 最初の約束であり これに限る》ということと そのあと 《国法の運営 統治の実態にかんする政治学》とである。後者の論点は いま あつかっていないから。そして ルウソは 両方の論点をここであつかったと見るよりは わたしたちの考え方としては かれは 後者の論点を 《たとえばの話》としてとりあげ 前者の論点を中心とする一つの教育物語のなかで 展開させるかのように 語ったと 見たいとという主旨である。
もう一点 問う。ルウソは 両方の論点をあつかっただろうか。じつは当然そうである。しかも この第二次の論点たる《国家としての社会秩序の実現》は 第一次の論点すなわち最初の約束の実現のためであっただろう。その逆ではないだろう。つねに こういう一つの物語の構制があるように思われる。もちろんこれは エミルの《教育論》の構制――実践形式の往きと還りとのなど――である。《法律の認めるものと利益の命じるものをたえず結合することに努める》のは この国家形態のなかで 集合的に主権者でもあり個人的には臣民( sujet =主体でもある)でもある《人間かつ市民》の交通の過程的な推進のためである。または 推進そのものとしてである。という一つの構制。
《主権者が臣民の忠誠を確保する手段を見出さないとすれば 両者のあいだに共通の利害関係があったとしても 臣民の主権者に対する約束は保証されない。 / 事実 人間としての各個人は 市民としていだく一般意志に反した あるいはこれと異なる特殊意志をいだくことがありうる》(1・7)と始めて 一つの結論づけをするのは 次のようである。

したがって社会契約を無益な公式に終わらせないために この契約は 一般意志に服従を拒むものはだれでも 政治全体の力によって服従を強制される という約束を暗黙のうちに含んでいる。この約束のみが他の約束にも効力を与える。

  • こうなると 上に見た構制に反して 第二次の社会契約が 最初の約束に 先行すると語ったかのようである。そうとう 穏やかではない。もう少し引用してから 論じよう。

そしてこれは 各個人が自由になることを強制されるという意味にほかならない。というのは これこそ 各市民〔がみづから〕を祖国に与えることによって 市民〔みづから〕をあらゆる人格的従属から守る条件であり 市民間の約束を合法化する唯一の条件である。市民間の約束もこの条件がないならば 不合理で 押しつけがましいものとなり 恐るべき弊害にさらされるであろう。
社会契約論 (岩波文庫) 1・7〈主権者について〉)

途中で口をはさんだ疑い これは そのあとの文章で 解消していると言えるかどうか。<最初の約束》が《第二次の社会契約》に先行するという一つの構制 これはやはり ルウソのものであると言えるようである。だが いづれにしても ルウソはこの構制をわざと複雑にするかのように ここでいったい何が言いたいか。
最初の約束は 個別意志のものであり そうでしかありえない。その個人が国家という社会形態のなかで住むとき 一つの集団的な秩序を ルウソは 事実問題のほうからして 想定する。交通における最初の約束のうち 合理的なもの・合法的なものを すなわち一般に国法ないし一般意志としてこれを 立てる。最初の個別意志間の自由な交通の実現のためである。ところが 最初の約束を 出発点においておそらく普遍的に内在させた個人は そのままで 互いの個別意志のあいだに 矛盾対立をもつことは 自明であり一つの前提であった。
自由とか平等とかの概念を理念として その限りで一般意志の内容とすることはできそうだから 最初の約束は この一般意志を持つと想定してみることは可能であり また他方では 一部集団の特殊意志が 矛盾対立の過程のなかに 発生することも すでに織り込み済みのことであったはずだ。これらにかかわる協議の過程すなわち同感実践の教育問題を じつに 国家という場に移して 議論している。それにすぎないと言えるか あるいは 逸脱とよぶべきような《一般意志の重視》があるかどうか。
このような議論の場の想定(それは 事実問題=つまり国家という事実であるのだが)において 社会契約とか一般意志とか 主権者とか臣民とかある意味で複雑な概念要因をもち出している。それらで 《最初の約束》の内容を充実させようと いってみれば 腐心している。
それらは たしかに事実問題(経験現実を認識したものごと)でもあるのだから それだけをとりだすと いわゆる政治学(政治思想)のようである。事実――事実―― そうであるとも言いうるし そう把握されてきたとも考えられる。しかも 議論の輪は――一つの物語構制として―― 閉じているとも考えられる。その限りでは きわめて主観的な つまり主観から出発しているところの文学的な 議論ないし教育物語だえると言い得まいか。
ここでは われわれの見方で 《逸脱》という要素はないと言わざるを得ないのではないか。《一般意志》は 少なくとも ルウソの書物にとっては いわゆる一人歩きをすることはないだろう。というように述べられた。ただし きわめてこの一点で拙劣だと思われる(直前の引用文など)。しかも龍は閉じ込められている。いいか悪いか論議のあるところだが そのように物語として見て 成功していると見たほうが面白いと思われるようだ。
またルウソの 生涯をとらえてみたところの行き方から言って 龍はけっして解き放たれたものではないだろう。そして じつは――じつに―― 《最初の約束》というものは つまり出発点たる同感人は だからその意味で近代市民は この龍が死んだところから あるいはそれを生け捕りにしたところで みづから新しい社会人として立ったのである。
けれども ルウソのあと 龍が閉じ込められていなかったかのごとく解き放たれているところへ その龍に対抗するごとく フランス革命がおこったではないか。それは そのとおりである。あるいは少し話を飛躍させて その後あたかも同じように国家の龍に対抗しようとするところのマルクス(その一面)ないしマルクス主義思想が出てきたではないか。これも そのとおりである。そしてそれらは 事実問題としてである。ルウソ スミス マルクスらの 龍の生け捕りの出発点に立つ思想の系譜 これをわれわれは 継承すべきかと思われる。

  • 事実問題のことにかんしては 逃げているわけである。もちろん わざとではないが ここでは 主要な考察の対象としていない。それでも議論を成り立たせうると考えたわけである。
  • ルウソに対して 誤解している・あるいはえこひいきしているかも知れないが まったくの誤解だとも考えられないとき 一つの見方として提出する。

第二十一章 ひとつの結び

わたしたちのルウソ物語も終わりに近づいた。次の一論点を前章から引きつがねばならない。
事実問題こそが 思想にとって大事であり まさにルウソの問題とするところではないのかという反論。事実こそが 生活であり 最初の約束たる交通のことではないのかという反論。
けれども それならば 教育は要らない。または その事実関係のなかで 自分の思うように生活することができるために つまりそのためにのみ 人は学ぶということになる。
矛盾した言い方をするようであるが 《事実問題》というとき 一方で たとえば端的に フランス革命の過程のなかで いくつかの形式をもったものとして 《国法と習俗(生活日常)との必然的な関係》つまり統治の行為事実というものがあり 他方で ルウソが・あるいはマルクスが(その他一般に政治思想家が) 革命にかかわるにせよ・かかわらないにせよ 統治ないし社会秩序の事実をとりあげこれを論じるというものが ある。そして後者の場合でも 事実問題というときには とにかく人びとが 社会人として 交通す生活しあっているという出発点を 把握しようとしているのである。基底的な内容として見て。だとすると たしかに この事実問題こそが その交通事実という最初の約束・つまり出発点を 明らかにするということになるのだが ここから しかしながら どういうやり方で どういう方向へ行くかというのは さまざまである。
初めには(前章のおわりのほうで) このさまざまな具体的なやり方のほうを 事実問題といっていたので ここでは はなはだ矛盾した言い方になるようなのだが 言いかえると この《事実問題》には その基底の側面――つまりやはり最初の約束を形成する交通事実――と その具体的な展開の仕方とが あると分けて 考えることができるであろう。もっとも 基底の事実も 事実なのだから 具体的な交通にほかならないであるが。
広い意味の《事実問題》には したがって 人びとの社会交通の 一つに出発点 もう一つにその進行の形式 これらの二つがあるということである。論じうる限りで 前者だけを論じた。
マルクス主義の政治思想は 出発点だけではなく 具体展開・具体進行の形式がある。いわゆる功利主義として自己の利益のために事実関係(その知識)を利用するというのは すでに発進形式としての事実問題である。この功利主義も それによって 最大多数の最大幸福という大きな意味での交通事実を問題としているとき それは そのように・それなりに 同感人の出発点をも考慮したわけである。マルクス主義のさらに一つの革命方式という政治思想 これは 当の本人マルクスのなかにも見られるものであるかと思うが そのような発進形式・進行方向としての事実問題と そしてマルクスがまず社会生活を認識してみせたときの出発点としての事実問題とは いちおう別であると考えられうる これは フランス革命家たちの事実問題と ルウソの把握してみせた事実問題との――重なるところもあるかも知れないが――やはりちがいを ひととおり 明確に示すものと考えられる。

  • 人格がちがえば その同感人出発点は同じでも 発進・進行のありかたは ちがいや多様性があると見ることにすぎないのでもあるが。

人が社会人としてまなぶものは――あるいは そのまなぶときのきわめて素朴な初めの出発点は―― 出発点としての事実問題である。それは すでに出発進行している事実関係をとおしてだが この進行事実を学ぶのは 出発点・自己の生活態度(そしてさらにはやはり原点を自然人)を明確に把握したいためである。すなわち いろんな発進形式・いろんな進行方向を――たしかに相対的に――持ちうるところの事実問題 あるいは現に形式・方向をもって互いに対立もしているところの事実問題 これは 基底に・価値自由的に 交通(まぢわり)を従えた全体としての社会生活である。これは 教育であり これを教育物語にして表わすことができる。もちろん やはり生活であって それに対する一つの観点と実践としてではあるが。
ただ また だからといって 反対に すでに革命方式だとか個人主義という進行形式だとか あるいは民主主義という発進方式などなど こういった方面の事実問題を 類型的に整理して学べばよいということにもならない。交通という基底の事実問題をまなんだなら その学ぶ過程において すでに 政治的な事実問題の方面にも 多かれ少なかれ  何らかのかたちで人は 足を踏み入れている。つまる はじめの教育物語を活かすわけでもある。だからまた これは 自己教育であるとか 個別意志こそが問題であるとも 言われうる。おそらく 社会人たる同感人が 人間の教育とともに学び 実践するのは ただ このことだけだと考えられる。もちろん そう言えるのは 当然でもある。話を政治(共同自治)の分野に限ってだが その全体をとらえて これを学び そこから実践するというのであるから それだけだというのは 当然である。当然なことをわざわざ言い出すそのわけは しかしながら ルウソもマルクスも 互いに そしてさらにフランス革命家やマルクス主義者やと 対話し 相互対立的な関係過程のなかで 交通しえちくというただそれだけのことだと あらためて言いたいためである。
そして これは どちらかというと 出発点の事実問題である。また とくに教育として話題(実践の主題)にとりあげるところの事柄は この出発点の生活態度を基調としたものであってよいと考えられる。といっても 結局 そのことは同時に――何度も反芻した言い方がゆるされるならば―― 広く経験現実としての事実問題を 含んでいる。そして 含んでいるのであるが――つまり
 教育というときにさえ つねに 全体事実〔の特に進行のほうをも〕を 含んでいるのであるが―― しかしながら たかもこの進行経験そのものから出発し しかもそれを一つひとつの段階として目的地点ともしているなら そこでは もう教育を必要としてないいであろう。事実の認識・そのような知識の獲得は なされているであろうが 認識の出発点で同感しあうのではないから 交通する同感人であることを学び実践する教育は要らないと 宣言したことになる。あるいは結局 さいしょの約束に確かに立っていて 立ったからこそ もうこの交通事実たる出発点のことは くどくどと言わなくてよいとしたことにほかならない。
ここには ルウソの教育があると考えられる。この教育論は たしかにその学びの過程そのものにおいて たとえ経済人の方面では ことがらを明確に示さなかったとしても 政治の方面では すでに実践していた。すなわち 君主政だろうが民主政だろうが その統治行為のなかで はじめに約束した交通事実同感実践としてである。これが 社会人の実践であり しかも教育である。と思う。いわゆる《実践家》が フランス革命を起こし あるいは一般に民主制を実現してこそ 人びとは 同感交通でき 教育をみのりあらしめるということにはならない。
いまではおおむね民主主義の世の中になったから おまえはそういうことを言うのだろうとするかも知れない。わたしはルウソの時代に生きていなかったから そうにちがいはないが その時代にいたとして かれルウソの考え方を 上のように解する。そうして 出発点からの進行過程は つまりその意味での事実問題は 予定していたとおりに行くとは限らないので さまざまであったし 今後もそうであろう。しかし 仮りに世の中が民主主義になったとしたなら それはルウソひとりの功績ではむろんないが ある意味でルウソの予定していたように なったのである。そういうかたちでの 出発点としての事実問題。すなわち 最初の約束。要するに こう論じてきたあとでは 単なる社会生活上の交通事実。この点を教育物語に説くルウソは まだ 学ばれてもよいか またはすでにそれの新しい展開をおこなっていくことができる。
自然人という原点に対して それからみちびかれる出発点の同感人たる社会人は この交通という平板でのっぺらぼうに見えるような事実として 教育の主題になってよいし 時代の進展とともに もはや約束ということばをも使わずに 平板な〔でもよいような〕交通事実としてこそ 学ばれてもよい。そして この教育じたいが 社会人としての実践であるのだし スミスが さらに経済人を説いていったとするとき それは このルウソと同じ方向・同じ形式――というよりも そのときも まだ 出発点の同一 ――においてであったと考えられるしするから しばしばこのことに疑義が生じるとするなら いまはっきりさせることができる。経済人としての生活態度は その説明としてならなお一層 ひじょうに平板なものである。
経済人の方面も 政治の方面も そしてそれらの教育の方面も これまででは やはり事実問題として 国家を何らかのかたちで経由して 実践されてきたし それらが実現された部面もあるのだと考えられる。革命というばあいでも しばしば この国家を 多かれ少なかれ一つのよりどころとしていたと考えられる。こう言っても 現代・現在においてやはりルウソやスミスらと同じく 国家を おおきな事実問題のなかにそれとして捉えおさめて わたしたちも 実践をすすめていくわけだが 現代では ルウソ スミスの 自然人原点=同感人出発点を より一層 有効に ということは その思想がより一層 経験的にも 普及した社会事実のもとで 実践していくことができる。こういう段階での事実問題としては なおさら 社会契約とか一般意志とかの 国家的な社会のまとまりにかかわる約束の考え方は 必ずしも 前面に・あるいは全面に 出さなくとも よいようになった。教育という主題のなかの用語としても あまり必要ではないようになった。
これをいま問題にすることは 相対的な発進・進行の過程のことだから 主観が入るわけであるが それとして言うとすれば 国家または国法が 出発点の交通を 実現させるという方向と形式とから そうではなく もとのまたち すなわち 社会人の平板な同感実践の交通事実のうえに 国家なら国家という社会形態的な秩序もきづかれていくのだという形式と方向。ルウソの政治的にも スミスの経済〔=政治〕的にも 新しい社会人が 新しい社会人でありうるという一層の実現の段階。
これでは ただ 手放しで語っているだけだとしても 出発点は 案外そのように のっぺらぼうのものであるのかも知れないのである。出発点からの発進形式および進行方向の具体的な手順を 明らかにしないというずるさは それとして必要であるかも知れないのだし 出発点=最初の約束を地固めするような社会契約の導入は 物語のなかのたとえばの話であって じっさいには必要ないと考える。具体的な手順は 明確に あるいは決定的に 持ってはいないから ずるいと言われても困る。わたしたちは おおまかの形式と方向とを手放しで語り 具体的な手順については協議しつつ すすむはずである。これを基本とする。もちろん 《ルウソまたは教育について》が主題であったから この結びは おまけである。