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もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128
第十四章 新しい社会人エミルとソフィ
ルウソの《自然人原点》(§1−§6) スミスの《同感人出発点》(§7・§8)――ただし この生活態度のさらに具体的な出発進行の場であり行為である《経済人》については ほとんど何も触れていない(§10)―― したがってこのような生活態度をもつ人間は その《自然人=同感人》を 一例として ヴァレリの《我れ》がになうと考えてみた(§9)。このとき 教育は 生活態度を問題として一つに 個人を個人として知る《文学=交通》という主題となって 展開されるであろう(§10−§13)。そして 《ジュリまたは新エロイーズ》の中のサン-プルー あるいは 〔ほんものの〕エロイーズをとり上げた(§11−§13)。《自然人原点》のもつなぞにかかわるような議論は わたしはアウグスティヌスにたてこもった(§12・§13)。ルウソの女性論への批判(§13)も アウグスティヌス(§12・§13)の請け売りである。ほどであるとおもう。
ともかくこうして 新しい舞台に立って 新しい社会人エミルとソフィとの同感実践(人間の自己教育)をあらためて 考えていきたい。
もしサン-プルーとジュリとが結ばれていたとしたら すなわち この両者では男のほうに味方して ジュリがかれにふさわしい伴侶となる存在であったとしたなら――なぜかというと わたしが考えるに ルウソは明らかに 次の一組の男女とは別の事例を この《ジュリまたは新しいエロイーズ》という作品にえがこうとしたと思われるからだが―― じっさいそれは エミルとソフィの場合にほかならない。サン-プルーとエミルとは 互いに遠くないと。
《新エロイーズ》では ジュリとそしてドゥ・ヴォルマールという男性との結婚生活そしてその家庭をめぐって サン-プルーや従妹クレールらが 言ってみれば配置され そういった意味での共同生活の場が展開することになるのだが それは ちょうど 《エミルまたは教育について》の最終〈第五編〉の終わりのほうで 《統治》の問題・法律にもとづく社会秩序の問題が語られているというその内容と 呼応しているように思われるのである。つまり 同感実践の相対的であることの問題 法律や統治にはいろんな可能性があって 可変的であることの問題として ジュリたちの共同生活の位置関係また役割が――もちろん その社会的な共同性の次元や規模がちがうにしても―― 語られたことになるではないかと。
わたしたちの志向する同感実践の場・そこでの出発進行 このことにルウソも 無関心でいるわけではない。一つに こう言う。
さて ほかの存在との物理的な関連において ほかの人間との道徳的な関連において 自分を考察したのちに かれに残されていることは 同じ市民たちとの社会的な関連において自分を考察することだ。そのためにはかれはなず統治体〔政府〕一般の本質 さまざまの統治形態を研究し さらにかれが生まれた国の統治体を研究して この統治体のもとに生活することが自分にとって適当がどうかを知らなければならない。
(エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) pp.221−222)
この点については 結局この《エミル》では 抜粋の議論が添えられており――ただし 抜粋であっても それがわざわざこの《教育論》の中におさめられていることは それじたいとして あとで 考察しなければならないことだが―― 書きのこされているものとしては もちろんその一応の本文である《社会契約論 (岩波文庫)》を参照してみなければならず ルウソの同感実践の方向は 一つに これである。それは こんどは 基本的には自然人確立の往きの実践を中軸としているとすでに捉えた観点のものにだが あらためて取り上げてみなければならない。
もう一つは こうである。すなわち エミルとソフィ夫婦の 次のように語られる同感実践である。
それにしても わたし(エミルの教師≒ルウソ)は 大都会に行って暮らすことはすすめない。はんたいに よい人間がほかの人間に実例〔つまり 同感実践のである〕を見せてやらなければならないことの一つは 田園の質朴な生活 人間の最初の生活 いちばん平和で自然な生活 腐った心をもたない者にとってはこのうえなく快い生活だ。・・・生気がなくなっているところのふたたび農耕と人類の最初の状態にたいする愛とをもたらすことができる人は〔さらに〕有益なことをしているのだ。世間を離れ 簡素な生活を送りながら エミールとソフィは 周囲の人々に多くの恩恵を施すことだろう 田園に活気をあたえ めぐまれない農夫の消え去った熱意をよみがえらせることだろう そう考えてわたしは感動する。人口はふえ 土地は豊饒になり 大地は新たな装いをつけ・・・
(エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) pp.259−260)
したがって これら二つの方向ないし形式は たがいに つながったものであり わたしたちが基本的にはまだ《往き》の実践として語られていると見てきたものである。二つ目の形式は ともかく あくまで 《社会的な関連》においても 《人間》として 互いに自己教育して 生きてゆくというものである。一つ目の 《統治》にかんする考え方 これは 同感実践の方向ないし視野を求めるものだが それは 上の《人間》が 自然人の基本形式にのっとって 社会的な同感実践に出発するときの考え方として 《社会契約》をもったというものである。わたしたちは とりあえず 自然人原点からの出発点として 互いに同感人であるという内容(人びとの意志行為としての交通)のことだと 単純に 考えている。
結局 還りの実践として あらためてここに問題となるのは 一つ目の《人間》――つまり《お手本になる》といった考え方である―ーのほうを わたしたちは 《我れ》の文学(=生活)上の交通といった視点のもとに受け取るならば 二つ目のものとして 《統治とか社会秩序》を考慮し たとえば《社会契約》といった考え方をルウソが持ち出してくるその一点にある。以下の諸章で おおむね これが 焦点である。
まず 《エミル》の作品にあらためて――といっても まだ触れていなかったから―― 目を向けよう。
社会契約が守られたことはないとしても 一般意志がそうすべきだったように 個別的な利害がその人を保護してきたとしたら 公共の暴力(=政府)が個人の暴力からかれを護ってきたとしたら かれが目のまえに見た悪行がよいことを好ませることになったとしたら わたしたちの制度そのものがそれに固有の不正をかれに認識させ憎悪させることになったとしたら それでもけっこうではないか。
(エミール〈下〉 (岩波文庫青 622-3 ) pp.257−258)
ということであるゆえに ふたたび 《ともかくあくまで〈人間〉としての実践》という形式に 次のように 帰着するかたちではある。
だから きみは 同国人のいるところへ行って暮らすがいい。気持ちよくつきあって(=交通して=同感実践として) かれらと友情をむすぶがいい。かれらに恩恵を施し かれらのお手本になるがいい。きみが示範例はわたしたちの書物のすべてよりmかれらのためになるだろうし きみがよいことをしているのを見ることは わたしたちのむなしいことばのすべてよりもかれらの心にふれるだろう。
(同上 p.259)
まとめてみると
- ちなみに 《お手本になる / 恩恵を施す》などという表現は 時代の影響を受けているかも知れぬ。
第一に 自然人確立の基本形式が またそれゆえに《往き》の実践が 基調であること 第二に 《還り》の同感実践が 視野におさめられていないのではないこと 第三に その社会的な関連の中でも 人間つまり自然人が どこまでも基調であって そういう《お手本になる》という形式が主張されている。第四に 社会的な関連の秩序を問題とするとき 経済活動としては いまの歴史の流れに沿って 勧められており 政治の活動としては まず《人間》どうしの社会契約を 考え方として 導入し(歴史経験的に 導入されていたものとして 導入し) 統治制度の点ではありうべき政府形態を視野におさめて 一般に法律には従い 結局 上の第三の実践形式で生きるというものとなっていると考えられる。
- まだ引用もとり上げることもしていない部分をも含めているが そう考えられる。
また しかし実は この第四点をこのように把握することは 《社会契約論》という一つのまとまった議論が 一個の抜粋として この《教育論》の中で取り上げられていることの一つの結果であるだろう。
おそらく こうであるとするなら わたしたちが エミルとソフィ夫婦にのぞむことは その著者であり教師であるルウソ本人をかたわらに追いやってでも すでに論じた来た経緯からいけば 第四点のもつ内容の領域で 第三点の《人間として》の実践形式をたしかに基本として 経済的にも政治的にも どのようにこの社会をさらになお 形成していくか ここにあると考えるのが 自然だと思われる。
つまりこれは 社会的な自然ではある。ルウソは それは無理だと考えていただろうか。実行可能だが 実現不可能――あるいは 何らかのかたちで実現したとしても 実りの少ないもの――だと 語ったことになっているだろうか。
わたしたちにまず言えることは この第四点のあつかう対象領域は たしかにルウソのいうように――だからかれを追いはらう謂われはなく―― 第一点から第三点までの実践を 大前提として その研究と実行とが 成り立つということであるだろう。これは すでに十分 論議して来た。なおかつ そしてそれなら わたしたちは なにを実現しようとするのか。
《気持ちよくちきあって 同国人と友情をむすぶがいい》 つまり 人間を個人として おのおの互いに 知る――交通しあう――ことである。これなら 仮りにルウソは実現不可能だといったとしても じっさい かれもエミルもソフィも 実行することである。どこまでいくか どういう同感実践の形式あるいは統治(共同自治)の形態であるかは 前もって決定的に固定させたものとして 明らかなわけではない。しかも 相対的なものとして 自由に 文学的にそのつど一回きりのこととして 特定はされるであろうと。このこともすでに論じてきた。
くどいように繰り返すなら つまり個人を個人として知り 気持ちよくつきあい 友情をむすぶことという一つの目標などが 一定したものである。経済活動は 生活基礎であって この一つの同感実践の目標実現への手段でもあり また その手段領域がすでに 目標への前進を実現していくところの社会行為である。ルウソの議論の一つの展開として 無難なところでは このように考え まず確認しあっておくことだできるであろう。
ルウソは 特に 《教育論》として 人間をかたちづくるために 一たん 歴史の 社会関連的な面での流れを たち切ったかのごとくである。これは そういう表現形式であり 他面では その表現形式にも 主張の方向ないしすでに実践の形式が あらわされているかのごとくである。これを もう一歩 進めることも可能ではないか。
政治もそうだが とくに経済基礎が問題であるなら スミスおよびかれ以降の経済学というわれわれにとっての補助道具が 必要で有益なものになると考えられるが しかしそれは やはりこのルウソに全面的に取って代わる実践論ではないだろう。
そうすると この限りで――ルウソから一歩すすめるべきだと言いつつ―― まだルウソにとどまり たしかにわたしたちは 次に《社会契約論》を吟味していくことができる。なぜならというか そのことの意味は ルウソが 経済学のほとんど欠如によって たとえばスミスに助けを借りなければならないとしても まだ――まだ――結局 《人間の教育》という主張にどこまでもとどまっており むしろ この主題のもとに 社会契約論を展開したと あらかじめ見る観点からするなら あくまで人間の――それもまったく一人ひとり個人の――社会契約あるいは統治あるいは社会秩序行為そのものを いま 問題にしているからである。つまりその意味で一般化して エミルとソフィとの新しい社会人の実践。一歩するめるとも言ってきたが これが 誤読であるとするなら そういう読み替えでもあるが それであっても この点では ルウソにとどまることができる。スミスの国富論が このルウソに取って代わるとは思われないし 道徳感情論は 社会契約論ときそいあうものであるし そして これらどちらも いまは 《エミルまたは教育論》の一視点・一主題のもとに とらえることだできるのではないだろうか。
いいかえると あたりまえのごとく 歴史がつづくのである。これは 一歩すすめなくとも ルウソのものであるはずだ。すすめる一歩というのは 実際の歴史 つまりルウソという一個人の実践したその行為内容の継承されていく歴史を 踏まえることが 後からは 可能だという一点である。だが ここでの焦点は 社会契約論が 人間の教育という主題のもとに説かれている見るところに 力点をおいていこうというものである。この視点を もし断定的にいおうとおもえば 社会契約論は すでになにか《政治学》となった別個の議論なのではなく 自己教育の実践のなかの 政治面での同感過程を説こうとしたものなのだとして。