caguirofie

哲学いろいろ

#11

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第十一章 《ジュリ または新エロイーズ》

《エミル または教育について》が 実際に生徒エミルを登場させているからといって 必ずしも実地の教育実践ではない(――だからといってまた それが 経験的なものでないのでもなかった――)ゆえに こんどの《ジュリ または新しいエロイーズJulie ou La Nouvelle Héloïse》(新エロイーズ 全4冊 (岩波文庫))は その点を補おうとしたものかというと 執筆の前後関係を無視して わたしはそうだと思うのであるが その主人公のジュリ(女性)およびサン-プルー(男性) あるいはジュリの従妹のクレールらその他の登場人物が なにか模範になっているかというと 勿論 それは そうではない。この あとのほうの意味では 《エミル》のエミル個人の成長記録のほうが むしろ小説的で 芸術作品となっているかのごとくである。すなわち――しかも――いうなれば《エミルまたは哲学的でも狂信的でもないあたらしい近代人》という標題をつけてもおかしくなく 《ジュリ》のほうは これがむしろ 《ジュリ または かのじょらの人間関係をめぐっての・それをとおしての教育について》として 言外に 議論しているかっこうではないかと思われる。
つまり《エミル》ももちろん教育論であるが 文学的だというわけである。
いや やはり そうだけではない。
話をややこしくしてしまうが 特定の人間たちの特定の場と時とにおける交通関係といういみでの文学性は 《ジュリ》にあり そういう物語をとおして この作品は さらには言外に 一つの教育論を語ろうとしている。教育論を正面から語る《エミル》は しかしながら小説仕立てで 文学論的である。
そして さらにそして やはり《エミル》では 地の文・議論そのものの部分が 書物のたしかに中軸とはなっており それは 自然人確立という抽象的にして経験的な基本形式の実践(そういう思想の視点の提示)を 内容とすると考えられる。《ジュリ》では 架空の人物とはいえ 個々の人間が 焦点である。文学であり 文学理論ではなく しかも 補助道具となるべき教育哲学を 直接に 供給しようとしたものではなく すでに 登場する人物一人ひとりの自己教育の過程つまり生活日常の歴史に 同感実践が むろん虚構のかたちで 集中している。
《エミル》は ことばとして 《改善する améliorer 〔→Emileという名〕》の意味につながったものだとすれば 勤勉――自然人にのっとった勤勉――のことを 同感実践の日常的な一つの帰結として 語ろうとしたのかも知れないし 《ジュリ Julie 》は もし一説として《輝くもの》が語源だとすれば 《エロイーズの近代版》というごとく 《勤勉なエミル》という人間形式のそういう具体的な一個人(ジュリは女性だが)として えがいてみたかったのかも知れないのである。わたしは のちに 相手の男のほう・つまりサン-プルーのほうが 性のちがいをこえて 中世の一女性エロイーズに親近性をもつ人物として捉えようとしているのだが。
《アルプスのふもとの小さな村に住む二人の恋人のあいだの手紙》が 副題であって そのもう一人の主人公サン-プルー(仮名だが)は ことばの問題だけでいえば このジュリに対して 《勇気ある( preux )男》として えがかれる手はずであったとも。ちなみに クレールという女性は 両人のあいだにあって 事を《明らか( claire )に》見る人であったのかも。
十二世紀前半の人 ピエール・アベラールは まず事の起こりとして 《エロイーズという乙女・・・を愛によって自分に結びつけようと思った》(アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1) 第一書簡)。その結果を エロイーズが ずっとのちにアベラールにあてて書いた手紙の文句からひろうとすれば――

運命(《自然の歩み》そのものではないはずだ)は・・・私たちにおける公正のあらゆる規準を逆転させてしまった。と申しますのは 私たちが不安な愛の喜びにひたっています間は また――あまり上品ではないけれどもよくあてはまる言葉を用いますと――情事に耽っています間は 峻厳な神は私たちを大目に見ておられたのです。それなのに私たちが 許されない愛を許された愛に改め 香ばしくない情事を正しい結婚によって覆いつつもうとした時に 主の怒りの御手は私たちの上に重くのしかかりました。清くなき関係を長い間許しておられた神が 浄化された愛の褥をお許しにはならなかったのです。
アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1) 第四書簡――エロイーズからアベラールへ――)

《ジュリ》を《新しいエロイーズ》としてえがくルウソにあっては しかしながらかのじょとその愛する男サン‐プルーとのあいだでは なりそめもその展開も――とうぜんのごとくにか―― ずいぶん違ったものになっている。その展開過程には 考えさせられるものがあるが――つまり 自己教育の判断材料を 個人個人の生活(一生)のあらましとして 提供しようとうったえるものがあるが―― ここでは 必ずしも筋を追わない。読みおわったあと 筋を追いこの筋にそって ああこうだと 議論することはできるし それなりに なされもすれば 有益でもあろうが ここでは その点に深入りしたくない。その時点時点で 一編の手紙をよむだけでも 個人を個人として 知りえないわけではない。または 一つの議論――同感実践――をおこなえないのではないと考えるから。
そこで 次のような内容の手紙を書く男と いったいどんな人間なのだろうか。そのかれに対する交通関係のなかで 男にそういう手紙を書かせる女とは いったいどんな人間なのだろうか。引用するものは 第一部・第一の手紙であるから 読者は――《序言》を読んだあとでは―― まっさきに ほとんど予備知識もなしに 読みはじめる文章である。全部をかかげる。

第一の手紙 ジュリへ
 
マドムワゼル あなたから逃げなければなりません。冗談ではなく もう逃げていてもよかったのです。出会うべきではなかった。そして今となっては? どうすればいいのです? あなたは わたしに友だちだといった。わたしの迷惑を考えてください。相談しなければならないのです。
わたしがあなたの家に出入りするようになったのは あなたの母上からお招きの話があったからにすぎないことは あなたも知っておられる。わたしの積んだ勉強が 結構よいとみとめられ かのじょは こういう教師もいないところでは それらも 愛する娘も教育に無益ではなかろうと考えられた。わたしにも自負があって 一輪の美しい花を美しいもので飾ることができるのならばと気負い立ち この仕事をお引き受けした――この危険であった・しかも危険を知らなかった仕事を。少なくとも危険を支払わせられることになったと あなたに告げようとしているのではありません。わたしは用心しています。あなたが聞いたりするにはふさわしからぬ話を始めたりして 身のほど知らずにはならないように。あなたの生まれ・あなたの魅力によりもさらにもっと人柄にいだくわたしの敬意を欠いたりして 身のほどをわきまえなくなることのないように。わたしが悩むなら その苦しみは自分で引き受けるというなぐさみを少なくとも 持っています。ですから あなたの幸福を犠牲にして得られる幸福をわたしは 望んでいません。
ただ わたしはあなたに毎日 会うのです。そのときには 悪意もなく何の気もなしにあなたは あなたには同情するすべのない もちろんあずかり知らない苦しみを 増し加えるのです。わたしは そんな事態のとき 希望の代わりに慎慮というものが命じる方針のあることを――たしかにそれは 真実な誠実であることとうまく結びあわせることができるのなら その方針をとるように努力します。けれども いま どうやってこの家を いやがられずに出ていけるのか その女主人である方は かのじょ自身がわたしに 近づきを申し出てくださったのだし じゅうぶん親切にあつかってくださるのだし かのじょにとってこの世でいちばん大事なものにわたしが少しでも役に立つと思っていてくださるのに。この計画で あなたの勉強がすすんだとき いまは知らせないでいるその御夫君にいつか そのことを見てもらって驚かそうと楽しみにしておられるこの心やさしい母君の期待を どうすればうまく裏切れるものか。失礼になっても いっさい何もつげずに 立ち去ればよいのか。わたしが退出したいというほんとうのところを かのじょにはっきりと説明すべきだろうか そうやって 生まれでも財産でもあなたをのぞむなど許されない男の打ち明け話を聞かされて そのことじたい 侮辱になりはしないかとも。
察していただけると思うのですが この困った状態から抜け出るための方法を一つしか考えつきません。わたしをそこに引き入れた手がそこからわたしを引き上げさせることです。わたしのあやまちがそうであったように あとの苦しみもわたしには あなたから来るようにしていただくことです。少なくとも お願いですからわたしのために わたしがあなたの前に現われることはならぬと言っていただきたいのです。この手紙をご両親にお見せして もうわたしを部屋に通してほしくないなど言って 自由にわたしを追い出してくれませんか。わたしはあなたに耐え忍ぶことはできても あなたをこちらから去ることはできません。
あなたがわたしを追い出すことになり わたしはあなたから逃げるなどと! どうしてそうなるのか? 人の秀でたところをわかって 人のうやまうべきところを愛することが いったいどうして犯罪になるのか。たしかに そうではないと思います。美しきジュリ あなたの美しさはわたしの目を眩ませ わたしの心を その美しさを引き立たせるもっと強い力なしでは 惑わせることは一度としてなかった。快活な感受性が変わらないやさしさをもったものから成るその交友の力。人のあらゆる悲しみに対しても手を差しのべるようなあわれみの。精神の正しさ そして 魂の清らかさからその清純を引きだしてくるえもいわれぬ味わいの。ひとことでいえば わたしがあなたに見とめている 感覚に意識される魅力――容姿のそれ以上の――です。あなたにはもっと美しいものを想像できると人がいうなら 用意します。ただ それいじょう愛されるもの それいじょう  まともな人間の心にふさわしいことは 無理でしょう。ジュリ あなたはそれを持っています。
ぼくは しばしば うぬぼれてみるのです 天が ぼくたちの趣味にも年齢にもと同じく いとしみの感情のあいだにも 隠れた一致を配合したと受けとめて。まだこんなに若いぼくたちの中の自然の性向を 何ものも変えていないのだ ぼくたちの傾向はみな 適合するようだと。世間のこり固まった偏見を持つことになる前に ぼくたちは 柔らかく固まった感じ方・見方を持っている というのも ぼくが ぼくたち二人の判断の感覚にみとめているその同じ調和を 二人の心の中に求めてみようとしたとて 行きすぎではないと思う。ときどきぼくたちは 眼があう。同時に 少しの間 息を殺している。人目を忍ぶような涙をいくつぶか・・・。ああ ジュリ もしこのような息の合ったことが 遠くかなたから来ているものだとしたら・・・もし天がわれわれに定めをおいたのだとしたら・・・人間のあらゆる力も・・・おっと 失礼! ぼくは 迷いこんでしまった。立てた誓いを単なる希望ととりちがえるところだった。わたしに燃える熱望の激しさは 可能性が自分に欠けているのを その対象のせいにしてしまう。
わたしは怖ろしいのかも 自分の心に用意されつつあり苦悩を想ってみて。わたしは自分の病いに気休めを求めようとはしない。そんなことは出来ても 知らないこととしたい。わたしの感情が純粋であるかどうか こうしてあなたにたずねるところのその種の恵みによって 決めてください。できることなら わたしを養いわたしを殺す毒の源を涸らしてください。癒えるか死ぬかどちらかでありたいので わたしは さも恋する男があなたの好意を哀願するように あなたに厳密であることをねがうのです。
これだけ言うのですから わたしも自分にかんして約束します あらゆる努力を惜しまないで わたしの理性を回復することを あるいは 魂の底へ そこで生まれたのでしょうから 心の動揺を沈めることを。ですから お願いです あの わたしには死をあたえるやさしい目をわたしから そらすように。あなたの顔立ち 手 腕 ブロンドの髪 しぐさ 様子を わたしのそれらから隠すように。軽率にも熱望するようなわたしの視線に出会ったなら 欺いてください。人を感動させずにはおかないあの心にしみいる声は 失わないで。わたしは大変なことをお願いしているようです。わたしの心が自分に戻れるように あなたは あなた自身ではない別の人になってください。
遠回しにではなく 申してよいでしょうか。夕べの祈りによく時間をつぶすときなど 遊びの中であなたは ほかの人びとの前に わたしには狂いそうになるほど わたしに対する親しげな関係をあらわす態度に出られます。わたしとの距離が ほかの人とのより大きいということが なくなるのです。昨夜は もう少しで 痛悔の念で申すのですが あなたは わたしに接吻をゆるしたところだった。わたしも幸いその成り行きにあくまで従おうということのないように大いに注意できた。そこで募る苦悩の思いのなかで そうするなら身の破滅だと知り 踏みとどまった。つまりこうです この口づけを少しでもわたしの心に従って味わうことになっていたら それはわたしの最期の息となっていたでしょう。かくてわたしはもっとも幸せな男として死んだというわけです。
後生です あの 不吉を招く危険な要素をもったルールの遊びはやめましょう。といっても 危険のないものは いちばん子どもっぽいものにいたるまで 一つとしてないのですが。そんなとき あなたの手に触れるといつもわたしは ふるえます かなしいかな あなたの手とはいつもぶつかるのです。わたしの手の上にあなたの手が置かれたかと思うと ぴくっとしてふるえるのです。遊びでわたしは熱をおびるのです。いやもう錯乱です。見えるものも見えなくなり 何もわからなくなる。この錯乱の瞬間に 何を言うべきか 何をすればよいのか どこへ隠れればよいのか どう自分に責任をもてばよいのか。
わたしたちの学習のとき 別の不都合が待ちうけています。母上やあなたの従妹がいないとき ちょっとわたしがあなたを見てみると あなたの態度はまるっきり変わっている。勉強にうちこんで 冷たく 凍ったようにしているので 尊敬の意とあなたの気をそこなうのではないかとの恐れから わたしは 精神の存在も判断能力も失ってしまうのです。わたしは その学課の単語を二こと三こと ふるえてどもりながら かろうじて口に出すことができる。あなたはどんなに鋭敏でも ほとんど聞き取れないはずです。――こうして あなたが示す不統一〔な二つの態度〕は 同時に われわれ二人にとって 迷惑となるのです。わたしを困らせ あなたはちっとも勉強にならない。どういうわけで こんなに理性的な人間が こんなに気持ちを転換させるのか 見当がつかないのです。あえてたずねたいのです あなたは人びとの前ではあんなにふざけていたかと思うと わたしたち二人きりのときには重々しい様子でいるのは どうしてか。考えてみたのですが これはまったく逆ではないか つまり まわりにいる人の数に応じてその態度をより落ちついたものとするのが ふつうではないかと。ところがそうではなく わたしはあなたを見ていると それはいつもわたしに同じ困惑をもたらすのですが 個人的な場合では堅苦しい礼儀にみちた調子を 人びとの間ではなれなれしい調子を、まとっています。もう少しその幅をちさくするようにやってみてください。そうすればわたしも それほどこんがらがることもなくなるはずです。 
もし この世に生まれてきた魂への自然のあわれみで あなたが やわがしめられるのなら たといそれが あなたにいくらかの敬意を保証してもらった不運な男の不安を招くことであったとしても そうしてあなたの物腰にほんのちょっと変更が起こったならば かれの境遇の激しさも和らぐでしょうし かれは 沈黙をも自分のわざわいをも よりたやすく守り持ちこたえていける。かれの慎しみも置かれた立ち場もあなたには何の関係もなく それを失う権利を使おうと思うのでしたら それはかれのぶつぶつこぼす声をきかずに 出来ることです。この男は 自分をあなたの目の前で不届きなものとする思慮のない熱狂によってではなく あなたの命令によって 死んだほうがましだと考えています。こういうわけで わたしの身の上にあなたがどんな定めをくだそうとも 少なくともわたしは向こう見ずな望みをいだいたからというので みずからを咎めるべきだとは思っておりません。そしてもしこの手紙をよんでくれたなら たとえ仮りにわたしは 拒否の返答を何一つこわがっていなければならないのではないとしても もう読んでくれたことは わたしがあえてお願いしたかったことのすべてです。
新エロイーズ 1 (岩波文庫 青 622-4) 1・1)

第十二章 サン‐プルー=新エロイーズ(?)

事の起こりを 互いの自覚的な意識の上にしるし始めた最初の手紙(前章に掲載)について 考える。
二人の若い男女のあいだには 身分の差がある。男はじゅうぶんこれに配慮して しかも それゆえにではなく――少なくとも 身分のちがいに打ちのめされてではなく――かつ たといこの事の発端をなす第一の手紙の中でかれが示す表面上の解決策は まだあやふやなものであったとしても 家庭教師という立ち場や あるいはひとりの人間・ひとりの男という存在やの観点から つまり日常生活のなかから かれなりに 同感実践をすすめていこうといている。おおかたの人びとに同感される方向と解決策を模索している。この点は 認められるのではないかと思う。
ということは これは 最大限に ほめたことになるが わたしとしては この点 自由に討議されるようになることを期待するだけである。サン‐プルーは 相当あるいは最大限に ここで がんばっている。これは 一部の抜き書きでは 埒が明かないと思ったで全文を引用した。

  • 一通の手紙だけだが その全部を読めば 話がわかるとも思われた。つまりそれだけの部分は議論に必要だろうと考えた。

相手の女性 ジュリはどうか。
残念ながら 先駆者として自らを人物像として後世に提供した昔のエロイーズが次のように言えたところを ジュリは言えなかった。

唯一つおっしゃって下さい もしお出来になりますならば。私が修道院に入ったのはただあなたのご命令に従ったのですが その後何故あなたはこんなにまで私をなおざりにし 私を忘れてしまわれたのですか。何故親しく訊ねて来て私を元気づけるなあり 遠くから手紙で慰めるなりして下さらないのですか。おっしゃって下さい もしお出来になりますならば。お出来にならなければ私が私の感ずるところを いいえ すべての人々が取沙汰しているところを申し上げましょう。あなたを私に結んだ友情ではなく色情であり 愛ではなくて激しい情欲です。ですから あなたの欲望が止んだ現在 その欲望の故にあなたのお示しになったあらゆる感情も 同時に消え去ってしまったのです。これは いとしい方よ 私だけの想像ではなくて すべての人々の想像なのです。私だけの特殊な考えではなくて みんなみんなそう思っているのです。ああせめて私にだけそう見えるのでしたら! またあなたの愛を弁護して 私の苦しみを少しでも和らげてくれる人があるのでしたら! またあなたの御態度を正当づけ 何とかして私の惨めさを取りつくろう理由を発見できるのでしたら!
アベラールとエロイーズ―愛と修道の手紙 (岩波文庫 赤 119-1) 第二書簡――エロイーズからアベラールへ――)

ジュリはサン-プルーに対して こういうふうには言えず エロイーズがさらに次のように言うとき 後半の部分の内容で 逆のことを考えていた。

これというのも 私は心身共にただあなただけのものであることを示そうとしたのでございます。私があなたに関していまだかつてあなた以外の何物をも求めなかったことは神様が知っていらっしゃいます。純粋にあなたをのみ求め あなたの物質的なものを求めはしなかったのです。結婚の誓約も 何の贈り物も 私は期待しませんでした。私の満足と意志とを満たそうとはせずに ひたすら 〔あなた自身も御存知のように〕あなたの御満足と御意志とをのみ満たそうと努めました。そして妻という名称はより神聖に より健全に聞えるかも知れませんが 私にとっては 常に愛人という名前の方がもっと甘美だったのです。
(同上)

わたしは この後半の文章の ジュリに出来なかったことの点で エロイーズをほめたたえるのではない。エロイーズも 《私はあなたのお蔭ですべての女子よりはるかに高い処(つまりこれは 身分や名誉の問題として言っているのである)に昇らせていただきましたが それだけまたあなたと私とに関する事件によって 一層ひどい転落を味わねばなりませんでした》(第四書簡)というとおりである。
ジュリにかんしては サン-プルーの第一の手紙に何も答えなかったこと――それは サン-プルーが ふたたびペンをとって 第ニの手紙をつづけて書かなければならなかったことである――が すべてであると思う。
日常生活の同感実践では 事は 社会人・慣習・社会制度のことがらであるから 特に 相対的で可変的なものである。だから 自由に判断し選択できるのであるが それは まちがいをおかしたなら このまちがいをも まずは引き受けていくということである。まちがいをおかせということではないが それをおかさないことを 社会制度上の道徳的な規範――あるいは 経済人の信用関係の規範的な遵守――によって 遂行するのではないということである。だから 同感実践は とにかく 自分の意志(ないし具体的に個々の意思)を 交通関係が始まったのなら 表明しなければならないということである。沈黙をまもることが 時に 意思の表明になることもあると考えなければならないとしてもである。
そうしてわたしたちは 個人として個人を それぞれ互いに知る。これがなければ 事は何も始まらない。
《ジュリまたは新エロイーズ》の表題の下にルウソがかかげた標語は ペトラルカの詩のつぎの一節なのである。

世界はかのじょを知らずに所有した
われ われはかのじょを知った
ここにとどまるのは かのじょを嘆くためである
    ペトラルカ

もちろん サン-プルーは 同感実践の準備の過程にあるジュリのために――少なくとも 準備が始められている限りで―― ずっと おつきあいしたのである。

だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなものを愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(相対的な同感実践として)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。
それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(《集会の書=ベン・シラの知恵》19:1)と聖書に記されているようになるのである。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 12・10)

《あたらしいエロイーズ》とは 性の差をこえて サン-プルーのことではないのか。

だから 私たちが私たちの精神の霊において

  • ということは ここで 旧い表現が出てくるが 要するに《自然人》のことである。

新たにされ 創造主の似像にしたがって神の知識において新しくされる新しき人であるなら 疑いなく 人間は身体によってではなく心の或る部分によってでもなく そこに神の知識が存在し得る〔そしてそれによって 自由に・非固定的に 同感実践しうる〕理性的な精神によって 創造主の似像にしたがって造られたのである。

  • この《理性的な精神》つまり《自然人》を それはルウソにおいても《自己到来》のことであったのだから正当にも ヴァレリは《我れ》と言った。

この更新によって――とアウグスティヌスはつづける―― 私たちはキリストのバプテスマをとおして神の子らとされ 新しき人を着つつ たしかにキリストを信仰をとおして着るのである。だから 私たちと共に恵みの共同相続人であるとき 誰が女をこの共同から遠ざけるであろうか。・・・
それでは信仰篤き(=自然法主体)――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない―ーによって 言い換えると その精神の霊において人間が造られたのである。
それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性のあの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神がその部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は留まらない。この精神は男のみならず女も持つことは明らかである。

だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。ところが 男と女の身体によって一つの精神の職務の配分が象徴されるのである。したがって・・・
アウグスティヌス三位一体論 12・7−8)

わたしには表現が及ばないゆえ この引用文にゆだねさせてもらう。