caguirofie

哲学いろいろ

#23

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十五章 表現行為とその出発点

表現――交通出発――の自由は 論理的・理念的にいえば それが 原点自然人のものであるからである。実際にいえば 抽象的なそれぞれの民族言語の表現類型によるそれとしての井蛙y区と 出発点の社会人(=交通人)における主観真実としての自由。そして主観真実は 表現行為(交通)や表現の類型(交通事実の既存の形態)に 先行すると思われる。しかも 社会人はすでに出発しており 主観真実は動態であって 進行している交通やその事実関連あるいはやはり交通行為事実の積み重ねとして或る種の法則的となった表現類型の なかで 生きており これに制約されつつ従い 従うことをとおして これらの客体事実に先行し また これを超えることができるものと思われる。
前章の《表現の自由》という表題は 表現類型による制約と表現出発点(理念的にいえば 原点)における自由ということである。両者のうち 先行するものと思われるほうをとって 言った。
人間はすでに社会の中に生まれてくるのであるから このとき この社会におけることばによる表現の類型であるとか あるいは広く交通行為の規則(慣習から法律まで)とかは そのように時間的には 人間に先行するのである。しかしながらわれわれは 行為と存在とを分けた。行為が行為するのではなく まして行為が主体存在として生まれてくるなどということは聞かないから 存在たるわたしが行為するのであると言わざるをえない。そうして 社会一般の行為事実の関連が しかもわたしたる個人の存在の意志とは 少なくとも直接の因果関係を持たずに あたかも独立した法則をもってのように動いていること さらには ここにおいて一個の社会人たるわたしは 社会行為一般によって制約されていること これらのことと両立するかたちで しかも 主体存在たるわたしは その行為や事実関連に 原理的に=存在のありかたとして 先行するといえるし そう言おうとといった。
ルウソは 《人間不平等起原論 (中公文庫)(人間のあいだの不平等の起源および基礎について Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes )》のなかで 一つには 人間――つまりこの場合 自然人――が原初の状態では 一人ひとり孤立して生活しており 社会をかたちづくってはいなかったであろうという仮説的な理論で この社会行為に対する人間存在の先行性のことを 言おうとしている。社会性(社会人)とか社交性(交通人)とか あるいはこれらにかんする人間のいろんな能力 これらのことは しかしながら 自然人(つまりこの場合は自然状態にある人間)の内に潜在していたものであるという言い方で 議論している。

未開人が潜在的にもっていた能力は それを働かす機会がやってきて はじめて発達したにちがいないのだが それは非常に賢明な神の摂理によるものであって しかもそれは そういった能力が〔適当な〕時期より前にあり余って 負担となったり 遅れていざという時に役に立たなくなったり しないためになのである。彼はただ本能のなかだけに 自然状態で生まれるために必要なものをすべてもっていた。そしてみがかれた理性のなかには 社会で生きるために必要なものんだけをもっているのである。
ISBN:41220006969:title )

人間が原初の自然状態で 一人ひとり孤立して生活していたかどうか――孤立生活をいうときには ルウソにしたがえば 交通・また欲に生殖のそれも 偶然によるものであって 交通のおこなわれたあとはまた 離ればなれになったということである―― いづれにしても こういった一定の仮説的な理論もなしに わたしは 《存在が行為に――存在のありかたとして――先行する》と述べてしまった。そして いくつかありうる仮説的な理論の検討は おこなわなければならなくなるかも知れないが いまは それもやらないし ただ 述べてしまったというかたちで 進もうということになるかも知れない。
法律など交通規則の問題 また文法など表現類型の問題 これについても その発生(起源)や成り立ち(基礎)をルウソは この論文で明らかにしようとしている。詳しく点検する場ではないが たとえば社会人・交通人の発生の基軸となる事柄をルウソは 次のような出来事を例に出して 論じている。

ある土地に囲いをして《これはおれのものだ》と言うことを思いつき 人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が 政治社会( la société civile )の真の創立者であった。
(同上)

ろく引き合いに出される文章であるが これは 自然状態における孤立生活の仮説の上に立った一つの理論である。要は 《これはおれのものだ》と言うなら このことを通用させるためには 確かに 人びとの交通のしかるべき規則・約束事が必要だったわけである。あるいは そう言い出すための・それを約束事とするための 存在(人間)およびその交通をとおしての関係情況が必要だったわけである。交通(まじわり)はすでにその前の段階から――ルウソに従えば 偶然によるものが 必然・定期・そして日常のものへと それはそれは長い時間をかけて――始まっていたわけで しかもただしこの種の一つの出来事が《引用文に示された出来事が) 画期的なものであったろうというものである。
これは 私的なあるいは個人的な所有という行為事実に注目して言っているものだが 一般にも 主体存在が主体存在であることの 自己におけると同時に仲間内での確認 この時点で 自然人は それがもともと潜在的に宿していた社会人出発点を 経験させていくことになったということらしい。所有行為に着目する場合は 特には そういう行為にかんする主体の権利(また義務)という問題(つまりは交通規則)が 一つの中心的な主題となっているはずである。《政治社会》という観点をおしだすときには 主権〔者〕の問題にもなっていく。つまりは 自然人の自由の原点が 平等とか不平等――すなわち 一定の交通規則の取り決めにあたっての またはこの規則のかかわった交通進行の過程での――に じゅうぶん つながっていくという見方である。
ちなみに 《 Ceci est à moi.〔これはおれのものだ)》を 《 Ceci, c'est à moi. 》と表現しなおすなら 

第一主題 第二主題 論述
これ‐は( Ceci ) これ‐が( c' ) おれのものだ( est à moi )

のα類型となりうる。《時は金なり》を 英語の《 Time is money. 》(主語x述語部のβ類型)といくぶん違って 《Le temps, c'est de l'argent.》といえるとき

第一主題 第二主題 論述
時‐は( Le temps ) これ‐が( c' ) 金である( est de l'argent. )

という形式で表現する類いである。つまり英文は論理直線的な文法によっており たとえば《時( Time )である( is )。金( money )―は》といった意味の構成ではないことを すでに約束事にしている。
つまりは ここで当然 交通を進行させその規則を取り決めあっていくことは ことばによる表現を生じさせ発達させてきており さらには表現類型の問題にも及ぶ。
ここでは このことばの問題を焦点としたいということであった。
ルウソの議論は この書物で 言語の起源の問題にも及んでいるのであるが 字づらの上では――その仮説的な理論じたいとしては―― いまの《これはおれのものだ》と或る男が言い出すといったことなど わたしとしては あまりかみあうものがなかった。かれは 特に言語をもつ以前の状態からそれをもって表現しあい交通する段階への移行の点で もしくはそのような移行の以前と以後との比較の点で 前者の点では 自然人のなかに宿されていた社会人の出発としては 何らかの人びとの集まりとして必然事ではあるが しかもきわめて何か突然変異のような偶然の作用がそこにかんでいなければ 人びとは共通の意味を持たせあう言語表現を持つには至らなかったであろうと見ているし 後者の点では 前者において突然変異のような飛躍を言うからには そこに人間の推理や考察にとっては明らかにすることのできない断絶が横たわることになったと見ている。
これらは 交通が 自然状態では 欠如していた・ないし偶然によるものだけであった――したがってそこでは 平等・不平等を 事実として・または考え方として 持たなかった――とすることから 帰結されることのようである。
そしてこれらの字づらの議論の背後の内容な――作業仮説の理論をはたらかせて 見うるその内容は――結局 もし我田引水するなら 自然人原点が・あるいは社会人出発点が 交通行為に先行するのだと言おうとするところにあるのではないかと考えられる。なぜなら その自然状態からの時の経過ののち 一定の段階で 《ある土地に囲いをして 〈これはおれのものだ〉と言うことを思いつき 人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだし 政治社会の真の創立者であったという最初の人間》について言っても かれの存在じたいと かれのこういった行為とを 区別してとらえることができるのだからである。
それは やはり我田引水するに じっさい ルウソの議論の一つのねらいであったと思われるし そのとき この例に出された出来事についていえば そのようにすでに何らかの言語表現をおこなうようになっていた一定の段階のもとで 自然人という言語以前の存在のありかたは 断絶・遊離しておらず じゅうぶん これらの社会行為の自由な主体であったと思われるから。
つまり言おうとしていることは 《政治社会の創立者であった最初の人間》のこういう画期的な表現行為が そのまま――人間存在じたいの時期というか本質(存在)というかを画して ついには――別種の人間として生まれたわけではないから。人間存在の進化がそこにあって その意味で本質をも或る種の仕方で変えたとしても その或る種の仕方でも変化というのは ルウソにしたがっても 自然人が潜在的な能力を発揮し社会人として交通すはじめたことだと考えられ そしてそれは 《最初の人間が政治社会を創立する》その出来事に 事実としても・考え方としても 先行していたはずだから。
なぜなら ややこしいのだが 先ほどの《断絶》は 人間が 自然状態を去って社会状態に移行したその過程で どういう経路を 考え方や人間能力の点で とったものなのか これが明らかにできないという意味での断絶(突然変異のようなもの)であって 人間じたいが変わったとは ルウソは見ていないようである。存在全体の突然変異ではなく 考え方(イデア)の突然変異であるらしい。人間がことばを用い出し――まだそのときには必ずしも人びとのあいだで 一語一語の意味が 特定のものとして取り決めあわれておらず ほとんど固有名詞ばかりであって―― 交通をおこない始めて社会状態に入っていったとき その言語表現の規則一般やまた交通規則を取り決めあう余地を 人びとは十分に残して持っていた。この余地は 自然陣のもの その自由だと考えられる。
表現にかんしても その文法あるいは非文法(文法自由)を取り決めあうのは 自然人と断絶していない社会人のおこなうことである。《これはおれのものだ》と言い出したのは 表現にかんする何らかの取り決めがおこなわれていったあとのことである。
この点 ルウソも承知していて 触れており しかも今からは考え及ばない革命的なできごとが その取り決めということにかんして 介在したであろうという言い方をする。そうだとすれば 同じくルウソもいうように 自然人の内における社会人の潜在性と見なければならず しかもたとえ自然状態にあって人は 孤立して生活していたとしても その孤立をやめてたとえば家族におけるものから始めて常態となるような交通をおこなうようになったとき そのときにも 自然人は持続している。原初的な自然状態における自然人(人間)と 社会常置ぁにおける自然人とであると思われるのである。
誰かが《これはおれのものだ》ということを思いつき 言って これが信じられていったならば その社会状態またそこにおける人間は たしかにずいぶん 変わったと考えられるのだが この《政治社会を創立する最初の人間》の発言を どう判断するか または ただそれを信じるにしても 信じるという判断(超判断)を自覚すること これらの人間の行為は はじめの自然人(=社会人)のものである。その意味で人間は変わっていない。
ルウソの作業仮説は 社会人のこの判断とそれにもとづく取り決めにあたって 交通一般はこのとき《その表現内容を信ずる人びとがいたという単純なもの》であって これが政治社会の到来を告げたということである。字づらは 明らかにそうである。だとすれば――だとしても―― ここでも 表現行為やその主張内容を信ずる行為 これらの行為が 存在にとって代わったわけではないという問題。きわめて理屈っぽく またそうならざるをえないと思われるのだが 表現ないし交通の行為が 新しく《人間》となったとは 言えない。
《これはおれのものだ》を 信ずるにせよ 考えて同意するにせよ あるいは やむを得ず同意したにせよ 取り決めあわれて 一つの交通規則(ここでは所有権の問題)となったのだとするなら しかも それだけのことである。
それだけのことだという点では ことばによる表現の問題からこれを捉えるのが 手っ取り早いようである。また 自然陣は持続している その原点 原点 原点といっていくよりは 出発点 出発点 出発点といっていくほうが 自然人原点に迫っていくことができるように思われる。つまり 所有権が取り決めあわれ 政治社会が始まったということは tだそれだけのことであるという点を 上に述べてきたように 自然人原点にさかのぼらせて見ていくよりは すでにこの社会人出発点で そういった交通規則(あるいは表現類型)にそれとして制約されていることを受け容れながら 論じたほうが かしこいように思われる。自然人原点の理論は ほとんどつねに 一つひとつ単なる作業仮説に終わるかとも考えられる。また表現形式にかんしてのわたしたちのω類型ということも その意味であまり持ち出さないがよいかも知れない。つまり だから 行為における制約(《それだけのこと》としての制約)と出発点の自由。
まわりくどい議論になったが 《人間不平等起原論 (中公文庫)》といった主題の立て方を わたしたちはあまりしないであろう。そして ねらいはそのルウソのものと 同じであるだろう。
じっさい 《 Ceci est à moi. ( This is mine.)》というのは β類型の表現形式である。類型をいうのは抽象概念としてだけれども その立ち場は 出発点のもの・ないしすでに出発進行の過程のものである。そして β類型は 直線的な論理に収斂する文法に忠実である。この表現の規則は 交通行為一般の規則――つまりは特に 法律――の問題でもあるかたちになっている。
規則はそう取り決めあったものなのだから 取り決めあったからには それとして守るとか・それによってわれわれが規制を受けるとかいうのは 必然の事実である。これは それとして それだけであるというのは 表現の問題・つまりは表現行為の出発点の主観真実のそれである。すなわち 行為における制約と出発点での自由と。
α類型の文章表現は 直接にもこの出発点――その文法自由の基本的な一面――を保とうとすており β類型では むしろ同じくそうするために 表現すべき具体内容を 文法にのっとって明確にすることに意を用いあう。《おれのもので あるか・ないか》によって いかなる交通関係がそれぞれ意味されるか 事実行為の意味たる権利や義務やの規則内容じたいとして さらに明らかにして取り決めあう。もし 《これはおれのものだ》という日本文を α類型としてみれば それに対して 相手方からの主観真実全体を保持しようとする応答を まねかないでもない。この点 β類型では 無視されているのではなく すでに社会人の出発点として前提されており なおかつ 主観の交通関係は 具体的・明確であることをむねとする。そのぶん 表現の文法や交通の規則が 一定のものとしてきめられていく。
所有行為にかんする権利が取り決めあわれれば そしてそこで 《わたしの所有だ( Ceci est à moi. )》と言われれば 一般に主観真実も これらの約束にしたがう。仮りに《 Ceci est pour moi ( This si for me ).》とか《 Ceci est fait par moi ( This is made for me ).》とか別の表現で言ったならば 所有権の規則の問題から離れるわけである。《これは おれのものだ》は 《おれにあたえられたもの》とか《おれの作ったもの》とかいう表明と 必ずしも異ならないか それとも 後者の二つの言い方でも 相手の主観真実に対して与える影響だとかの点で 所有権を表明した場合のその発言と 大して違わない交通関係を持たないとも限らない。これは もし日本文をα類型のものと見るならば その日本語社会では 交通行為(法律)と言語表現(文法・その自由)とが  別のものと見られていることを物語るものであるかも知れない。法律は β類型の社会での交通規則と同じものがもたれているようであって しかも 文法自由のほうのことばによる表現のほうが 交通一般(少なくともその規則)よりも 優勢であるということなのかも。これは これだけの平俗的な一つの見方であって また α・βの類型はやはり抽象的なものだから 同一の言語につねに 両類型の要素があると考えなければならないわけであるが。
抽象的に見たβ類型の言語社会を仮りに想像してみるならば その表現の文法も交通の文法も 長期的な視野をとってみれば自然人原点(これをやはり持ち出すことになるが つまり 一人ひとりのわたしがわたしであること)にもとづいて取り決めあわれるであろうから 相対的にいって 人は自由である。
またその交通行為は 主観真実の動態であったから。また 同じように抽象的な想像としてのα類型の言語社会では 相対的にいって人は平等である。文法自由を保ち そのぶん あいまいさのことでもあるゆえに 或る種の交通不自由――なぜなら 文法自由の人びとのあいだでは 指導的な地位に立った人たちのむしろとにかく人格ないし主観真実に 社会人として 従うようになる――の中に 生活しつつ 相対的にいって平等である。自然人原点(わたしがわたしである)を言い 長期的な視野をとってみれば そうであるだろう。これらの限りでは くりかえしいえば 文法不自由をとおしての交通自由か それとも 文法自由をとおしての交通不自由のもとの主観真実間の平等か。
いづれにしても 表現あるいは表現主体 の問題として抽象的に考えるなら それらの不自由に就くことによって その制約を 主観真実は――動態的に――克服していくという手はずではある。
仮りに言ってみれば ルウソは この主観真実の努力の連続である。そして かれとしては 自然人原点をうちだしたわけである。いくつかの考察対象の方面で。ただし 表現類型および交通規則にかんして文法にのっとる行き方が優勢の言語社会のなかで そこでの社会人(出発点)とは 自然人が 断絶しているといった表現の手法でも 議論を展開した。《人間不平等起原論 (中公文庫)》ではなく 《エミール〈上〉 (岩波文庫)》などのそれ。β類型の文法表現に従わなければならないからであり これに従うということは 明らかに 口をすっぱくするほどに 述べたとしても その文章表現(出発進行)が そのまま 主観真実の出発点ではないわけである。後者は 文章・文句の背後に留保されているわけである。
われわれの日本文では 文章表現で具体主観を必ずしもはっきりさせないことによって 同じく主観真実の出発点が 文章の背後に留保されたというかの印象をもつが そうではないようである。むしろ出発点総体を 背後ではなく前面につねに明らかにしようと 表現しているのである。ただし この前面に出されるものも 文法自由の表現形式において しばしばいわゆる雰囲気として・つまり一般的にいえば感覚的な印象として とらえられるが これには やむをえないところもあると言えるかも知れないようである。このような日本語人にとってルウソは かれが自然人原点をうったえるとき 二重に写る。一つは そのまま それが社会人と断絶していないところの自然人・だからそういったかたちの出発点総体であるものを 語っているとする解釈。日本文の表現類型にのっとって そのまま そういう解釈をする場合。もう一つは この第一の解釈に立って しかも かれの文章そのものについて 一つひとつの表現内容が それはすでに出発しているところの具体的な議論であるのに やはり 出発点総体のことを語ったとする解釈。
第二の解釈は 無理である。たとえば《ある土地に囲いをして 〈これはおれのものだ〉と言うことを思いつきうんぬん》の一文でも それは 進行する議論として当然 仮説であるとともに しかもルウソのねらいは この仮説をそのものとして論証しようとか定着させようとかいうことにはならないのであるから それは ルウソのとしても誰かれの人間のとしても 出発点総体を語ったものではない。β類型の文法にのっとったものであるから 表現が決まればそこに或る種の交通規則も 表現者がねらったかどうかを別にして とらえられるようにはなる。だがこれは あくまで 交通行為のもの・その一端である。その意味内容は 出発点存在のことを言ったものではない。行為あるいはその文法が 人間存在なのではない。このことは すでにはじめに 文章の背後に前提された暗黙の了解事項になっている。だから上の第一の解釈の仕方も ほんとうには 筋違いである。結果的に ルウソの用いた表現の手法や用いざるをえなかった表現類型をこえて ルウソのねらいとするところを捉えた解釈例だと考えられる。結局 意味内容にそれほどの誤解を生じさせるとは思えないが。