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もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128
余録――ことばの問題をとおして――
第二十二章 用語を整理しつつ
- 人間は 自然人を原点とする。自然に生まれてきたことが はじめであるから。または 生まれることじたいが 自然である。人間の本性は 自然人である。
- 人間の誕生が自然事であることは 生まれてくる本人にとってみれば たとえそこに 人為的な操作がおこなわれていたとしても どこまでも変わらない。おれは今 生まれてやると言って 現われるものではない。親の意志がどうであろうとも その子になる本人が 誕生の意志をもってその意志によって生まれてきたということは できない。人間の本性は 自然人である。
- 《人間( homme )の本性( nature )は 自然人( homme naturel )である》とは 人をくった言い方である。要は こういった言葉を用いてわたしたちが 認識し表現するということが 一つの問題となっている。あるいは ことばで表現してわたしたちが 自己を・世界をとらえていくことが 問題である。これは そのままほとんど 存在・生きること・また生活のことである。これが 教育のことでありうる。
- すでに進んで 《〈わたし〉は 〈自然人を原点とする人間〉である》。《人間の本性は自然人である》と語ったのは 《わたし》であるから。自己が自己を認識したのであるから。
- この《わたし》は 第ニの誕生といえるかも知れない。じじつ そう言われる。ただしここでは 第一の誕生とか第二のとかをことさら言わないことにする。わたしの自覚という第二の誕生は 第一の誕生すなわち自然人原点に 潜在していたと言っていくこととする。第二の誕生は 人間のもの(人間に固有のもの)であるが 原点自然人を言った時点で それに含まれると言っていくこととする。
- わたしたちは 《わたしは人間である》と ことばで表現し考えていくものである。この前提は どこまでも ついてまわる。そうして 《わたしは ひとりの人間である》 こうわたしたちは 言えるし じっさいに語る。
- この表明は 二つの側面をもつ。《わたしは 〈ひとりの人間であるわたし〉である》が その一つ。もう一つの側面は 《わたしは一個の人間として ほかの人とかかわっている。〔よって 人間なら人間 あるいは なになに かにかに などなどということばを持つ・・・。〕》
- 第一の側面は わたしの自己到来そのものである。《自然人原点の確認》→《この確認をおこなうわたしの自己確認》→《そのように自己確認するわたしの わたしによるさらなる確認》→・・・。《わたし》のあたかも無限なる自乗。自同律( identity )とは そういうものである。つまり 主体存在のそれとして。
- 第二の側面は そのようなわたしにおける わたしたちの――人間どうしの――関係ということ。特には 社会という側面のことである。
- ところが わたしは自然人を原点とする人間であるというなら わたしの自己到来すべき自己も ほかの人と関係しているべき自己も いづれも同じ自己であって その原点が 自然人である。一方で 自己到来は 自然人なるわたしの原点に還帰したわたしが わたしの連乗積をつくる存在動態であるはずだが 他方で そのように自己還帰するわたしの 他者との関係 これも 自然人原点においてである。
- 一般に 社会人は 出発点であるだろう。原点は原点であり そしてその原点において社会人も 自然人であるが そのわたしには 他者との関係において 出発の要素がある。そして この社会人どうしの関係という側面も 自然人を原点として 出発している。誕生のとき すでに社会人であり 人は出発しているが この出発点という 原点の一つの側面を 社会人という。
- あるいは こうである。《わたしは ほかの人と関係しあう一個の人間のわたしである》というやはり 自己到来 すなわちわたしの基本的な側面であると思われる自然人原点 これは だとすれば それが同時に 出発点であるとともに この出発点という側面を特に 社会人という。
- わたしは原点から出発して 社会において 生活態度をかたちづくるからだと思われる。存在あるいは生きることが 生活であり したがってこの生活は やはり原点であり出発点となっているものであるが 生活の態度(考え方)は ある種の仕方で すでに社会において出発したあとのものである。
- このとき したがって 出発したあとにおいても わたしの原点も出発点も 自然人であって たとい出発の側面で これを社会人といえるとしても それは 自然人原点のほかのものではないと 表明する人もいるはずである。ただ そう表明することは ともかく出発のあとなのだから そういう生活つまり基本的な自己到来を じつは その人の生活態度として・また社会人として 語っていることになる。ことばで表明するという前提がつきまとっているからであり このときやはり いちおう自然人原点と社会人出発点とを 区別していくことができる。
- 誕生もしくは 第二のそれとして自己到来という その時間の開始という事態が 人に介在するからには 同じ存在の地点でも 二つの側面をもつと見ることができるのだと考えられる。
- 分析してみると 原点と出発点とが区別して取り出される。原点はどこまでも原点であるものとして わたしはこの原点たる自己として社会において生活するのであるが こう表明するのは 出発のあとだという恰好になっている。生活(生きること・存在という意味で)そのものではなく その態度を 出発の結果に 持つ。この生活態度として 原点自然人を語る。態度を表明するわたし これも 原点自然人であるにちがいないはずだが 特には出発点すなわち社会人という側面だということになる。また そのように想定する。
- 自然人には なぞがある。社会人には ないというのではなく 出発点またその生活態度としては特に 原点のなぞを 解き明かそうとしているか それとも なぞを受容しつつも なぞの言葉はあまり使わないことを・つまりは出発経験にかんする言葉で表現することを むねとする。出発進行においては 経験合理性にもとづくことばで 表現するのが一般であるとなる。この点でも 両者を区別しうる。
- 生活のなかで――社会人出発としての生活を含めて のなかで―― 誰か相手に向かって 《わたしは きみと同じ一個の人間だ》と表明するとすれば これは 自然人原点のことを語っているのに間違いないが その表現と表明とのあり方は 原点が出発点となったところの社会人として その生活態度を――直接の主題として――語ったというものである。わたしたちは ことばで表現するから 何か《わたしの自然人原点》とはこれだと言って指し示すわけには行かず――さらにあるいは 《自然人なるわたし》の証明書をもって生きているわけのものではないから―― じっさいには 人と人の関係じょう 社会人・生活態度・出発点という側面が 問題である。その側面で問題が あつかわれる。この意味で社会人は 経験合理の人として扱われるように 一応なっている。
- さらに 出発点に立った進行ということも言う。社会行為。出発のことだが 原点=出発点(実質的に等しいから)という場合とさらに区別する意味で 発進とか進行を言う。
- やはり ことばの前提の問題がからんでいて 一方で 出発も社会行為も 性kτのことなら 進行も 生活すなわち さかのぼれば原点 のことである。他方で しかしながら 出発点に立つ進行というなら この出発点と原点とをいちおう区別したからには 社会行為の進行――進行過程にある社会行為――は よりいっそう相対的( relative )なものである。
- 出発点を結節の側面として その裏と表とのように 原点と進行とを分けてみたかたちである。存在と行為とを区別することになる。原点存在は それじたいで 関係( relation )を持つ存在であるし 社会人出発点において 生活態度をとおしたその関係をもつし そのとき同時に 相対的な( relative )社会行為の進行を持っている。
- こういうことにしよう。自然人原点の存在の関係は 社会人出発点における生活態度をとおして――そのことばによる表明をとおして――とらえられる。それらの生活行為の社会相対的な進行 これを――つまりその相対関係の部分を―― 交通と言うと。
- 原点の・そして出発点における関係(かかわり) 出発進行の社会生活としての交通(まじわり)。交通における関係は 相対性ということばで捉えると。
- 生活の主体存在(原点)――これは 同時に 存在関係(原点)―― 物の見方・考え方など生活の態度(出発点) 社会生活における交通(進行・またその場)。
- 存在と行為とを まだ 分けただけである。原点存在は それ自身 関係存在であるが そしてその限り これも大きくは 相対的な存在(自然人)であるにほかならないが わたしは ほかの誰でもないわたしであり そのように自己還帰するわたしを知っており思っているわたしである。行為は 相対的であって それらじたいの間で 互いに同等のさまざまな可能性のある有限で可変的なものである。
- 行為は 自己を認識しない。行為が行為をするのではなく わたしが・つまりはわたしという存在が 行為をなすのである。そしてこのように表現していることは 訶ならz水も自然人原点のままのわたしによる出来事ではなく――または そうであっても いや そうであるはずだが そうであっても 社会人出発点をとおして そこにおけるわたしの生活態度として 語っている恰好だと言わなければならないだろうから―― この出発点が 存在と行為とを つないでいるその結節点での出来事である。語ることも行為であり しかもわたしの存在そのものではない。
- 存在(原点)は 行為(進行)の主体である。行為は 客体であり 主体存在もそれ自身を認識しようとするとき その客体でありうるが 行為(交通)は 主体存在なのではない。
- 交通の結果 その一つの結果状態 つまり行為事実 これが 特に 客体(対象)である。交通行為の事実も みづからの間で 関係しあうが それは 関連とか連関ということにしよう。つながり・結びつきのことである。原点の存在=関係(主体) 出発点の生活態度(主体の思想) 出発進行としての交通(主体の行為) 交通行為の事実関連(狭義の客体)。
- 《わたし〔たち〕》が 交通するのであり ただしわたしは 交通という行為ではなく わたしという存在である。主体たるわたしは 交通行為の事実連関そのものではない。
- 大きな事実問題――つまりは人間の問題――は そのままそれとして 世界の全体であるが これは一般に 存在関係と交通行為との両側面の問題に区別して 捉えうる。
- このように世界が 関係存在とその交通行為と またそれらの事実関連とから 成り立っていると見ることは 一つの客観である。世界の全体を対象として その客体を認識しようとしたものである。
- これは同時に わたしがおこなったのであるから――おのおのわたしがことばを通して捉えることであるのだから―― 一つの主観である。つまり主体による客体の認識である。
- いいかえると 一般に人びとの考え――生活態度としてもたれる――は 客観であるが 同時に 主観である。または それは主観であるが 同時に何らかの 当然のごとく一つの客観である。
- ひとりの人間の或るひとつの考えが たとえば半分は客観で あとの半分は主観であるというよりは 同時に主体が そのひとつの出発〔点〕として 一定の客観であり それを踏まえたところの(もしくは それを事前に踏まえようとするところの)その人の主観である。
- 判断の材料とすべき事実関連の認識が 十分でなかったり曲っていたりするとき だから その表明した見解が 八分の事実認識やあるいは十二分のそれにもとづいていたりするとき 必ずしもそれだからといって その人の主観にかんして 客観部分が 二分 欠けているとか あるいは二分 でたらめであるとか言っていくよりも 全体が 一個の主観であり客観であると まず見るほうがよい。ことばの定義じょう そのまま論理的には これが成立するということだからではなく むしろ人は 社会一般の交通において ここから出発していると思われるからである。
- いいかえると 上のように批判しうべき場合には その批判は 出発進行する交通行為)このばあいには 表明された見解)そのものに 焦点をあてている。批判する人も された人も あるいは第三者も とうぜんのごとく 出発点は同一であり それは 一定のそのような人びとそれぞれの見解が そのつど 全体が一個の主観で一個の客観であることを ものがたっている。
- つまり交通行為(とくに生活における話し合い)は それとして一個の全体客観であるところの一個の全体主観を 互いに表明しあって このまじわりを――あるいは 相い対立するまじわりを――おしすすめていく。
- その客体認識つまり一定の客観を したがってそれにたずさわっている主観判断を たえず修正していくことは 言うまでもない。
- 主観の習性ということは たしかにわつぃに属するところの――いわゆるわたくしの=私的な――判断に対しておこなうということもさることながら 客観の部分での修正が その基礎である。すなわち 事実認識の 二分や三分の欠陥であるとか 同じく二分や三分の曲解であるとかの部分を 修正していくことに まちがいない。
- これは 真実の問題である。事実関連の捉え方としての真実の問題である。いわゆる客観的に(また科学的に)捉えなければいけないとか またはその逆でのように むしろ事実関連は相対的なものであるのだから 客観的に見て欠陥がどうのこうのとかいうことは おかしいのではないかといった それぞれの生活態度(思想の方針)を とっていくよりも まず 真実が問題になっていると見るということ。そういう出発点を ここで 前面におしだすことも 可能ではないか。
- すなわち 仮りにまったき十分の事実認識が 十分の客観真実であるといっていく場合の生活態度をも含めて それらの行き方をとるよりは 八分や十二分の事実認識から引き出された一個のそれなりの全体客観かつ全体主観が 真実を問い求めこれに基づこうと みづからを修正していく過程行為 これを もし言うとすれば 客観真実というとしたほうがよい。この――この――客観真実は 過程的に自己修正をしていく主観真実のことにほかならない。
- 認識すべき客体たる事実関連に対して 一方でおそらく 科学的な客観性を問い求める行き方は 直接 自然人原点の主体存在のあり方そのものを――問い求めることはいいのだが しかも――表明していこうとしている。認識し表明しきっていこうとしている。それはたとえば 自由とか平等とかの理念として語られる。原点存在たる自然人の ことばによる代理が そういった理念として捉えられ表現される。逆にいえば これとて 主観真実の自己修正の過程行為だと見ていくほうがよいと言おうとしているのだが 他方で 事実関連の 相対的な客体でしかないこの事実関連そのものの 認識を 大事にしようという行き方 これは その極端な場合としてのように 出発点での主観判断をもうおこなわないというものである。客観認識だけをもって 自己の主観とするというものである。
- 一方は じっさいには主観真実を 社会人たる出発点を超えてのように 原点存在にかんする理論的な客観認識に 直接 問い求める。他方は 事実関連の客観認識までのものに そのまま求めようとする。そして実際にはこの後者も 出発点に立つ主観真実をもう問い求めない――少なくとも表明しては語らない――ならば それにもかかわらず前者の理論科学的な生活態度と同じように 必ずしも明確には把握して表現し取り出すことのできない原点自然人を やはり ほのめかすかたちで 問い求めたという恰好である。
- 後者は 経験的な事実関連のみについての科学的な生活態度。つまり自己の主観真実を 表明しないでおこうとする一つの主観真実。
- われわれは 社会人出発点・その生活態度を――むしろそれは 便宜的な生き方なのだが それでも そうであってよいといってのように―― 交通において 中軸とする。それは 生活態度の具体的な中味 つまり 一定の用件にかんするその一定の時点での・一定の時点ごとの主観真実 これの表明をおこなうことをとおして すすむ。もちろん 修正をおこなうし つねに修正すればよいというものでもないが また わからない(判断できない)なら保留するということもあるしするのだが。この主観真実は 一個ごとに それとして全体が 客観認識を持っている。
- くりかえすなら われわれも この交通の中軸とする出発点を 自然人原点にもとづくと 見るし 言うしするのだが そのことを 片や その原点の理念として この理念のみを問い求める理論科学(哲学)のようには あまり語ろうとはしないし 片や むしろ事実関連そのものを重視しつつ あとはやはり自然人原点をほのめかすというかたちで 自己の主観真実の表明とすることも あまりおこなわない。
- つまり この即物的な事実認識は 手段とか前提だと考えている。
- 交通の進行は それとして殊に相対的なものであるから 客観認識していくその事実関連じたいが 変化もするものであり これにかんする主観真実は たえず自己修正していく動態である。修正すべき自己の主観つまり事実認識を受容し これに判断をくわえる自己の主観 これが まったく なくなっているというものではないだろう。自然人原点が普遍的なら その代理たる理念も その限りで普遍的でありそういう客観認識かつ主観表明を 真実のものとして おこなっていける表現行為をかたちづくる哲学の行き方もあるのだが このような真実による交通は まず 理念真実の表明だけである。ということは 実際には 交通をすすめたのではなく そのための前提・準備として 原点を確認しようとしたにすぎないということが 言われうる。
- けれども 出発点における主観真実の動態――進行としては交通・話し合い――が つまりは社会人たるわたしが 自然人原点のわたしなのである。これは 科学客観の理念的な存在そのことではないし(つまりは もう少し正確に言うと 出発進行において その出発点ないし原点に帰れということと 実際に交通進行していることとは 別であるといううらみが 哲学的な理念表明の行き方には 残る) また 主観判断をさしひかえるところの・事実関連における行為客体の認識一本であるのではない。
- 主観真実の動態は 社会的なまじわりの過程にあるものであり この場合 特に対話(話し合い)と呼ばれる進行過程ではある。ただし 進行過程そのものは 事実である。こうだとすると 主観判断の私的な部分にかんする修正のことも 同時に当然 この主観真実の動態のなかに 含めていることができる。――形而上学的な科学客観の理念志向も 形而上学にある事実関連の客観認識一辺倒の志向も 主観真実を 間接的に表明するか もしくは つねに――つねにである!――保留する行き方である。
- 形而上学による話し合いと 事実情報の話し合いとは どちらも一般的な主観真実の過程の特殊なあり方である。特殊とは それぞれが交通における対話の 人おのおのの内なる前提と外なる前提をあつかうということにある。
- 基本的な関係存在と 相対的な交通行為および事実関連とをむすぶ 主観のことをのべた。社会人の出発点。生活態度。そしてそれを いくらか具体的にも。
- やや絶叫調でいえば この主観の外には いわゆる客観はない。客体は 自己認識しない客体として あるであろうが。
- もし このばあい それをいわゆる客観と呼びうるものとしてたとえば摂理が 出発点の主観をこえて あるではないかと 反論されたなら しかしながら このその意味での客観である摂理に代わって そのままわたしたちが 主観を述べるというわけのものではないと答える。どれだけ科学知識が発達しようとも 自然人原点やさらにはそれをもこえたものの知恵・定めそのものを とらえて わたしたちが代弁するということは 無理であろう。いや だからこそ 主観をこえて 客観はあるではないかとさらに言ってくるなら もしそうであるなら――確かに その限りでそうだえると思われるのだが―― それは そういう考えとしてそう語る人の主観の内にある。しかもかれは 自分がそのような客観である真理と等しい主観を持つものとして 語ったとは言えないし 言わないであろう。いやいや だから 客観は主観をこえるとつづけるなら 議論は はじめに戻る。
- 交通行為をおこなうにあたって 主体存在は 実際に言って その自己の認識また他者の認識を同時に含めてだが 交通の事実関連を認識するし そしてこの認識じたいが 定義じょう 一つの認識客観であるしするとき しかも それらを取りまとめて自己の主観判断が 交通行為を推進する要因である。すでに交通し 何がしかそれを推進しているなら 客観認識は 一つひとつそのつどの全体主観のなかに おさめられている。
- 一般に 関連事実を客観的に認識しなければならないとか 真実は一つだ ものごとを客観的に冷静に見よとかということは とうぜん 主観真実の 自己修正していく動態過程のことを言っている。原点存在にとって 社会の進行過程を その中にあって とらえ推進していくところの各々の生活態度 これが 動態としての出発点であることに なっている。この意味では スタート台(つまり出発点)が動いている。しかも 動かない自同律としてある限りでその原点存在が 主体となって。ものごと(事実)を客観的に見よとは むしろこの自己(自然人)に還れということである。それが 基本ではある。
- もしこのとき それが 真理を見よだとか 摂理に従いなさいだとかとも 言っているのであるとしたなら そう語った人は あらかじめ自分が その真理なのではないと言ったうえでのことでなければならない。交通行為(とくにここでは対話)は 基本的にこういうふうに成り立つ。真理を見よと――仮りに――言う人がいたとするなら それは 基本的にいって その発言の全体として そういう自己の真実を・つまり一編の主観真実を語っている。そういうふうに 対話は成り立つ。
- ことばによる表現を 交通の形式だとすると その内容は 生活の 経済活動だとか政治(共同自治)活動だとかである。この交通の内容は 対話というその形式と 切り離すことはできない。世界は 主観真実の動態の社会的な総体である。
- この社会的な交通の総体が それ自体で独立してのように運動し 個人は・そしてその主観真実は それによって制約される という局面とその問題には 触れていない。ただし 制約されながら そしてむしろこの制約を受容することによって 主観真実をその限りで動態させていくことは これまた ふつうの社会人出発点であるし 交通の社会総体はそういうふうに構成され形成されていくのであるから いまの各個人の交通形式は そのときにも 有効である。あるいは どうして 有効であると見ないのだろうか。
- 個人の主観や力をこえた社会総体の運動による制約 これは 個人の主観真実の動態を 有効でなくならせるとまで言う必要はないであろう。もしこの主観真実の動態という交通形式が 有効ではない・もしくは有効でない部分があると言うのなら それと同程度に 哲学客観の理念志向や事実関連の客観志向やの 間接的な主観真実の表明の行き方も 有効でないであろう。もしくは そのときの有効は 理念前提や事実前提のどちらか一方によるのみの行き方(生活態度) これにかんする有効かどうかといった別種の概念内容に変化していく。
- そして それでもよいと言う人は 人間が一般に もはや自然人原点を 喪失してしまったと語ったことにひとしい。その人が どうして 科学客観によって 原点自然人の理念を 叫んだり あるいは 原点そのものを ほのめかしたりして 自己の主観を語ることに 腐心するのだろう。
- 人は 主観をなくしたとか そんなものは初めからないという場合には 事実前提だけを問題とせよといった主観表明をも もう言わないでいなければならない。
- 社会行為の事実関連(《 fact =行為された〔もの〕》)にかんして――前項の後半部分を引き継ぐなら―― これは その善t内の動きとしては 人間一人ひとりの主観真実の力が及ばない部分があると言われる。このことは――しかしながら―― われわれの言ってきた・個人の出発点としての主観真実の動態が 社会交通の推進力であるということと 両立しうるはずである。動態する生活態度が 交通の推進力(だから あくまで出発点としてだが)であるということは 交通の社会総体的な事実関連の支配者であるということを 意味しないから。おそらく そのゆえに 人間として・あるいは人間社会として 有効であるものだろうから。生活態度は そういうかたちで出発点であり それによって推進力となっている主観真実の動態である。かんたんにいえば この生活態度は 原点自然人に 交通進行のいわゆるしがらみが まといついているのであろう。
- しかも いわゆる事実の重み(そういう客観)は そのもの自体によってそうあるのではなく だれかれの主観――そしてその真実――をとおすことによっている。出発進行のしがらみがまといついた生活態度が ここでも 中軸であり 交通対話の推進力である。個人の生活態度を 一方では その力の及ぶ範囲をこえて あたかも自己運動するというような事実関連の世界に われわれは 持っていってすえるなどということをしないのだし 他方では 理屈としていえばそのとおりであるところの原点自然人を持ち出してきて しかもこれを何か 主観真実の範囲をこえたものとして かかげ それによって交通を推進していくのでもない。
- 人は 自由という理念ゆえに 自由(原点自然人)であるのではない。逆である。なら自由の理念は 主観真実の範囲をこえていない。しがらみが まといついていたりしているから そのまま主観動態がはじめの存在の自由ではないとしても。
- 主観真実を動態させていく生活態度が 出発点として 交通を推進していくといとき 事実関連についての・そして自然人原点(人間)についての 客観認識をおこなう科学(その成果)を 活用する。人間原点については哲学 事実関連については自然科学 また 前二者ないし三者全部を 出発点に立って綜合するのは人文科学ないし思想つまりは生活態度。人文科学も 科学としては 主観真実をかたちづくるための客観認識(その前提)を提供するものであるのだから 生活態度の――その立脚点としては一致するところの――基礎的な手段であり道具である。
- 自己修正して生きていく主観真実という中軸から見れば われわれ自然人原点としてそのように出発する社会人は その同じ出発点が 交通人であるとも言える。行為(交通)と存在を分けて見るべきだというなら やはり 生活態度を中軸として見たほうがよい。いいかえると 社会人は 自然人と交通人との結節領域(同じものの一側面)であるから 交通人といえども その生活態度を 問題・話題・主題としたほうがよい。その中に 経済とか政治とかの活動内容が ある。
- ただし 人間の論法でいって 最も先行する原点自然人を尊重することは その生活態度においてとしては いちばん相対的な性格をもって最も後行する(その意味でどうでもよい)と考えられるところの 交通進行の関連事実を大事にし その客観認識から始めることである。歴史を夜から始める。
- この意味で 交通人は 経験人(経験存在)である。原点において自然の子は――あるいは自然の子が―― 交通進行における歴史の子である。
- ルウソの自然人および社会人にかんして このように考えた。