caguirofie

哲学いろいろ

#25

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十七章 もうひとつの結び

さいごに もし 表現形式で原初的なα類型を・あるいは交通形式で自然人の原点を 想定していたとするなら これを 途中で捨ててしまうのは よくないように思われる。途中から 出発点の社会人あるいは仮りにα・βの表現類型の次元に戻ってくるといった議論のやり方は かえって それら原点ないし原初の類型を 必要以上に あいまいなままに 際立たせてしまうかも知れない。いづれにしても これに対処しておくべきだと思った。
最後まで 想定をおしすすめて あるいは 最後まで作業仮説の想定で 議論をつづけて そのうえで 《いま・ここ》の出発点たる社会交通の次元に 帰ってくる・帰り切るといった議論の仕方が のぞましい。この点をこころみる。
ルウソは この作業仮説を たしかに一つの理論としていたから 一方で その生涯にわたる全議論――それは いわゆる《学問芸術論 (岩波文庫 青 623-5)》から始まっている――をとおして この自然陣仮説を保ち これでつらぬいたと同時に 他方でまた 必ずしもこの理論そのものを定説としようといったわけではない。このとき しかもかれは この仮説理論を提出する限りでは それによって一般に《自己到来》のことを示そうとするところの原点自然陣にこそ還るべきといった《往き》の実践に 終始 重点をおいたように感じられる。そういうきらいがある(§21まで)。だとしたら そういう想定のもとの《往き》の理論および議論が そのまま 《還り》――すなわち 自然人原点に還った=往ったあとの 還り――の実践になっていることが あるいは望まれる。そういう問題である。
《想定の原点へ 還り →したがって往き》つくしていることは 《想定を〈いま・ここ〉でおこなっていたわたしの出発点に 戻り そして出発進行し》つくしているということが のぞましいかと思われる。また これを称して 生活態度とか主観真実の動態と わたしたちは 言ってきた。
また一般に学問は 想定原点にしろ経験現実の出発点にしろ これら最広義の客体の中から わたしの主観真実の動態にとって 要素・要因となっているものごとを取り出してきて 客観認識し 理論整理し わたしの生活態度にとって 補助資料・判断材料となるものを 提供する。そういう研究であり 理論提供である。いいかえると学問は 原点存在の想定にしろ・それへの還り=往きにしろ はたまた 《いま・ここ》への戻りにしろ・それの実践にしろ いづれの事柄についても 往きつくしたり・戻りつくしたりしない また しないでもよいという前提のもとで 間接的に 《わたし》の主観真実動態を 示唆し・ゆたかにしようとするものである。
じつは このいわゆる科学の行き方という前提を取り払ってさえも どういうことが言えるか。これも いま試みようとする内容の一つである。
いま 原初的な表現形式のω類型を考えるにあたって 漁撈・採集・狩猟の生活を反映していると思われるアイヌ語の昔からの文章表現をとりあげる。もちろん アイヌ語人が現在でもそうだというのではないし その文章表現がぴったりω類型にあてはまるというものでもない。

piwki kamuy-maw ・・・・・怒り襲う神風が
kan-toy kar-pe      大地を打つと
ko-humumatki,      そこに轟々たる音がまきおこり
ni-tay kar-pe      森の樹々を打つと
ko-sepepatki.      はたはたとざわめきわたる
ne-hi korachi      それと同時に
awa-kina・・・・・・・・・・・・坐っていた草
kina-chinkew-sut     草の足のつけ根を
kamuy-maw puni・・・・・・神風が持ちあげ
kuttek nis ne      真黒な雲となって
kamuy nis ka・・・・・・・・大空をさして
chi-e-rikinka.      昇っていった。
sir-kor-kamuy・・・・・・・立ち木の神々を
maw kar humi       風が打つその音        
ko-siwiwatki,      シュウシュウと鳴りわたり
kay rusuy-pe       折れたくなった木は
sup-tom-orke       幹の中央から
chi-ko-e-kekke,     いっせいに折れくだけ
kay niwkes-pe      折れるものかと思う木は
tu-si-maw-utur      烈風が襲って来ると見れば
riten has kunne     しなやかな小枝のように
e-u-ko-has-kur・・・・・・枝をならべて
turpa kane,       がっぱと身を伏せ
tu-si-maw-utur      烈風が行きすぎると見れば
riten has kunnne     しなやかな小枝のように   
ko-hepitapa       身をはじかせて立ち上がる       
cha-etoko        樹々の梢には       
ruy mawsiro       はげしい口笛が
chi-e-kotpakar      ピュウピュウと鳴り
ni kay rukumi      樹々の折れた破片は
yapkin-ni ne       投げ棒のように
u-ko-tutturse,      しげく飛び交い
echiw-op kunne      投げ槍のように
u-ko-tutturse.      飛びちがった。
知里真志保アイヌ語入門―とくに地名研究者のためにより)

ここで注目すべき点は  やはりω類型ふうにいえば 人間主体とは別に人間主体にとっては不思議な・またその意味でいまこの人間主体と未分化でもあるような原主体が とらえられており こうして人がことばで表現しようとしているその主題群は 上の原主体のおこなうところの客題事象でもあると やはり捉えられていると考えられることである。
いわゆる大文字の神として――それも原主体である――の場合は すでにルウソの文章からいくらかの例をひろってみた(§24)。そしてそれと α / β類型とのかかわりについても いくらかを見てきた(これまでの余録の全部 とくには§24・§26)。
この《唯一の原主体》という場合は しかし そういった想定をどこまでも推し進めていくやり方をとろうと思うと 長い神学の議論になるし これをわたしはほかの所で論じてもいるので 省略したいという趣旨である。

  • 本文の§12・§13で アウグスティヌスの議論を引用・援用したけれど これは 女性論や自然本性の捉え方などでわたしが参考にしているという意味で まだ そうしただけのようにもなっている。
  • つまりこのような場合は 想定をどこまでも推し進めるといっても そのどこまで行っても 参考とか導入の域を出ないという面があるようである。それは この場合は 想定する作業仮説が それこそ 主観真実をこえた(主観真実が分有する)真理のことをも含んで 立てられているからである。ここでは深入りしえない。いちおうの議論としては §21・その中で特に第36項以下を参照してください。

ということは 原主体の問題を ここでは いわゆる原始心性による文章表現の問題として見る。アニミスム(世界のすべてに心を見 その心と自己の心とが混然一体である心性)あるいはシャマニスム(アニミスムの世界の中にも或る根源的な原主体の心をとらえ これに憑りつき 世界と自己とを統御しようという心性)といった そこではまだ自然人原点が自覚されていない――もしくは無自覚的に意識されている――自然心性・その意味での自然本性(人間)が 原主体あるいは人間主体たる自己をとらえて 文章表現するばあいである。
上のアイヌ文の歌では その限りで当然のごとく 《風 maw / 木 ni / 草 kina 》あるいは《樹々の折れた破片 ni kay rukumi 》さえもが 生き物である。風は 《神風 kamuy-maw 》である。大空( kamuy-nis ) は 《神‐雲》であるし 木は《立ち木の神々 sir-kor-kamuy (山を持つ神)》であり 神風は《怒り襲う piwki 》《大地を打つ‐者 kan-toy kar-pe 》で 草は《坐っている awa 》のであり 木は 《折れたくなる者 kay rusuy-pe 》であったり《折れることを欲しない者 kay niwkes-pe 》であったりし すべてのことがらが 原主体にとっての客題(主題?)としてのように 人間と同じ生き物の動きとして 描かれている。
こういう表現形式のω類型をも想定できると思われ しかもここでわたしたちは つまり《いちおう こういうふうなのだが これは すでに原始心性に近いものだからというので そういった途中で》引き返して来て すでに割り切ったように 《いま・ここ》の出発点に立つというわけには まだ 行かないだろう。そうすんなりとは 行かない。いや 実際には 行くのだが 議論のやり方として考えるに 自然状態を一たん想定した場合には まだ 割り切らないほうがよい。原始心性としての自然心性ないし自然本性は しかしながら 自然本性と もしそれを名づける限りでは 自然人原点と もう まったく別のものではないだろうし ならば いまの社会人出発点とも別のものなのではないと 言わねばなるまい。そういう余地をとらえ これを推し進めている必要がある。
原初的な人間はそれとして存在したのだし 自然心性とかω類型とか・はては結局 自然人原点とかを 想定したのなら この作業仮説なりに 問いつめていったほうがよい。どこまでも問い進めていったそのたどりついた先で 社会人出発点に帰り立ったという話のほうが おもしろいし それができれば 一つの正当な(あるいは妥当な)議論となると思われる。
わたしは 旧い言い方を用いるなら講釈師のように あたかも見てきたかのごとく 言うのだが こういう引用したような歌を表現していることは そこに確かな交通人がいると考える。

piwki kamuy-maw kan-toy kar-pe ko-humumatki,

最初の三行の部分であるが まずたしかにこれは α類型のごとく 主題を次から次へ言い出し論述展開しているのであり 大きくはβ類型の文法に見合うごとく 《 kamuy-maw 神風》は 《ko-hummumatki そこ(=大地:kan-toy)に(ko-) フムフム( hum-um- )という音を 群がり( -at- )起こす( -ki )》という言葉を述語動詞とするその主語であると 現在から とらえうるところの交通=表現行為をあらわしている。文章表現はすでにそうなのだと ただこういうふうに見てしまうのは あまりにも常識すぎて 論証にならないかも知れない。ところが 《襲いかかり( piw- )をする( -ki )》や《表面( kan- )の土地( -toy )を つくる=打つ( kar )》や 《轟々たる音をまきおこす( hum-um-at-ki )》ことは いかにその行為主体(?)が 一つの原主体である風神だと表現していようとも したがって その風神とこれをいま認識している人間主体とが未分化だといおうとも 一たんこのように表現が成ったなら 表現(字づら)そのものとしてこそ いまの具体主観が 風神=原主体の現象と未分化つまり一体だというのみであって そのいうところは これを表現している主観真実総体は じっさいには 風神の中に自己を見ているだけのものではなく 必ずしもどこかあらぬ所へ連れ去られていってしまって混沌としているというものでもなく いまの原初的な自然人原点も実際 確かに一個の社会人として 交通(話し合い)の相手をやはり前提し語りかけようとしている。ここですでに自己の出発点に立っている。出発点が混沌としていることと それがないこととは 別である。
これは 行為(表現・交通)と存在(主体)とを分けたことでもあるし 主体存在を 世界の現象すべての中に見て 原主体を立てているということは 人間の自己もその一個の原主体であり つまり行為なのではなく主体存在なのであり  このことを 混沌のなかに解消させてしまうべきではないから。いささか理屈っぽいのだが いやここでは 行為と存在とも 自覚されて分けられていないというときにも それは――一たん言葉による表現が成り立ったなら 表現しているものと表現はおこなわないものが いるのだから―― 存在は 行為のなかにうづくまっているだとしても いないわけではない。
またこのことは 個々の表現といおう具体主観と その表現者という主観真実の総体とを 分けて見ることでもある。未分化(あるいは未開)ということと 存在の無とは 微妙に しかし確実に ちがうと思われる。存在のあいまいさは あいまいなその自然状態のなかに すでに交通人の出発点を持っているとは考えられる。
《襲いかかり( piw )する( ki )  神( kamuy )風( maw ) 表面( kan )土( toy )打つ( kar )もの( pe ) そこに( ko )フムフム( humum )群がり( at )する( ki )・・・》と述べていって そこに動態詞(あたかも挨拶のしるし)がなく また文法規則としての動態詞(活用格)もなく その意味でも 交通=表現が 原初的であるのは おそらく原始心性というものが 自然現象を擬人化して生き物の如く捉え つまり原主体を立てており そのことの内容として すべてをその自然現象のなすがままにまかせ これに対して人間主体は――自覚されてもいなかったからのように―― なにもせず ただ受身であるといった点 こういう点にあると考えられるようである。
いいかえると すでにというか まだというか 一つひとつの語を 表現していくことじたが 主観真実のありかを示そうとして 動態詞であった。すなわち 個々の発言じたいが 主観真実の動態だと見なされた。さらにすなわち 具体主観の表現行為と 主観真実総体とが 未分化であったか あるいはすでに 前者が後者の動態であり表現じょう動態詞となっていた。というのは 動態詞となるべき言葉は はじめに たんに感嘆詞や間投詞のようなものであったとも考えられ この動態詞の前身のことばから ものごとの名称・名辞・したがってさまざまな品詞となる語をつくっていったかとも考えられる。
もしそうだとすれば 動態詞となるべきことばを使わずに 語だけを言い出していけば そのことが 動態詞の役目をはたして――すなわち 動態詞をもつということは 社会人=交通人の出発点に立ち 出発進行しているということである―― 具体主観をも・そして主観真実の総体をも 伝えようとする表現形式も起こりえていたと考えられる。また あるいは 動態詞のはじめは 擬音語・擬態語であったかも知れぬ。
そんなであったりするが いまのアイヌ文も ω類型の一つの表現形態であると考えてみた。いづれにしても――自覚されていなくとも ただし 他者の存在はとうぜん前提され  それとしては意識されているだろうから――やはり そこに交通人の出発点を見ることができる。
《昇っていった chi-e-rikinka 》というのは 《〔神風が〕自分を( chi )そこ(大空)へ( e ) 昇り( rikin 〔 ri=上 rik=高み rikin=昇る〕‐させる( ka )》といういわゆる再帰動詞の用法なのだが それは 具体主観(字句どおりの認識・表現そのもの)としては そのように 自然現象と一体であり そうであると同時に β類型で《自分を昇らせる》と表現しようと α類型で《昇っていく》と表現しようと ω類型とmども 主観真実の総体は 交通人の出発点に立っていると考えられる。その動態詞は あるいは考えるに

kan-toy kar-pe ko-humumatki
ni-toy kar-pe ko-sepepatki
maw kar humi ko-siwiwatki

などのような対句法に あるのかも知れない。あるいは 日本文の助詞にあたるところのものとして 上の歌の表現とは別に 実際の動態詞は――アイヌ語の場合はもちろん――あるのである。また 歌の中でも 《 ko (そこに)》や《 e (そこへ)》《 ka (使役法)》などの接辞が そうである。
ω類型の一つの表現形態として 自然心性というような主観動態が それと未分化であるところの自然現象をも原主体としてとらえそれを表現する文章も この自然現象=原主体の《往き》をおこなっているという反面で おそらくそのときすでに 社会交通の出発点(それとして主観真実)への《還り》を持っている。《万物をつくる者の手をはなれるときすべては悪くなる》とるウソがいうとき この想定での自然人原点への《還り⇒往き》は そう語るときすでに 社会人出発点に立ったものであるし じっさい 想定にもとづいて《還った・ないし往った》としても どこまでそうしたとしても 出発点に戻っていることになっており 主観真実総体は 表現行為の主体であるわたしであり 自己を――そういう具体主観の展開をもって――動態させているということにしかならない。《いま すべては 人間の手にうつって悪くなっており したがって 原点自然人に還るのだが それは ものごとが人間の手にうつっているというその社会交通の世界に どの〈還り=往き〉の段階でも 戻ってきており 立っている》ことである。

ω類型の想定や自然人原点の問題も それらが想定で仮説であるから 途中で難なく 無理しなくとも自由に その想定をおこなっていた地点で戻ってこられることとは別に 想定をおしすすめていっても 想定をつきぬけてのように そうすることができると考えられるのである。これは ことばの問題であるように思われる。
すべては万々歳 ということになるといった議論しかおこなわなかったようであるが これによって ルウソに代わってのように 学問の或る種の行き方に対し 一定の批判をおこなうことができる。自然人あるいは自然法の原点は その内容把握がどうであるかを別にするならば 広く共通に 受け容れられているように思われる。じっさい 自由とか平等とかは 独立主体であり関係存在である人間の自然本性またその法の 基本的な内容であると考えられる。この基本は おそらく普遍的であると言ってよい。
そして もし自然人原点を立てるのならば このような自由とか平等といった人間存在の無内容は その原点をことばによって代理するものであり 理念である。このとき これら理念を一定の根拠とし 社会交通の事実関連を理論整理して議論するという学問の行き方 これは じっさいには自然人へ《還り=往き〉つくさず また《ここ》の交通出発点に戻ってきていても――理念で立つことをむねとすることによってのように―― その出発点には必ずしも立ちきらないようになっている。学問が 経験科学であり ことに研究であるということは 上のような行き方を 前提とすることである。ところが この前提は 便宜的な行き方なのだから それが 全部ではない。つまり研究者や学ぶ者にとって その主観真実の動態のすべてではない。もしこの前提がすべてだとされてしまうと どういうことになるか。
それは ともあれ原主体と自己とが 分化したところに立ち しかも分離しきってしまっており ところがこんどは新しく いま捉えようとしている社会現象のことを何らかの原主体と見立ててのように その原主体へ《還り=往く》ことをしないのは 当然としても 結局 自然人原点へも還らなければ 出発点に立つこともまだ保留していることになっている。現代において――つまりいわゆる近代以降として―― 社会現象を原主体に見立てることは 一方では この何ものかにおびえるような・しかもすでに《理念としては》社会人の主観いsんじつないし客観真実に立ったと言い張っていき 交通出発点をもうそれで実践していると言い張るような 実際には 新しい原始心性が 出現しているのである。理念がかり・人間がかりとしての神がかりのようになっている。理念とか理論としての客観真実に憑依している。
他方で 理念信仰あるいは客観理論の信仰ではいけないというもう一種べつの学問の行き方もあって これは――いわゆる文化人類学の一つの傾向として言うわけだが―― 社会交通の出発進行・その行為事実そのものを 理念から離れて 客観認識し あとは ともかく自然人原点をほのめかして 主観表現していくものであるが それは また 社会現象がかりのようなものである。ただし 理念や理論への憑依と それら理論の背後のあるいは基底の行為事実たる社会現象への憑依とは それほどちがわない。

襲うように大地を打つ者あり
怒る神の風
大地はあわただしく取り乱し
森は樹々がざわめきわたった
もはや草も
坐っていられず
脚を持ちあげられ
真っ黒な雲となった
大空をめざして
昇る神の風を見上げている
山の主 樹々の神々は
風に打たれ シウシウと
音ひびきわたらせ
折れたくなる者あり
幹のまん中から
いっせいに折れくだけ
折れるものかと思う者は
あの大いなる神の前に
しなやかな小枝のように
枝をそろえて
身を差し出している
あの大いなる神の後に
しなやかな小枝のように
顔をほころばせて
頭のてっぺんへ
はげしく吹いた口笛を
ピウピウと抜けさせている
折れた木切れは
投げ棒となって
あたりを飛び交い
投げ槍となって
飛び交った

ここには 自分(主体)が いないようでもあり じつは この表現の行為者としては その自然現象とあたかも一体であるとしても 表現の出発点にいるはずである。ルウソに言わせれば こういう自然状態にいた人間が・つまりわれわれが 自然界のなかに・世界のなかに 自己をおぼえ自立したあと どういうわけか 交通の出発点をも見失ったのではないかということである。
結局 そういうことなのであろう。《すべてが悪くなった》社会状態を去ってのように 自然人へ還れというのは 社会人出発点での自己の問題なのだと考えられる。《四つ肢で歩か》なければならないわけではないし さりとて 自然本性をもう問わなくなったり あるいは 問うのだとしても それを 自由とか平等・友愛といった理念の(つまりはいわゆる自然法の理論だけの)問題としてあつかったり または 自然法理念は理屈っぽいというので やはり原点とか自然本性とか広く人間として問おうととしつつも フィールドワークの成果の情況証拠を提出することによってのように ほのめかすやり方 つまりは このほのめかすこと自体がいけないのではなく そのとき 出発点にも立ちきらないようになってしまったそのことは いただけないと考えられるのである。
自然法理論は この理論をあつかう自己自身をあつかっているのだし 社会現象の観察によってほのめかしたいとするその対象は これもやはり 人間つまり自己自身のことにほかならないのだから。学問研究は それじたいとして 必要かつ有益なのである。表現形式として動態詞そのものを用いていくα類型からそれをすでに文法規則に代えて発語するβ類型へ移行したと思われるように やはりあたかも動態詞(個々の場面でのまじわり)を抽象して その文法つまり法律を α・β両類型の社会いづれにおいても かかげるにいたったというように ちょうど学問研究は それじたいの世界をつくってのように もはや動態詞(自己の主観真実のありか)を示すのは 学問の約束事のなかに前提済みなのだから ことさらこれを発言しなくなったのだろうか。
いろんな観点・分野において考えられる動態詞は 直接的なものと間接的なものとが 共存するということになったというのだろうか。