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哲学いろいろ

#26

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§29(オラトワール派と資本主義)

その宗教心が 徹頭徹尾 ひどく法律家的な色彩をもった統治的な見解 またあたらしい生活形式への〔カトリック〕教会の適応という 方向をもっている。

封建的世界像から市民的世界像へ

封建的世界像から市民的世界像へ

(§4・〓 p.295)

というジェズイット主義に対立するものとして オラトワール派とよばれる集まりがあった。
先に見たドゥ・ラブリュイエールは この派の学校でまなんだと言われている。《あたらしい市民的宗教心の成立》とよぶべく 《一小グループの宗教的自己教育の運動としてはじま》り 《市民的カトリック主義》として《日常生活の徹底的組織化――その点では プロテスタント主義に似かよう――を目指》し この組織化の傾向で ジェズイットの反感を買った。オラトワール派も これ(買われた反感)に立ち向かい

一六三〇年に・・・そのあたらしい方向の宣言である ギヨーム・ジブーフの著書《神と被造物の自由について(Gibieuf, Guillaume (1583-1650). De libertate Dei et creaturae 1630)》が現われた。この著作はヤンセン主義の一先駆であるが 著者自らは もちろん後には 発展したヤンセン主義を拒否した。それは デカルトにもっとも深い影響を与えた*1し またたとえ本書そのものではないにしても 本書に含まれた諸概念は スピノザを またかれをこえてヘーゲルをも 根本的に規定したのである。
(§4・〓 p.296)

とボルケナウは言う。まず

この〔ジブーフの〕書の序言はまちがいなく 《若干の近代人》に すなわち神の全能と意志自由とは矛盾すると信じるジェズイットたちに 反対している。
(§4・〓 p.297)

《神の全能》を われわれは 《主観動態のなぞ――それゆえ 〈思考〉の領域のことではなく 〈信じる〉こと――》という言葉で置きかえる。主観動態が もうそれ自身は疑うことのできない存在なのであるが なお偶有的・時間的(つまり移ろいゆくもの)であるとは言えるのだから〔――だから 無神論だと呼ばれる唯物論も 理性一辺倒ではないのである――〕 主観心理は不安にされ ぺシミスムをその心理の動きとして持ちうる。
われわれが オプティミスムを立てるのは なぞがあるからである。ぺシミスムをこのなぞが つつむ。主観動態が歩み出すなら その初めの一歩で それは オプティミスムである。少なくとも 表現として まちがいなく そうである。なぜなら 飲めや歌えやのリベルタン主義者が踏み出してくるその一歩は すでに超えてきたから。
リベルタン主義も なぞを それが不可知だ――だから無神論――という点で そのなぞ自体は みとめている。そういう主観動態がいる。心はオプティミスムの羊の囲いの中にある。
《意志自由》とは だから なぞの何ものか――主観動態そのものの最終的な根拠――を 受け取ることも 受け取らないことも 意志によるその選択は自由だということである。もうそれ以上うたがうことのできない主観の動態存在は そのとおりであっても それが最終的な根拠ではない。なぜなら 動態と言い 時間的(つまり生と死を経験する)存在であるから。だから なぞがある。ここまでは 誰しも みとめる。

  • なぞなどなく 人間世界は その誕生と死との間だけだという見解も なぞに満ちているであろう。自分の誕生や死の瞬間を かれは知っているであろうか。

最終的な原因ではないが つまりなぞはあるが 理性による認識のその意味での最終的な存在である主観動態は それが 行為主体(生活者)であることを 主張する。行為主体の意志は 自由である。わたしが 自分が 思考し行為するのであるから。
旧い表現による議論として かくて 《神の全能と自由意志とは矛盾しない》。矛盾すると思いなすとき――だから ジェズイット主義とリベルタン主義とは あい通じる―― この世の経験社会の政治的な(あるいは むしろ宗教的な)統治が必要不可欠だと 主張する。これを われわれは 国家族(アマテラス予備軍)という。
生物社会学的な自然によって分類される民族・人種のほかに そういう民族がいる。われわれは 経験行為の領域では あやまつことができるから 政治(共同自治)を もちろん ゆえなしとしない。信仰の人間学(主観基礎)が おしえとして議論されて 一方で これを なぞの何ものか(つまり表現として神。しかも パスカルホッブズらにあって 人間キリスト・イエス)を信ずるのではなく――なぜなら 《信ずる》というのは すでにそこでは 理性の《考える》の域を超えるものであったから――〔この《おしえ》を〕人びとの共同の宗教とし この宗教を《信ずる》という迷信をつくることができる。
そこで 国家族による統治。そして 他方で 経験世界における政治をゆえなしとしないことによって この《おしえ》を 社会生活のその自治の側面の問題として 倫理・慣習・道徳そして法律として 持つことは可能だし 必要だと考える。この後者にあって 《神の全能と人間の自由意志とが矛盾しない》オプティミスムは 動態である。《主観動態において矛盾しないが 経験行為としてまちがいがあるから 共同自治を 過程として 持つ》。
《矛盾すると見るとき まちがいを統治するために・統治しなければならないと考えるために 自分こそが矛盾しない主観動態であると思いなす》。われわれは なぞを信じている。そして 主観動態としては考えている。かれらは 自分を信じている。そして その自分を人びとにも信じさせるために なぞについて考える。その結果で 統治をおこなおうとする。
われわれのは あくまで 信じると考えるとの主観動態――動態――であるから 経験領域でのまちがい・あやまちを 過程的に 共同自治していく。ただそれだけである。ただそれだけの社会歴史 歴史社会である。
主観基礎の命題たる《おしえ》は その主観内で 自然法 lex naturalis であり 社会関係的に(経験世界で) 倫理・法律(自然法 ius naturale )としても持たれる。共同自治の手段・約束ごと・決まりである。国家族も その大きな計略たる迷信によってではあるが これら内外の自然法を大いに利用する。
ボルケナウはこう述べる。例によって 途中に長い注釈をさしはさむ。

  • 〔神の全能と人間の自由意志とが矛盾しないというオプティミスムを 《神による選びの予定説》としてかかげるところの――だから それは あのなぞの内容じたいを そのように《予定》として 《考え認識した》と言うのである。一般に無効である。ところの――〕

カルヴァン派の――と始めて ボルケナウは むしろ経済史の問題として このオラトワール派の登場について 触れている――超越的に非合理主義的な道徳は

  • つまり すべてが予定されているのだから すでに よろしく生活経験にはげむべきであるという道徳は

あるべき生活のためにどんな物質的諸原理(すなわち 経済生活じょうの行為形式)をも発見することができない。

  • なぜなら 合理思考は 《行為》形式そのものではなく その手段である。ゆえに 職業労働への勤勉が 神の栄光をあらわすための道そのものだと考えられ 自己目的化するのみとなる。

カルヴァン主義はこういう問題設定(経済にどう対処するか)をさけることもできるし(だから いちずに 邁進することも起こる) 部分領域の合理化で満足することもできる。
だが オプティミスティックな予定説(オラトワール派のジブーフの思想のことである)はこの問題設定をみのがすことはできない。

  • 《市民的――その意味で主観動態の――カトリック主義》という所以である。

それは 道徳的要求―― 一個のかくされた神の法則ではなくて 人間の独自の〔経験世界での倫理的な〕本質であるべき――の内容上の合理性を 立証してみなければならない。

  • ここで 道徳というときは すでに 経済活動を 視野に入れている。また もともと 問題設定が そうである。

このような〔かれらの〕道徳の内容が 資本主義的リゴリズムである。

  • カルヴァン派・ピュアリタン主義のリゴリズムは 資本主義であるかどうか 資本主義とは一体なんであるかを問うことなく――問うた場合でも 《えらびの予定説》という《考え》が これをささえて解決する―― 禁欲的な勤勉につきすすむという性格となるはずだ。この勤勉の中から いわゆる経済学等々は それとして 出てくるわけでもあるが。
  • オラトワール派は 道徳的要求の内容・だから資本主義的な経済活動の何であるかを 問わなければならなかった。
  • リゴリズムというのは ここで 内面の主観基礎が 外面の行動と 厳格につながっていなければならないと 過剰表現するそれである。外的な偶然性を 内的な必然性と一致させようという心理的な起動力が濃いばあい。

そこでは 資本主義的個人の生存の合理性を立証することが 課題にされている。

  • 資本主義的とは 社会経験=偶有世界での その時代の 経済行為形式である。合理思考が その手段の一つの基本であり 合理主義が・つまり合理思考を《合理思考するゆえにわれ有り》という主義によって擬制的な主観動態とした合理主義が 資本を自己増殖させる経済形式を展開させることができた。

この立証の不可避性の中に 近代哲学の全必然性が含まれている。この不可避性は 〔先進国イギリスとちがって〕フランスでは資本主義的個人が一個の必然的なものではあっても なんら自明なものではないということに基づくのである。

  • ただし イギリスのホッブズにおいても あるいは のちのアダム・スミスにおいても 《資本主義的な個人の必然性》は あくまで偶有経験の領域での必然性のちからである。合理性は 思考の連続性・体系性をもちえて それとして 行為の必然的な連関をかたちづくることが可能。だから むしろ 経験世界の とくにその基礎である経済史の領域では 合理思考があらわれるや そして 少なくとも古い時代の宗教的な迷信による道徳的な制約がくずれていくならば その意味で必然的なものとなるとともに 〔むしろ〕それとして 自明となっている。《自明なものではない》というのは それじたいは自明で必然的な流れとしての経験・つまりその〔がむしゃらなであっても〕経済行為形式としての資本主義が 主観動態にとって まず素朴には新しい事態であるからであり 一般的に言って それにつき従うことは 合理性の主義・つまり《合理思考するのみのわたし》に自己をゆだねることになる――それはそれとして自明――ゆえである。
  • つまりそこで 偶有領域の中でのとはいえ その必然性の流れは 合理性を一つの基本手段としているゆえ そのかぎりで 速くて深くて広いし強いから とうぜん 人びとは とまどう。オプティミスムが 歴史動態であるというとき われわれは この資本主義的な経済必然の流れに それを排除しないばかりか 随ってすすむ。外の経験領域では 倫理・法律また共同自治としての政治といったおおやけの秩序および善良な風俗をわれわれは 必要としたように とうぜん この流れの中でも 新しい公序良俗をつくり持っていく。これらの総体は 社会的に一つに 国家族の問題であったから――われわれの自由意志はだれでも 国家族になれないということはない―― この国家形態に対する《生活の見直しと変更》にかかわり 主体的に・だから その意味で基本的に 主観動態の回復と保持にかかわる。保持というのは 歴史行為過程であるオプティミスムにとって すでにその時代その時代での 実践にほかならない。

(ボルケナウ§4・〓 p.303)

オラトワール派はこういう問題を提起した。または はらんでいた。――先進国のイギリスでも 資本主義的な(自由合理の)経済行為形式がそれとしてどこよりも自明な必然であるとはいえ ジブーフの悩みをもたなかったとは言えない。経済学を形成し 経済政策をつくりだし実践していくことは オプティミスム主観動態の具体的な過程内容である。つまり 悩み(問い)ゆえでもある。フランスではケネーが 経済学の視点・枠組みを認識し始めた(§4・〓 p.303)。極端に言うと 資本主義に随いつつ 主観動態するこの動きを ピュアリタン主義者たちは 向こう岸のものとして見ていたか または その動きにも乗ってきたのである。そのときかれらは 勤勉がわるいことではないが その勤勉が ガリ勉となる傾向を持っていたし あらためて 経済理論的にその傾向を持ったとも考えられる。

   ***

なお神学の問題としては 主観動態を保持して この資本主義的な経済生活の必然の流れに抵抗するため 《日常生活の徹底的な組織化をめざした》その理由として ジブーフが理論づけたところによると それは こうである。

ひとは 本当の自己のもとにあるためには 全く自己を離れて 〔自己のなぞの最終的な根拠たる〕神のもとにあらねばならないという要求 〔これ〕は 忘我的な神秘説である。
(ボルケナウ§4・9 p.303)

とボルケナウは見る。《だが このオプティミスティックなリゴリズムを 最後までもちこたえることは不可能である》(p.302)と見る。《忘我的な神秘説》を内容とする《要求》(または倫理規範)を 信ずるべき偶像として 崇拝することは 人間の自由意志に可能であるが 《そのリゴリズムを最後までもちこたえることは不可能である》か または 迷信として やはり可能である。
ただ 《忘我》というのは 《主観動態を絶対最終的なちからだと見ない》ことだとすると そして《神秘》というのは その《なぞ》のことであるから ジブーフやオラトワール派の人びとが どういう主観動態として生きたかは にわかには判断しがたい。もともと そもそも人がどういう主観動態として生きたかは 人にとって判断しかねるが 表現されたジブーフの思想から言っても わかりかねる。
《ジブーフの努力は 敬虔な願望であることがわかる》(p.302)とボルケナウは 言っているが そしてこの意味は  《中世封建社会カトリック主義秩序の中に生きたトマスに見られるであろうオプティミスムに一致し 〈トマス説を模倣した内在的道徳への ジブーフの努力〉は》ということであるから 古い生活態度の中での《敬虔な願望》であるにすぎないことが 判明するだろうということらしいが 必ずしも明らかではない。
ボルケナウは このオラトワール派を たとえ旧い生活態度が尾を引いていても 時代はすでに新しいその中で 《あたらしい市民的宗教心の成立 ならびにそれに対応する人間学の成立》として 議論しているのだし 《敬虔な願望》は 心理敬虔の熱狂でないなら 健全な熱心におけるのぞみのことだし 希望は 歴史過程するオプティミスムにつながる。そして ジブーフのこの神学の議論においても 経済史の問題と やがて つながっていくのを見る。

  • いや もともと問いと答えじたいが 経済史とつながった生活から出たものであった。

このように ジェントリー(ジブーフらオラトワール派のことである)は二重の課題に立ち向かっているが その一方は 非合理的道徳的リゴリズム(神秘的な忘我の保持)と それの一部をなす現象界堕落説(主観心理および経験生活で人のなすことは みな 悪に根ざすという)を 固守することであり 他方は カルヴァン主義に反対して 無意味なことの背後にある 人間の理性的本質(主観動態)を提示することである。
〔課題の二重性は一体でもあるが〕これに対して ジェントリーには 原則的に三つの〔実践の〕可能性が許されている。〔すなわち デカルトらの先駆となったというその内容として〕
(1) その最も簡単な解決はスピノザのものであって すなわち 神のみが真であり 他の一切は神の様態の仮象である。

  • われわれは これをあとで批評しよう。

(2) だが理性の真理だけを 神に限ることもできる。その場合 合理化できぬ存在の現実性は否定されないが その存在が非理性的であるから 理性的な神によってのみそれに働きが与えられるとする ――すなわち偶因論。
(3) 最後に 現存の世界全体を 人間的思考における理性的明証性と もっとも厳格な意味で同一視することによって 合理主義的なオプティミスムを現存の世界全体に適用する試みもまた 企てられうる ――すなわちデカルトの汎合理主義 All-rationalismus。
(ボルケナウ§4・9 p.304)

第三の解決法は 解決にならない。方法の手段を 方法としているから。ただしその前提では 経験科学一般の行き方をあらわしている。第二については 《理性の真理 / 理性的な神》ということが 矛盾をはらむ。真理・神は 人間にとってなぞであるから 《理性》――とくに概念認識――だけで 限定・規定することはできない。それは 《神》ではなくなるか 迷信の神となるから。
《理性》というのは 人間の認識するものでもあり すなわち《考える》の領域である。《真理・神》は 《信じる》ものである。ただ なぞは 不明瞭だが たとえでもあるから 主観基礎が 主観動態の代理概念であるごとく 人間の理性(または《考える》)は 真理(だから《信仰》)の代理概念を提供しうる。だから この第ニの《偶因論》は 非理性的・偶然のことがらを 真理の なぞ(すなわち 不明瞭な寓喩)として 人間の理性がとらえうるといった内容を持つ。さらにだから この偶因論は 一個の主観動態にとっては 内面的に じゅうぶん考えられるし むしろ 主観動態はこの偶因論として成り立っているとさえ言えもするのだが そのとき主観の表現は 一般に 上の第三の手段――つまりそれ(合理思考)を主義としない手段――をもって 経験科学的におこなうものである。
第一のスピノザの解決法は このかぎりでは ボルケナウの議論が あらっぽい。神は真理であり そのなぞを擁する人間の主観動態は 理性で認識しうるかぎりでの最後の存在(原点)であるなら この人間も その自由意志の選択は 真実である。わたしの真実は 相手もそう受け止めるという 合理必然的な関係を 予定しうるものである。
《神の様態の仮象》という表現は いけない――つまり すでになぞであるものをもって 一層そのなぞを濃くするだけである――と思うが スピノザは 神の真理と人間の真実(そして両者は矛盾しない。ただし 後者が前者に背きうる)を言ったまでである。これは第二の偶因論と両立するし 第三の要因(手段として)と背反するものでもない。
つまり ジブーフの悩みの解決は あとに残された。

  • もしくは 主観動態は 過程であるから そのかぎりで まじめに解決へ向けて進んだのだとも考えられる。

主観動態が 経済史にどう対処するかにあたって基本的な問題にぶつかり 主観基礎としては確立されようとしており 経験行為への出発点――すなわち特に経済生活での 資本主義的な個人に対する対応の仕方としての――では 《敬虔な願望》として まずは やはり確立されようとした。

  • ジブーフ個人にあっては 確立したかも知れない。それは わからない。

すなわち と言うよりも まず消極的に言えることは オプティミスム主観動態は 経験現実として 過程である。その生活基礎たる経済史は この近代以降 先頭を走るものは 資本主義的である。つまりそれが 社会偶然の領域の全体にわたって 資本主義的な合理必然の関係と流れを 持ち始めてきている。ここで あるいは こういうかたちで――過去の中世の時代とはちがった――時代の問題が 起きてきた。

   ***

だから ジブーフにおいて 神学の議論は 時代の問題(または 端的に 社会科学の問題)と直結する端緒が見られるとも ボルケナウは言う。そして かれボルケナウは

ジブーフでは・・・資本主義的世界に対応する合理性を見いだそうとする課題の停止を意味する。・・・
必然と自由とが一致するのは 〔封建制度の中では〕必然性が 人間の内的《本性》である場合か あるいは外面化された必然性が同時にまったく人間的理性の素朴からつくられた場合にだけである。
(§4・9 pp.305−306)

と言うとき けっきょく この議論の場で《必然・偶然 / 自由 / 自然本性(主観基礎)・理性》等の概念を 社会科学をにらんだかたちで 主観動態学として 説明づけなければならなかったし ここでは それが 基本的な解決――過程たる解決――なのである。
人間は 理性を持つ。この理性で考える範囲において かれは最終の――または最先行する――行為主体であって それとして 自由である。また その主観動態になぞがあるというとき その意味では かれも 偶有的な存在である。自己を原因(根拠)として自由であるのではない。主観動態(わたし)との間に一定の距離をもって その・外で社会的に起こる生活経験は――または それらに反応して 内で起こる心理的な経験は―― 偶然である。
主観動態との間に距離があっても それ(=主観動態=わたし)の自由な意志選択としておこなわれる外的な経験行為は おおきく偶然であるが 同時に 必然とつながりうる。自由意志にもとづくから。自由ゆえに 約束とか契約とかの合理必然が生まれる。その意味で 拘束が生じる。
自由意志にもとづかず 強制や脅迫によって――なぜなら 人間の存在は そもそも 弱い――おこなわれる行為は それだけで終わるか または それじたい無効なのであって 偶然そのものである。自由意志による行為のみ 必然の連鎖(だから約束は つねに双務的である。片務契約は 片務だということが 双務的である)を持つ。
行為に至らない前の主観内の思考 これが 理性によって理性に合致してなされたものは――理性が自由意志の能力なのだから―― 必然を持つ。合理思考の必然性は 外的な行為の必然性と 一定の距離をおくが 後者の 経験法則的な一つの根拠となっている。デカルト
封建社会の中では いってみれば ここまでである。しかも 合理的な思考 少なくとも行為が 制約されていた。たとえば身分制という偶然が 神による必然の連鎖の中にあると考えられたからである。真理による必然としての社会行為関係 これは たとえば政治主権者の社会必然としての正当性というかたちで 人間も――それがあたっているかどうかを別として――口に言い出してみることが可能である。と同時に 真理の必然ということは 人間にとって なぞである。
《真理の必然》とは 《信じる》と《考える》とをつなげて言った言葉である。前者に中心があるのなら けっきょく《真理》というのと変わりないし もし《真理の必然》とも言えるとしたなら そのときも それは 主観動態内にとどまっている一種の認識である。ちょっと言い出してみた直観である。後者――《考える》――に中心をおいて 《真理の必然》といったなら 《真理の》というのは ことばのあやである。それ以上のではない。つまり それ以上のものがあるとしたなら 第一例のばあい すなわち 主観内にとどまるべき認識(直観や予感など)である。つまり 理性による認識としては おおきくは偶然の領域に そもそも《経験必然》は 属する。
社会偶然――たとえば 主権者を設立すること――の中にも 自由意志の発動としての必然の部分があるということが そこで 成り立っている。ゆえに 社会契約説。ここでは ホッブズ
社会偶然の中でのその生活基礎は 経済史である。封建社会では 合理思考による経済活動が阻まれていたから――もしくは その秩序を乱さない範囲で 部分的に認められていただけだから―― 社会偶然は ほとんど一般的に 偶然である。制約・強制という偶然に対して譲歩する――自由意志で譲歩する――という行為として 必然である。
また このわづかな必然の領域――そういうかたちの自由の主観動態の保持――から言って 社会総体をも 神による必然と見る人びとも あったであろう。つまり 上に見たように 主観内にとどまる信仰として またその信仰から発するためいきとして。この個人の内的な見解が おしえとなり さらに社会全体の宗教また共同自治の規範とも なりえたと考えられる。譲歩している主観動態が 自由意志を保持しているならば そのことにおいて ためいきの発言が おしえとなったものは ある種の 不明瞭なそして消極的な 合理必然を有するから。この宗教を 偶然の領域で政治主権をとった者は 利用することができた。
ここでも 宗教的な制約に対する社会的な闘争を措くとしても 生活の方便基礎たる経済活動は それとして とどまっていないし 進展する。《おしえ》は その主体たる主観動態とともに 社会生活や経済行為に 先行する――もしくは同時一体である――とも言えるが 宗教は これらおしえや経済基礎やに 時間的にも 後行して作られたものだから 経済史という社会生活の基礎は 宗教の制約をかいくぐる。
これがかいくぐったあと 宗教(政治)の新らしい制約がつくられる。また ためいきをついた《おしえ》は この経済活動から離れていないし またそれを阻止しない。
ここで この宗教がくずれはじめた。部分的には認められて実践されていた合理的な経済活動が ちからを持ってきたからである。社会偶然の生活基礎の領域が 宗教的な制約をこえて 制約とたたかいもして 一般化するからである。合理思考はそれじたい自明のものとして必然であり それとつながった行為は やはり必然である。偶然のなかの必然(つまりもとに戻って自由)を 少なくとも行為主体である互いの主観動態においては 予定している。
自分が自由な主観動態であり合理思考によって必然的な行為をなすのなら 相手もそうであることを 予定する。人間ということの理解に まちがいがなければ 予定していい。ひとびとは そこで互いに信頼し合う。また 行為・とくに経済行為の面で 少なくとも合理必然性のゆるすところに随って 信用しあう。
人格(主観動態)的な信頼・信用の関係は たがいに人間であることにおいて そもそも始まっており 始まっているが 社会生活の基礎としては 経済行為の関係の領域をとおして それを確実なものとする。かくて 信用は 経済史の概念である。
つまりこうして 生活経験という偶然の中で 自由な合理必然を発揮しあって 基礎としては経済的な生活の向上(見直しと変更)を 実践していく。これは 経済的にゆたかとなることでもある。資本の蓄積・増殖である。近代という時代になって 自由な資本(人格関係および経済基礎の交通)を志向し これが 一般化していく。
近代が どこから始まるか はっきりとはわからないように 初めはまだ 神学が 信仰と宗教との間で あらそわれていた。人間のなぞの主観動態が 最先行するし原点なのだから。ジブーフにおいて 資本志向の経験世界に対応する信仰(生活態度)の合理性は むしろはっきりしていたとも すすんで考えられるし ところが 《資本主義的世界に対応する合理性を見いだそうとする課題では 停止した》とも 考えられる。資本《主義》とは 理性による合理必然を 主観動態のすべてだ――《わたしは 経済人だ》――と思いなすことであり この迷信によって あらゆる社会偶然が その必然合理と直結し 合理必然の行為によって余すところなく色取られ 塗り替えられなければならないという議論である。
それは――それは―― しかも 自由意志によって 実践されることができる。自由意志による行為は合理的であり必然性をかたちづくるという原則が 経済基礎の領域では 政治の領域とはちがって より一層つらぬかれることが可能である。経済基礎では モノ(あるいは時間)をあつかい 数量化することが容易であるから。それは それとして(つまり数学・物理学の問題として) 合理思考がかなっている。あるいは 合理思考にとって 数量化したモノのあつかいは お手のものであり 自己をつらぬくことができる。理性 ratio は 比例のことである。数量的な合理必然が こうして 社会経済の偶然世界をまかりとおることが出来る。
これに対してボルケナウは この書でデカルト ガッサンディ ホッブズ パスカルをとおして 経済基礎の一般化した社会偶然に対する主観動態の確立・再確立といったように過程する保持(自立)の学を 提示しようとつとめた。ホッブズをとおして 国家にかんするあたらしい議論にすすもうかという位置にいた。経済史にかんしては 社会偶然の総体世界における各思想家の身分(階級地位)とそしてかれらの主観動態(ないし認識・表現されたものとしての主観基礎)とを ごちゃまぜにしてしまった。
くどいようだが ボルケナウにおける 社会的な身分と主観の動態存在との混同は 主観動態のなかの 《主観基礎たる理性・本質》とそして《それらを超えてそれらをつつむなぞ》との混同につながっている。ただし《理性となぞとの主観動態》全体を 《本質(存在)》という場合はあるし 次の引用文では ジブーフによって《なぞ》が《動力因》とよばれているが ボルケナウは この動力因を 理性の内容だととっている。

《〔われわれの行動の〕動力因は われわれの魂――この魂の作用力とか能力とかという神の形式を その魂の中でとった――である》〔とジブーフは言う〕。このように 行動の理性的な規則は 同時に動力因であると思われる。

  • すなわち われわれの魂は 動力因であると ボルケナウは読み替えた。

これが《本質》という概念の内容である。《本質》とは 一面では諸現象の総計の原因を示すための 単なる関係概念であり 他面では 現象の理性的内容である。ヘーゲルは かれの《大論理学 (ヘーゲル全集)》の中で 諸現象をその本質へ還元することが 近代合理主義の意義であることを 示している。
(§4・〓 p.307)

《本質・存在・主観動態(なぞを含めた全体)》を言うことによって 諸現象の社会偶然の中から 発起人である主体の自由意志(また具体の意思)につきあたり その必然につながるところの偶然関係を 合理思考のもとに明らかにすること すなわち経験科学の基礎は ここで 生きる。偶然を自由意志の合理必然に《還元》してしまうことではないであろう。
ややこしい議論となったが これで 時代の問題を 経済史という基礎領域とつながったものとして つまりその取っ掛かりとしては 経済行為形式としての資本志向(勤勉=産業)といった 主観動態の生活態度の問題として とらえることが可能になったものと思われるし――ここでの任務は これだけである―― そのような生活態度が ここで経験科学を形成し活用し始めることを すすんで見ることができるかも知れない。つまり時代は そういった傾向をもって進んでいたし 徐々に実現し始めるであろう。
ボルケナウは さらにこれを 次に ヤンセン派の把握において 議論している。
(つづく→2005-10-20 - caguirofie051020)