caguirofie

哲学いろいろ

#21

もくじ→2005-11-28 - caguirofie051128

第二十三章 表現類型

これからあとは ことばによる表現の問題という一点で 前章の議論を補うためのものである。それぞれの言語の比較 いや対照といった一つの主題をとおして。
自然人=社会人が 交通しあうとき 中軸としてはおのおのの生活態度(要するに 考え・意思・意向)を そして直接の焦点としてはむしろ最も相対的にして客体そのものであるところの具体的な個々の関連事実をとりあげ これらを ことばによって表現することをとおして おこなう。ことばには表わされていないところの・しかもその人の主観真実の何らかの表現 これもあるだろうし 排除しないが ことばによる表現をまずは中心としてすすめる。
そこで まずルウソの用いたフランス語では ことばによる表現(文章および発言)において 主体が 主語となる。極端にいえば このたとえばフランス語と比較(対照)するとき わたしたちの日本語では 必ずしもそうではない。こうである。つまり およそどの言語においても 主体存在は どこまでも主体である。このことに 異存はない。そして 文章にあっては たとえばフランス語では 主語は述語〔部〕をともない その伴なうこと・伴ない方が文法規則的であって たとえば日本語では 必ずしも主語を立てない*1。かんたんな例は 次の対比である。

Nous naissons faibles.
(We are born feeble.)
わたしたちは弱い者として生まれる。
(今野一雄訳エミール〈上〉 (岩波文庫) p.24)

フランス語でも英語と同じように 《Nous sommes nés faibles.》といわゆる受動態でも言うわけだが そのことは措いて 考えられることには この 同じ一つの主観真実を表わそうとした二つの言語での文章は 互いにその成り立ちが 異なっているように思われる。
仏語では 自然人たる人間が《自分から生まれてくる》――あるいは《私たちは誕生する》―-といった意味あいで 文章が表現されているのもさることながら 全体として 《私たちはこの世に現われる その結果 弱いものである》あるいは《その自然するという最初のことじたい 私たちが弱いということだ》などという意味あいをも持って 結局そのことを ここでは三つの単語の配置とそれらのつながり構成において 表わそうとしている。
そして この文の構造において 《 Nous =わたしたち〔は〕》は 主語である。だが 極端にいうと 日本語の文では 《わたしたち〔は〕》は 主語ではない。単純に――単一として――主語なのではない。
極論していうと日本文では 《わたしたち人間はといえば それは 弱い者として生まれてくるそういう存在である》と表現して――あるいはそう表現したと見なして―― そのあと 《わたしたちは》が そのとき どちらにしても 交通進行の場で 主体であることに変わりはないけれども 文のなかでいわゆる文法の眼から見ようとすると やっと 主語になる。仏語等では 意識するかしないかを別として 最初から 文法の眼で見ているし 主語である。《やっと》の以前では――日本文では――この《わたしたちは》は 一般にも論じられるように 主題である。主題の提示である。提示されるべき主題語という文法にのっとるものである。
もちろん 仏語でも 主題を提示する形式によって 言えないものではなく しかも 構文どおりに主語が来て定まり この主語( Nous )は ここでは動詞( naisons )および補語( faibles )から成る述語部と 密接な構成をもってつながっており 主題は 結局この一つの構文全体であるとか・その背後・もしくは広い背後としての文脈であるとかにおいて 定まることができるようになっており そのようにして あつかわれる。
引用した文につづく文では こうである。

nous avons besoin de force;
(we need force.)
わたしたちには力が必要だ。
(今野訳 同上)

もちろん日本文が 《わたしたちは力を必要とする》と言えるし 仏文等が この場合でいえば《力》を 主語とする別の構文で表現しうる。しかもこのとき 後者はやはり 主語なら主語が一定の構制のもとに定まった形式をもち またそのことを要請しており 他方で前者の日本文は どちらの言い方をしても 主題を提示しているのであり いわゆる文法はそのような構制が先行している。主語-述語の関係叙述が 主題提示に対して先行しない。

  • ここで先行というのは 時間的なあとさきではなく 考え方のうえで 優先されるという意味である。

《力が必要だ》というとき 《力が》は必ずしも主語ではない。《力が》何を必要とするのかと 問い返されるようでもあるからだし 《力》イコール《必要》と言っているのでもない。《力が必要とされている》とかあるいは上に言った《わたしたちは力を必要とする》といえば 主語(S)-述語(V)-賓語(O)の直線的な論理関係からなる文法どおりの構文表現であるように見える。そして それでも 《力が》も《わたしたちは》も 主題の提示であり 《必要とされている》も《力を必要とする》も その主題に対する一定の論述内容だと見ることになる。

主題 論述
わたしたちは 何か・どうか
力が 何か・どうなのか

あるいはまた

第一主題 第二主題 論述
Aは Bが C
私たち‐は 力‐が 必要だ
私たち‐は 〔自身‐が〕 生まれる

ただしこの仮説的な見方を押し通さず 総合的にみれば次のようにも言うことができるかも知れない。すなわち《わたしたち》と《力》と《必要》との三つの語は 仏文等の構文と同じような主語および述語の形式で 互いにつなげられ全体が構成されるということもできるし また そのような文法規則から離れて 主題提示とそれに対する論述とから成る別の形式を じゅうぶん 持ちうると言えると。
そして 後者の形式といえば形式のほうが 日本文では優勢だと考えられる。仏文等では 表現の手法をいくつかに変えても そのいづれにも 定まった文法規則がついてくる。

人間はみにくいもの 怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。
il aime la difformité, les monstres; il ne veut rien tel que l'a fait la nature, pas mêmes l'homme;
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.23)

この対比において 日本文は いわゆる主語を省くことができるただそれだけのことだというのではないと考えられる。《pas mêmes l'homme(人間つまり自分たち自身さえをも〔自然がつくったままにしておかない〕)》というのは たしかにこの《 l'homme (人間)》が  述語(つくる もしくは 欲する)の対格(目的語)として その構文どおりにおさまっている。しかるに 日本文が 《人間そのものさえそうだ》というとき これは 前文の《みにくいものを好む》や《自然がつくったままにしておかない》を承けて 言い出されていると考えるべきである。つまりその構文を承けるというよりは 前文の内容・その提示された主題を承けて その論述(つまり答え)としてと同時に あらためて次の主題を導こうとして 言い出されているのではないだろうか。そうでなければ たとえば《人間さえをも つくったままに〔しておかない〕》というような論理的な意味関係の線で 表現されると思われる。
まだ不案内であるが 日本文は 主語と述語部などから成る構文形式を もともと先行させず つねに 主題提示とその論述とをくりかえし表わしていく一つの文章作法をもって 成り立っていると見ることができるように思われる。この場合の主題とは 文脈において 前にのべられたところの《万物をつくる者の手をはなれるとき すべてはよいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる》であるとさえ考えられる。
そういうならば むろん 仏文でもどの言語でも 主題とその論述という形式を持つに決まっているではないかというのは しかしながら 早計であるように思われる。これに対しては やはり日本文では 一つの文ごとに 主題と論述から成る形式を くりかえし用いると言えると思われるとき 仏文等では そうではない。つまり 主題を文章の背後とか文脈とかにおいて扱っているとは見られるとしても 一文ごとに 主題が提示される形式を採ってはいない。《 il (l'homme ) aime la difformité, les monstres. :人間は みにくいもの 怪物を好む。》という文において 和訳で《人間は》というと すでに主題が提示されていると見られるかも知れないが 仏文では 文じたいは 《人間(S)‐好む(V)-畸形(O)》というように直線的な論理の意味関係を表わしているものだと考えられる。文脈などからやっと 《人間というものは》といった主題提示という内容が捉えられるのではないだろうか。
極論して説明をくりかえせば 日本文では 主題の提示が 語と文のかたちにおいても表わされる そして これに後行して その主題‐論述の構制のなかに 分析的に 主語‐述語の関係が捉えられてくるかっこうである。いま仏文では 文と語とは そのかたちとして 論理分析的な主語‐述語の意味関係を・またほとんどそれのみを あらわす そして 文章全体や文脈のうえから そこに提示された主題をつかみ出すという恰好なのだと。
《人間は怪物を好む》というなら たしかに 《人間は》は 主題提示であると同時に 《好む》なる述語の主語としても 立てられている。けれども 仮りに《人間は怪物(悪魔)が好む》というならば 《人間は》は そのみづからが主題として提示されているという文法事態が先行しており それと同時にだが後行して 《怪物が》を主語とした述語《好む》の対格語となって 論理的な意味関係をあらわしているかたちである。分析すれば 《人間はといえば(主題提示) この人間を(対格) 悪魔が好む》である。《人間は》というだけで この重層的な構制をつくっており になっている。
次のことがらが 別様の例示になればと考える。

Tout est bien sortant des mains de l'Auteur des choses, tout dégénère entre les mains de l'homme.
万物をつくる者の手をはなれるときすべては よいものであるが 人間の手にうつるとすべてが悪くなる。
エミール〈上〉 (岩波文庫) p.23)

この仏文は その全体が 主題の提示であり かつ 一つの論述である恰好である。もしくは そういうことは 主題の提示の仕方が そのように文全体による形式をとっていて たとえば日本文でなら このそのままの訳文に対して さらに 《・・・と思われる》とか《・・・と私は考える》というかたちでの主題提示の仕方が 成り立つというところなのではないかと思われるのである。《そうではないだろうか》などといった聞き手・読者への呼びかけを 日本文は その文のなかに・ことばとして 一般に 表現するのではないかと考える。やはり極論するならば 《・・・すべてが悪くなる。》と結んだこの一文についてなら むしろ 《そういわれている》とか《という人がいる》とか さらに何らかの説明文がついていても おかしくはないように感じられるのではあるまいか。もしそうだとしたら このように論理的な意味関係を そのまま直接に表現している・そしてほとんどそれのみの文については わたしたちは じっさい 主題がどのように例示されているのか わからない感覚を覚え どこか居心地(読み心地)がわるいとさえ言いたくなるのではないだろうか。

  • もっとも この種の文章は 明治以来 読みついできているだろうから 慣れているとは思われる。

もしいまの仮説をひいき目に見て 議論を継ごうとするなら こうではないだろうか。仏文では 文章は すでに 意味内容を直接そのまま かつ その内容じたいに絞って 表現している。書き手と読み手との交通の場とその具体的な問答やら受け答えやらの構制は すでに言外の一般社会としての交通の場がになっている。したがって 文法としても 要するに 主題の提示ということにかんして それを規則事項として形式化するには 関心が薄い。したがって この一文の表現の内容かつ仕方で 作者の主観真実は わたしたちから見れば いささか裸のまま表現されているかに見えるということに関しても その主観真実のやり取りは 文法規則が 言外ですでに社会一般の交通として行なわれている事態に委ねているのだから やはり十分に 読者とのあいだで 交通・対話がなされていくという寸法である。

  • この約束事 これも もしそうだとしたなら 社会契約の問題なのだろうか。  

強引に日本文を次のように分析しておきたい。問題提起にでもなればとである。

第一主題の提示 第二主題の提示 論述主題の提示(こたえ)
Aハ Bガ C
万物を作る者の手を離れる時すべて-ハ よいものである-ガ 人間の手にうつるとすべてが悪くなる

このように 主題がつぎつぎと提示されてくるなら 日本文は 居心地がよいようにわたしには感じられる。これが 一般に人びとの社会的な交通の規則であり と同時に ことばによる表現としての文法の規則であるのではないかという感覚をおぼえる。
ハ格やガ格などの活用格は 交通の場でのあいさつの役割を果たしているかに思われる。そしてそのあとで 語と語とのあいだで 主語-述語などの論理上の連絡がとらえられていくのだと。
さらに 単純な推理によるとするなら 仏文のばあい 交通しあう社会人は 言外に・文の外に 一般の交通人として ひかえている。そのように文の背後で 対話のかたちをつくっている。日本文のばあい 文じたいにおいて 人びとは あいさつを交わし交通しあうかたちをとる。対話の姿勢が 言葉じたいによって 表現されてきて その文のなかでも 交通しあう社会人であろうとしている。あたかも 文章表現のそのつど そうとすれば 社会契約をとりむすぼうとする恰好である。

  • どちらも その表現類型によって 長短それぞれの特徴をもつであろう。まだ粗い議論であるが いま少し これらの論点を それら自体の吟味をもしつつ 問い求めてみようと思う。
表現類型の分類

わかりやすい表現形式にかんする分類としてなら 次の二つとしてとらえてみる。

表現類型の分類

  1. α 類型 : 主題+論述
  2. β 類型 : 主語x述語部

これら二つの文章類型は 互いが他を 必要としないと言いうるほどに 表現形式のあいだに異同を生じさせている と思われる。β類型では 表現者個人にとって自由にならない文法規則をすでにつくりあげており しかも その構文形式にのっとるならば 表現はきわめて明確に伝えられると思われる。文章のなかで あいさつをことさらしなくとも 一般社会の交通の場が ささえていて 最初の約束が・社会契約が 成り立っているという仮構が少なくともあるのではないか。人は 文章のなかで 思いっきり 飛躍していってもよいというのであるかも知れない。社会契約は すでに 取り交わされている。
α類型では β類型をもつ社会と同じくその交通者の生活態度は 自然人=社会人のものであるが その主観真実を表現するとき 必ずしも文法の取り決めを持たず きわめて自由である。その意味で 自由である。一定の構文形式にこだわらないぶん それは また 表現伝達が あいまいとなることがある。文章のなかの 言葉をつくしてのあいさつそのものは 伝わりあっていくものと思われるのだが。あいさつとしての押し問答だけで 対話が終わるという場合も ありうる。中味は なにもないということである。中味は何もなくとも 押し問答が 中味だという話になる。これも 交通だという言い分になる。
表現があいまいになるのは しかしながら 主観真実とその表明に必然的なことなのかも知れない。あきらめのよさだとか あいまいの美学などといって そのことを誇ることはないと思うが 自己の生活態度を 或る事実関連について・つまりそれを一定の主題として 表現し論述するという場合 ある意味では両義性も三義性も持ち合わせて その出発点たる自己の幅を広くして あいまいだというのは ありうることである。よく言うとすれば α類型は この交通人の出発点を そのように全体として 重んじようとしているのかも知れない。β類型が これを軽んじているわけではなく しかも 出発進行たる交通(対話)はこれを その内容をあたかも独立させてのように 文章としてことばで語り 主観真実を明確に伝えようと努める。このことを重んじる。α類型は 出発点=交通人(つまりは一個の人格の全体)に どこまでも見合った文章表現をとっていこうとしている。β類型は そのためにも 一定の具体的な個々の 出発進行=交通行為を それとして明確に伝えることに意をくばる。それだけを受け取ると あたかもその人は――実際のその人が――文法人間であるかのように感じられる結果となる。
さらに言いかえると β類型では α類型での《主題+論述》といったあいさつを交えた提示形式を 文章の外に置いているとすれば 字面の内容を受け取って そのまま α類型のわれわれが かれらと交通することは難しいかに思われる。ルウソが 《自然がすべてよく 自然人としてしか良き人間存在であることはかなわず 社会人はすべて悪い》と言ったとしても 具体的な現実の交通は その額面どおりの内容のほかに やはり幅広い人間が われわれα類型での場合と同じく いるということになる。
αとβとの類型は もちろん概念抽象である。たとえばルウソの文章が β類型にきっちり当てはまるというものではない。ルウソが 迫害を受けるほどにその文章で一般からの反撥を買ったのなら 上のβ類型の約束事として捉えたことなど 絵空事であるかも知れない。あるいは ひょっとして ルウソだけが このような自然人原点を志向する文章(判断・主観真実)を書いたのかも知れない。いえることは ただしおおよそのところで 言語として いまの類型分類を持ちこたえるものとし ルウソ自身は 主題や論述の内容として・つまりは《主語x述語部》の一つひとつの文章の展開の中味として 上に触れたように きわめて極端な表現を用いていると見ようとおもう。やはり極端だと思われる。そしてただし α・βどちらの類型にしても 出発点全体としての生活態度・そういう主観真実の幅広さが つねに有効なものであるとすれば ルウソもこの出発点に立って しかし具体的な表現内容にかんしては かれの考える伝達の手法として 極論を展開するかたちを試みたのであるかも知れない。
α類型は とくにはその《論述部》の中で 主語と述語部との構文をとるβ類型に見合ったそれなりの表現形式をとりうる。同じように β類型は α類型の行き方を 約束事として暗黙の前提とするかたちで とうぜん含みうると言わなければならない。α・βの両類型のいづれにおいても 表現の手法は これまた いくつか ありうる。β類型の中では この表現の手法は ただし 文章一般(またはその言語の一般)としての表現形式によりは その意味内容のほうに発揮されるように思われる。新しい考え方およびその伝達の仕方ともども かたちある文章そのものに 表わされてくると考えられる。

  • この手法については 半ば意味内容をはぐらかし 必ずしも一定の意味をとり結ぶことのないように 表現し その主観真実を伝えたいというようなものが 現われた。詩が或る意味でつねにそうなのだが G.ドゥルーズの文章を見て そう思った。

もっとも ドゥルーズは 自分で はっきりそうだと語っている。
α類型のなかでは こういった意味内容のほうにも そしてやはりいま言う類型的な表現形式のほうにも 一人ひとりの手法が ある程度において発揮されうる。
二つの表現類型・αとβとをめぐって いくらか議論をつなげてみたい。

*1:言語類型論として つぎの作品のなかでくわしく論じた。→《序説・にほんご》:序説・にほんご - caguirofie050805.日本文には 二層あると捉えた。主題提示層と論述収斂層〔S-V-O構文〕と。つまり主語-述語の構成をも含むが まずは基本的に 主題を提示する構制が優勢であると。ここでの議論はいくらか粗雑ではあるが 必ずしも修正しきらないかたちにとどめることにした。自然人・社会人と そしてこの構文との関係を ここでは あつかっていて 独自の視点があると見た。