caguirofie

哲学いろいろ

#12

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第七章b あかつき

わたしたちの《自然価格》は 《地代と労働と利潤とから成り すでに有効需要によって成立したところの〈市場価格〉》のカサアゲされていない状態 その価値額を言う。
このように抽象的に言う利点は 地代の元となる土地 労働の元となる労働力すなわちその主体なる人間 利潤の元手である資本すなわち もっぱらの貸し手の側で蓄積・増殖された生活価値は 市民社会の原点の場であり主体であり相互依存的に交通しあう生活動態そのものであると ひきつづき となえることにある。
また 利潤の元となるのは 分業形態における労働・協働であることは 言うまでもない。

  • この狭義の利潤は わたしたちの定義によれば 市場価格として成立した価値額のカサアゲされた部分である。それゆえ むしろ重商主義の理論では その自分たちの交換の知恵によって獲得した 勤勉の報酬としての交換差額だと言うかも知れない。わたしは これを必ずしも しりぞけない。じっさい わたしたちの定義も そういった理論内容をふくんでいる。しかも この利潤の元となったものは 生産行為における価値の創造だと考えた。
  • 言いかえると こういうことだと思う。《市場価格》は 生活価値原点の《自然価格》がカサアゲされたものだが そのようにしてカサアゲされてでも もしすでに交換として成立しているのなら 取りも直さず 生活価値がそのようにカサアゲされて成立したことを 事後的に・不本意にでも意味することになると。だから 市場価格の価値量も その限りで 生活価値量として いわば有効供給=有効需要であったと 追認されるかたちである。アゲゾコ(上げ底)という疑いは 消えないわけである。

そして もっぱらの貸し手を自認したいわゆる資本家的市民にのみ 利潤がわたるとすれば だから 搾取であると言われる。そのような主従関係のしがらみは むしろ人間の誕生以前の原始心性の人間関係である。もっとも このような資本家的市民というのは ケインズの攻撃した非機能的な市民資本家のことであって 重商主義のアマアガリし終えた超芸術的な存在類型である。
抽象的な概念であってよいと考えた。ただし ヨーロッパ近代市民は この歴史の原点を 復活させてのように 生きたと論じたのである。だから その以前までの すでに貨幣的な評価をあたえられた所有の対象としての土地からは それを剥奪されてでも 自由であったし また資本からも或る意味で自由であったし やはり産業革命を起こしあたらしい産業資本を形成して それ以前までの生活価値一般の 世襲相続的な債権債務の関係を 自由に 清算していった。この動きを 《自然価格》つまりあの原点の基本線として 捉えようとおもう。
もっとも この産業資本(つまり あらたな生活価値の 特に生産手段としての 蓄積)も やがて この自然価格をカサアゲしたような市場価格をもっていった。重商主義の亡霊が あやしく 息を吹き返した。復活した基本線を見失ってではないとしても。
この亡霊は――精神であり 精神の傾きであり 一たんきれいになった精神に ふたたび 住み着くことができたようなのだが―― このとき 近代市民の産業資本家が 旧い身分制などの交通形式を打ち破ろうとし わづかに 国家の形態的な骨格は残したのだから それに依り憑いたゆえ 骸骨として生き返ったと言うべきであるのかも知れない。
息を吹き返す前のというか それとして棲息していた旧い重商主義を批判して・だからじっさい《重商主義》一般を批判して スミスは言う。

輸出の奨励と輸入の阻止とは

  • 精神の交換において 他者の精神への憑依=つまり 自己の精神の輸出を奨励し そこで取り替えた他者の精神を着てのように しかも 輸入の完了を阻止するために その他者の意を汲んでのような思いやり・あわれみの言葉を かける=つまり言葉の表出で 疎外する かくて あたかも精神の交換行為の差額が 自己に残る この行為とは

各国(人間)を富裕ならしめようとする重商主義政策の二つの代表的な手段であるが ある特殊な商品については 重商主義は これとは反対の政策をとっているようである。つまり逆に 輸出を阻止し 輸入を奨励するのがそれである。

  • これは一般に 重商主義という精神の亡霊は 亡霊ではいけないのであって いきいきとしていなければならない ゆえに 仲間(家来つまり もっぱらの借り手なる従者)を必要とする。この仲間うちでは 政策がぎゃくである。また 仲間ではない相手にも 身内にしたいと思うときには それが実現しなくても そうする。

だが こうした政策手段の差異はあっても 究極の目的は 依然として同一である。すなわち 貿易差額を有利にして国を富ませるにある と重商主義〔の交通理論〕は主張する。
国富論 (1) (中公文庫) 4・8)

また おなじく次の文章。その前半では 生活価値つまりわたしたちの言う自然価格のことを言っている。

消費こそはいっさいの生産にとっての唯一の目標であり かつ目的なのである。したがって 生産者の利益は それが消費者の利益を促進するのに必要なかぎりにおいて配慮されるべきものである。この命題は まことに自明の理であって とりたてて証明しようとすることさえおかしいほどである。ところが 重商主義の政策においては 消費者の利益は 終始一貫 生産者の利益の犠牲に供されており 消費ではなく生産こそ いっさいの工業や商業の究極の目標であり かつ目的である と考えられているように思われる。
(同上)

わたしは 嵩上げした市場交換価格は 生活自然価格まで降りて来るように思われる。もちろん 市場価格は 自然価格より低くなるばあいもあるであろうが 要するに そのようなプラス・マイナスの起伏が より一層 合理的なものになっていくであろうとおもう。もちろん 《博愛心に訴えてではなく 自分たちの利益を追求することをとおして》である。
だから ミルの言う《干渉・暴虐からの保護》は 観点をたがえて ただし上のような観点としてのやはり《自己防衛》の交通形式の問題として 論じられるべきだと考えられる。

しかしながら 個人とは区別されたものとしての社会が たとえ何らかの利害関係をもつとしても 単に間接的な利害(交換差額の)関係しかもたない活動の領域が存在している。・・・〔ゆえに〕個人自身にのみかかわりをもつ行動の領域こそ まさに人間の自由の固有の領域である。

  • 民主自由市民というとき この自由は その判断が主観的であることにおいて まず 歴史の原点をもつ。もちろん 主観が そうとう広い範囲の利害関係(たとえば 核エネルギなどは それである)をもったり また 認識としては 社会の全体にかかわって一向に構わないわけである。

第一に それは意識という内面的領域を包含している。最も包括的な意味における良心の自由と 思想および感情の自由を包括し また 実際的もしくは思弁的な問題 科学的・道徳的もしくは神学的な問題のすべてに関する 意見と感想との絶対的な自由を包括する。・・・

  • これは 人間の誕生の歴史の原点であり そして 重商主義の精神も 精神という原点では この第一点 あるいはつづく第三点までを 内容として持っている。

第二に この原理は嗜好および目的追求の自由を必要とする。すなわち われわれ自身の性格に適合するような生活の計画を打ち立てることの自由・・・。
第三に 各個人の自由から 同じ制限のなかで 個人相互間の団結の自由が結果として生まれてくる。
(ミル:自由論 (岩波文庫) 1)

交通形式一般の前提的な内容を ミルはここで言っている。スミスの《同感の原理》も これを含んでいると言って差し支えないと思うのだが いま こうであるならば わたしたちは 重商主義に対して――それは 少なくともウルトラ重商主義(なぜなら ウルトラというのは これも精神であるゆえ このような自由の内容規定にかんしては さらにそれへ憑依していくような動き)は もはや敵だと思うが―― 重商主義一般に対して 取り立てて あい向かい合う必要はない。つまり 自己の利害関係のおよぶ範囲で 対処していくというのが 一般であり 問題は 考えられるとすれば このような《自己(その同一)》にもとづく自己の利益の追求として 産業をおこす もしくは既成の産業を このような《自己》たちの自然価格のもとに編成しなおすことではないだろうか。
自然価格は 自己の利益の問題である。市場交換価格は 時に客観的なと見えるほどであり その差額の獲得を目的とするばあい 主観の利益の追求でもあるのだけれど じっさいすでに あの近代市民の以降は ただ骨格として 主観的・自己的であるのみなのであって わづかに《国家》としてだけ 主観(?)的・自己(?)的な全内容をもつようになっている。
自己の利益としての自然価格値から乖離する市場価格のプラス・マイナスを 差し引き集計した結果の 国民経済としてのみ 主観的となっている。なぜなら おのおの主観的な利益の追求だとおもっている経済活動の結果 得た報酬を 一たん集計し これを公共事業や社会福祉に再分配したものが おのおの主観的な生活価値だから。この骨組みにおいて 産業はすでに 歴史の原点を 再出発点としては 社会の全体にまで普及させた。国家という骨組みにおいて 主観的な歴史の原点が 普及した。
つまり 一たん近代以前の債権債務の関係を精算してのような《自然価格‐〔狭義の〕市場価格》の構造連関から成る生活価値の動態をもって再出発したのであり じっさいミルの言う《自由》は 少なくとも法律(交通規則の社会一般的な規範)としては 国家も――国家が――すでに掲げているのであって この枠組のなかで産業は すでに(=まったく)この原点市民社会の構成内容から 無縁でなくなっている。
もちろん この構成内容を さらにさらにカサアゲしていこうというウルトラ重商主義が いるかどうか いるかも知れないとは言え またもし それらに 影響は受けても 左右されることは ありえなくなっている。それは 重商主義が精神であったから 交通規則をないがしろにするのではなく――少なくとも タテマエとして そうではなく―― それの内容充実を図ってきた動きがあるからである。
だとすると そういう時代にいたっていると思うし だとすると ふたたび自己の利益の追求は 現下の・目下の・ただいまの・焦眉の課題であり 生活内容である。言いかえると もはや単純に《重商主義よ さようなら》という事態は すでに そう言い出すかどうかにのみ かかっているように思われる。
なおかつ この重商主義の精神と政策に対して 博愛心にうったえることによっても 或いは 解剖学的にその欠陥を指摘し批判することによっても われわれは すすまない。学問的な分析作業は必要であるし 博愛心も それじたい 必要であるというか すでに 歴史の原点は これを内包している。そして 自己の生活価値の利益の追求が 一つの基本線である。その主観の 歴史の原点が 国家(民主国家・福祉国家)という骨組みにおいて 普及しているのであるから 主観の利益追求は この国家の制度を 社会的に都合のよいような方向へ 変えていくことが 同じ基本線のもつ内容として わたしたちの前にある。
主観イコール国家とまでは言わないとしても――国家イコール主観であると言う人はいなくなった―― 主観は国家の枠組と かかわっている。それが 原点社会の生活価値のふつうの内容であるかどうかは 議論の余地があるけれども カサアゲされ事後的に承認される生活価格ではあって その限りで 有効価格・有効な債権債務関係の総体とはなっている。これに対して 精算すべきは精算し 内容充実をはかっていくことは わたしたちに自由である。これを 一人ひとり あくまでも主観的に おこなうのである。
(つづく→2006-11-15 - caguirofie061115)