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哲学いろいろ

#47

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Césarée de Philippe.

Apparemment connu sous le nom de Baal Hermon et Baal Gad dans l'Ancien Testament, ce site fut plus tard nommé Panias d'après le dieu grec Pan adoré à cet endroit.

Aucun écrit n'indique que Jésus entra à l'intérieur, cependant c'est dans les environs de la ville qu'ont lieu la reconnaissance de Pierre envers Jésus en tant que Messie et la transfiguration (Matt 16:13), connue alors sous le nom de Césarée de Philippe.

第二部 ヤシロロジ(社会科学)におけるインタスサノヲイスム

第二十六章b インタスサノヲイストとしての矢内原忠雄のばあい

――アウグスティヌス ますます強くなる――


しかし――矢内原忠雄についての議論です―― 

吾人はこれに対して言う。 

社会事情はキリスト教(キリスト史観)成立の外的条件に過ぎない。条件があっても 原因(第一原因――神と言わずとも 《歴史のかまど》であるS圏やしろ資本形成の愛――)がなければ事実は発生しない。(この主体的な愛の行為主体は 社会事情そのものではないだろう)。環境があっても生命(愛)がなければ発展は生じないのである。

この《原因 / 生命》は なるほど《主観》の中にあって初めて 人間の歴史的であると言うことになるのだが それらは 《エートス》ではないだろう。《エートス》は この《原因》を帯びた《主観》の 《社会事情》に対処する関係 その思惟=行為の形式である。
《方法》は 《主観》の自然本性そのものの動態であって 主観において 《告白》をなすか それとも それをなさないままであるかでしかない。三行為(記憶‐知解‐意志)能力の一体性なる像そのものでしかない。自己還帰というときの自己であり あとは 方法に立った理論と実践つまり生活があるのみである。
この理論と実践とにかんして 主体的には《エートス》 客体的には《社会事情》(ただし 社会事情も共同観念的なエートスたりうる。したがってそのときには より狭く《利害関係情況》)がそこにあると分析することができるのみである。
なるほど この意味で《エートス階級闘争》とで ヤシロロジの《価値自由的な分析》(価値解釈を含む)をなすことはできる。しかしそれは わたしたちの言う《方法》ではない。かれらはかれらなりに それを 学問の方法だと言うことができる。しかし わたしたちの学問は この《方法》じたいがそれであり 第二次的な・研究の場合における方法を ここでは方法とは言わないのであり そのことは 分野のちがいによるばかりではなく そもそも学問という概念=現実じたいを問うということであった。もし かれらの学問の方法が わたしたちのインタスサノヲイスムの学的方法と同じ領域にあってあくまで第一次的な探求であるとしたばあい その場合でも その弁論術に用いる言葉は 客観アマテラス語の観念普遍(要するに 精神の定規かつ徳および美)なのであって どう考えてもS語井戸端会議の上塗りなのである。そうだとしたら 不必要なばかりではなく その自らの誤謬にみちびこうとする罠でしかないと言い続けてきたのだった。
したがって ウェーバーのヤシロロジに立つなら 広義の《社会事情》に――もしくは かれの言葉で《時代(日ごと)の要求 デーモンの要請》に―― ただ従うというのに過ぎない。なぜなら 《学問》を――つまりわれわれの概念では 方法・生活・人間の自然本性を―― 神としたのだから。この持続的な人間の自然本性(三一性)も なお神(三位一体)の似像であると考えられたのであり それは・つまりわれわれは 見えざるやしろ資本推進力によって生き動き存在すると考えられた。
わたしたちも 愛とかやしろ資本推進力とかと表現して事足れりとしてはいない。けれども それは なぞなのである。この神を しかしながら かれらは (1)精神として・精神において捉え (2)さらに 社会の心理的な観念共同の事情であるとか あるいは 《人間類型》として 具体化させ そこに経験的な起動力があるとして規定してしまった (3)時には この精神の・結局は心理的な起動力つまりエートスは 経済的な利害関係とは別であると捉え それらに 優劣・善悪・聖俗の対立をも想定した。 
このとき エートスの取扱いが 微妙である。なぞである神との関係としてどう位置づけるかが 微妙な問題であった。わたしたちは 各自のエートス(くせ)によって そのやしろの役割の分担などに違いはあるが(多様性は当然であり さらにまた対立さえあるが) その方法(共同主観)は 一つであると考えた。ウェーバーは 必然の王国の商品連関・利害関係が動因であることのほかに このエートスが 精神の知力として・あるいは神がそこにはたらきたまうと言ってのように われわれのもう一つの原動力であると言った。わたしたちは エートスもなお外的な条件である社会事情であり それは歴史的に変遷すると捉えた。また 広義の意味では 自然本性=三行為能力一体性の場である心として 方法に関係すると言って言えなくは無い。
(その場合には 概念の定義が問題となる。しかしもし 《宗教の心理的・実際的な諸関連のうちに根底をもつ行為への実践的〈起動力〉》(§24)が エートスであるとするなら それは 《場》であることを離れて 愛の力そのものとなる。与ひょうが つうに刺さった矢を抜いてやったのは この愛の力によるが つうが愛しかのじょの実践的起動力となったものは この与ひょうの愛の力を自分の中で翻訳し想像しさらに たとえばこの《場》を《無限に大きなもの》と確信したところのそれである。少なくとも このようなエートス概念が まだきわめて曖昧であり 誤謬を含む余地がある。いまさらながら つうは 羽根を抜いて売れるモノを作ったというその自らが犠牲になった行為について 筋道立てた説明が 要請されるはずである。犠牲となることが確信犯だったとするなら その理論は いかなる内容のものか。おかねっていう世界が 自分には分からず 言葉がちがうというその主張について 細かい説明が必要であろう。つまり 互いに相容れない二つの根元だというその根拠はなにか。二元論に なにゆえ 立たなければならないのか。)
けれども《イエスは――そしてヤシロロジのほんとうの樹立という点では マルクスは―― 同時代の多数者に認められなかった。しかしその事実をもってかれの人格を無視する証明となすことはできない。いま 真実なる人格は 最も同時代の社会より認められざるものである》。この最後の一文には 注釈が必要である。共同主観者である使徒(アポストロスつまり神の国の外交官)であるパウロが言うには 

光栄と恥辱によっても 悪評と好評によっても 神の奉仕者として自分たち自身(つまり方法)を勧める。(また 時に対話をつうじて 共同主観を強いるようにさえ勧める)。誘惑(いざな)う者のようで 真実であり 人に知られざるがごとくして しかも知られ 死ぬばかりでありつつ しかも見よ 生きている。
懲罰を受けているようで(《警察の対象になる》(フォイエルバッハ))ようであるが 殺されず 悲しんでいるようであるが 常に喜んでいる。貧しいようであるが 多くの人を富ませ 無一物のようであるが すべてを所有している。
(コリント後書6:8−10)

であるから。そうして この共同主観者の愛(資本形成推進力の分有)は 社会事情に関係なくと言おうか あるいはそれを外的条件としてと言おうか イエスなる一人格によって 告知された。いな キリスト・イエスその人が この《愛》・その力であったと 時に滞留して わたしたちは告白する。
この方法は エートスでも人間類型でもない。まして 経済的な利害関係そのものではない。後者にかんする経済学的な理論は この方法から表現されることがらである。方法そのものは 時にたとえば《コミュニスムの人間愛は 実在的であり つねに活動しようとして緊張している》(マルクス)というふうな例に見るごとく 表現されないということは出来ないが これもあまり表現しないのである。マルクスの上の表現例が そうでないのと同じように エートスであるとも見ないし エートス的にもあまり表現しようとしないのである。
ただわづかに 理論の大前提 原則的な理論(つまり 観想)として これを明らかにして語る。そのようにして 滞留するのであり 滞留することができる。このキリスト者が 唯物史観するのである。理論として。エートスを言う人びとは この表現し史観し行為する人たちの内的な行動の諸動機を捉えようとして 類型的に その法則性がエートスとして存在するであろうと言う。しかも 法則性であるにしろ無いにしろ このエートス(行為形式)を 現実の利害関係と一旦切り離して捉えまた分析するなら 第一次的な表現・行為の観察としてのうわさ(井戸端会議)のそのまた二番煎じであること請け合いである。
エートスを 片や 経済的な利害関係と離してしまうなら 精神の領域を想定しなければならなくなり 片や この精神の領域を 利害関係をも含めた社会情況に対する起動力だというなら 或る種の仕方で すでにこのエートスは いわゆる神の力と重なることになる。神の力を含めて エートスを想定するなら 利害関係など世俗のことがらは あたかも いまの神と切り離す要が生じ そこで 聖と俗との二元論に陥る。
井戸端会議は 利害関係の個々の情況を 分割しないで エートスというならエートスをも含めて互いにうわさするのであり また これのみである。これらをA語客観理論化した二番煎じが 有効・有益であると言い張るには その《学問》を いづれにしろ権威づけていなければならない。むしろこの学問の権威づけが先にあると言ってもよい。また そのためには 自己の精神の知力によるアマガケリが そのさらに先に(前段階として)必要となっていた。しかし わたしたちは はじめの井戸端会議を 客観A語を用いつつも その客観A語観念共同の世界へ引き行かず つまり《ここ》からアマガケリすることなく 何とかして 方法の滞留(アマアガリ)を得ることによって 実際的な学・生活として 理性的に知解し表現して 人びとに提示しようとするのである。
ここで エートスは 結果的に形成されて認識しうるまでになっているかも知れないが その知解・表現・提示のときには むしろまったく関係がない。
けれども 

何よりも明白なるは われらがイエスに救はれた事実――第一の死から 復活せしめられた《わたし》の力尽き果てるとき かれの愛に燃え立たしめられた事実――である。アマアガリなる回心である。
われらはイエスに救はれて知っている。かれが類いなき人格であり キリスト史観の根本はかれの人格にあることを。

この告白は なさなくともよいが 《方法》が《エートス》によって蔽われようとするとき 一つに必要である。つまりそこに還っている必要がある。また 告白は ここまでである。(マルクスが 告白・ためいきを嫌ったというのは かれのエートス(くせ)である。第一次的な《くせ》を 第二次的な・普遍的だが同時につねに抽象的な《人間類型》にまでちょうどアマガケリさせ高めるのが ウェーバー学派だ。)
あとは 《博学なるエンゲルス カウツキーの徒》を 《ウェーバーの徒》と言いかえるなら 矢内原の方法は よみがえったことになろう。もしエートスを言うなら 《第一次的なエートス》のさらにその核たる方法が 《霊の問題》なのであるから。
わたしたちは この論議を 次章に引き継ごう。(矢内原の引用文に対する註解は ここまでである)。
(つづく→2007-02-09 - caguirofie070209)